第12話 支え

朝から休むことなく世界を照らし続けた太陽が、役目を終えて西の空の向こうにそびえる山々の尾根にようやく姿を隠す。


 鮮やかなオレンジ色から緩やかに光を失い始める夕空の下、昇降口の扉の前に立ち、テニスコートをぼんやりと眺めながら待つ。


 視線の先では、コート整備が終わってトンボをフェンスに立てかけた部員たちが、三々五々更衣室へと去って行く。


 私にはもう関係がないはずなのに、どうしても目で追ってしまう。

 

 どうやら今日もちゃんと部員が揃っているようだ。

 そのことに思わずほっとする。

 

 さすがは恵美ちゃん。


 私にはどうやってもうまくできなかったことなのに、トラブルでゴチャゴチャした状況を引き継いでも、ちゃんとそつなくこなしている。


 初めから恵美ちゃんの方に部長を任せてくれれば良かったのに。

 私も当時の部員の皆も恵美ちゃんが次の部長だとずっと思っていた。


 遠坂部長は、なぜ私なんかを選んでしまったのだろう。

 恵美ちゃんを副部長にしてくれたのは本当に助かったけど、恵美ちゃんと逆の方が良かったのではないだろうか。


「りんちゃん、お待たせー。なに黄昏れちゃってんの~?」

 

 元気のいい声と共に、背後から綾音が抱きついてくる。

 体重を支えきれずに数歩よろめいた。

 

 なんだかここのところスキンシップが激しくなっているように感じる。

 私を気遣ってくれているのだろうか。

 

「んー。校内でなぜか突然抱きついてきた不審者がいてね。警察に通報すべきか検討してたところ」


 しがみついた背中から離れ、私の横に並びながら、軽口を続ける。

 

「またまたー。こんな可愛い子に抱きつかれて嬉しいくせに」

「あ、ちょっと待って。自分で言っておいてなんだけど、『可愛い』も『嬉しい』もどっちか片方でも否定されたら立ち直れない気がする。何も言わないで!」


 綾音の一人コントを聴きながらも、意識はここではないどこか別の場所を漂っている。


 綾音がわざとおどけてくれているのは、痛いほどわかる。

 失礼だとわかっていても、溢れそうになる感情をどうすることもできなかった。


 目の前に広がる夕暮れの景色とヒグラシの物悲しい鳴き声に何故か目頭が熱くなる。

 

 テニスコートに既に人影はなく、ネットを取り去られた支柱だけが、赤錆びた肌を夕日に晒してポツンと佇んでいる。


 役目を終え、ただ風雨に晒されるだけの鉄の塊。その寂しげな姿は、居場所をなくした私自身のように思えた。


 ヒグラシの静かな鳴き声が夕日と共に去ったあと、帳の降りた夜のコートの漆黒の闇に閉ざされた世界で、ただ一人朝まで耐え続けるのだろうか。


 明日も、明後日も、そしてその先もずっと。

 

「八人もいるよ」


「え?」


 思いがけない言葉に慌てて振り返る。

 テニスコートを見据えていた視線をこちらに向け、綾音が暖かい笑顔で言葉を続ける。

 

「一人じゃないよ。テニスネットのポール。仲間がそばでちゃんと見守ってる」


「どうして……」


「なんか、りんちゃんが真剣な顔でポールを見つめてるからさ。『寂しそう(涙)』とか感情移入してるのかな~?と思って」

 

 そして、続ける。


「りんちゃんも、一人じゃないよ。私はいつもここにいるし、おじさまとおばさまも朝から晩までりんちゃんのことを想っている。それに、今日からまた仲間も増えたよね」


「うん……。ありがとう」

 

 テニスコートに目をやると、面ごとに二人ずつ向かい合って並ぶ支柱が見える。

 そうか、と顔を戻せば、隣に立つ少女の優しい笑顔に視線が引き寄せられる。

 

 私はこの騒がしくも暖かい親友にどれだけ助けられているんだろう。

 綾音の支えなしであのどん底から前を向けただろうか。

 私は彼女に少しでも何かを返せているのかな。



 さて、とつぶやき、おもむろに私の左手を取って前へと歩き出す。

 

「さあ、おばさまの待つ家へ帰ろう」


「うん」

 

 綾音の横に並び、歩幅を合わせて歩き出す。


「久しぶりだよね、りんちゃんと一緒に家へ帰るの」


「そういえば、そうかもしれないね。ここに入学するまでは毎日一緒に帰っていたのに」

 

「りんちゃん、部活が終わってからもいつも真剣に自主練習をしていたもんね。とっくに日が落ちてるのによく頑張るなあと」


「うん。だって、まだあと三十分ぐらいは明るいし。暗くなっても、あの街灯のおかげでサービスラインは見えたから。最後はいつもサーブの練習」

 

 ――ずっと、ずっと。脇目も振らず、地道に全力で取り組んで来たのに。

 ――みんなのために、部長として背伸びして手を尽くして走り回ったのに。

 

「いつもちゃんと見ていたよ。昇降口から校門まで、毎日この道を通るからさ」

「集中しているりんちゃんの邪魔をしないように、一度も声はかけられなかったけど」

「がんばったね。りんちゃん。そんなりんちゃん、私は好きだよ」


「うん」


 心の奥に淀んでいた澱が溶けて流れていくのがわかる。

 日だまりのような彼女が、ただそこにいて、たった一言かけてくれるだけで、固く凍えていた心が春の雪のように穏やかに溶かされ崩れていく。

 

 刻一刻と色彩を失っていく穏やかな景色の中、降り注ぐヒグラシの合奏に送り出されるように、二人で校門へ向けて並木道を進む。

 賑やかで、優しくて、いたずら好きで、気遣いのできる親友に手を引かれながら。


 来た道を振り返ってみれば、コートに佇む八本の支柱たちも残照と灯り始めた街路灯の明かりの中で、校庭の端から昇り始めた満月を見上げながら、にぎやかに団欒しているように見える。


 テニスコートで寄り添う『支柱家族』に別れを告げ、ぐるっと月を見上げて大きく息を吸う。

 吹き抜ける風に、昼間は感じられなかった秋の気配がかすかに香る。


 再び前を向くと、すぐ横から綾音の声が聞こえる。

 


「また、今日から一緒に帰れるね」


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