第8話 新世界

『プゥー、プッ』『ブォォォ……』


 重厚な扉越しでも、空気が震えているのがわかる。


 腹の底に響くような低音と、空気を切り裂くような高音。


 音楽室から漏れ出すそれらが、何の楽器の音なのか私にはわからない。

 けれど、ボールを打つ乾いた音とは違う、濃密な音の奔流に圧倒されそうになる。


 楽器を見れば区別はつく。

 演奏会なら、それなりに聞き分けられる気もする。

 なのに、この練習の音はどうして区別がつかないのかな。


 それぞれ音程が変わらないので、旋律の練習ではないのだろう。

 楽器を鳴らす基礎練習をしている一年生か、それとも息のコントロールを磨いている上級生か。


 テニスだって同じだ。

 華やかなラリーの裏には、地味で苦しい基礎トレーニングがある。

 きちんと筋力と持久力を付けておかないと、どんなに高度な技術を磨いても試合では通用しない。


 でもテニスに憧れて入ってくる部員に伝えても、なかなか理解してもらえないし、嫌がられる。

 基礎練は地味だし苦しいから。

 ラリーとか試合形式ばかり求められる。


『ブブブォ……』


 扉の向こう側から繰り返し響いてくる、低音の響きを肌で感じながら考える。


 きっと楽器の演奏でもそのあたりは同じだろう。

 特に金管楽器は、あれだけの音量を自分の息だけで鳴らし、しかもブレスまで継続して吐き続ける。

 どれだけの肺活量が必要なんだろうか。


 弦楽器や打楽器だって、金管楽器に劣らず繊細さや速度など見えない努力が必要なのは間違いないだろう。

 両親に連れていってもらうオーケストラや室内楽のコンサートでも、聴くたびに心揺さぶられる。

 あれだけの感動的な音色や旋律を奏でられるようになるためには、いったいどれだけの練習が必要なのか。


 小学校の鼓笛隊でしか触れたことの無い素人が、しかも新入生ではなく残り数ヶ月しか在籍しない形で首を突っ込むなんて。

 真面目に一生懸命練習してきた人たちに失礼じゃないだろうか……。

 

 そもそも……。


「お、不審者一名を確保っ!」


 入るに入れない音楽室の入り口で、ドアノブに手をかけたまま思考の渦を漂流していると、後ろから聞き慣れた声に飛びつかれた。


「ちょ、人聞き悪いからやめてよ。ほんの少し迷っていただけじゃない。どちらかと言えば、後ろから突然抱きついてくる綾音の方が不審者でしょ?」


 体をよじって引き離そうとしても、がっちり腕をまわされていてはずせない。


「え~? りんちゃんの『ほんの少し』という言葉は、ドアに手をかけたまま数分以上も固まってる状況を含むの?」


「う。あれ、後ろでずっと見てたの? 何分も? 綾音は不審者というよりも実はストーカーなんでしょ」


 全然気づかなかった。廊下だし、他の生徒も通っていたのかな。恥ずかしすぎる。


 首筋に息のあたる距離。

 そのおちゃらけた言葉や態度とは裏腹に、暖かく包み込むようにまわした腕にぎゅっと力がこもる。


 綾音はそのまま言葉を続けた。


「だってさ、ドアに手をかけては離れたり、真面目な顔したと思えば急に顔青くしたり。あげくに突然ほっぺ叩くし、りんちゃんおもしろいからさー」


 綾音は私の体にまわしていた腕を解くと、『ごめんごめん』と顔の前で片手挙げた。

 軽く謝るふりをして、ひらりと体を離す。


「だいじょうぶだよ」


 私の前へ回り込みざま耳元に口を寄せてささやくと、音楽室のドアを一気に開いた。

 その勢いのまま振り返り、強いまなざしで私を射抜く。

 

 そして、満面の笑みで高らかに宣言する。



「金管バンドへようこそ!」

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