87日と3時間46分の休暇

朝雛足疋

87日と3時間46分の休暇

 急に何かがこみあげてくるような、あるいは横隔膜を軽くなでられているような、はたまたやることなすこと全てが間違っていると突きつけられたような、そんな厭な予感があるとなんとなく思っていたのだが、その予感は数分後には見事に過呼吸という形で現れた。甲高い悲鳴のような声と混ざって、身体中が酸素を欲しがってあえぐ。ぶるぶると震えて、身体のコントロールが利かなくなる。家の中で良かった、公共交通機関を利用している時や、なにより、職場の中じゃなくてよかった、と思いながら、綿貫閂は、身体を丸め、両手で強く握りしめた。

 心拍数があがり、締め付けられるようになっている頭の中で、どくどくという音が響いている。落ち着け、落ち着けと念じても無駄だった。お願いだから収まってくれ、と思う気持ちと、このままずっと息が吸えなかったら終われるんだろうか、という気持ちが綯い交ぜになる。意識が遠のきそうになった瞬間、そばに放り投げていた端末から無機質なメロディが鳴った。着信を知らせる音だ。時刻は真夜中の一時頃を過ぎていて、夜も更けているこんな時間にこんなタイミングで端末をならす存在には心当たりがある。応答せずにいたら、強制的に画面が切り替わり、勝手に通話が繋がった。

 かち、かち、かち、かち、かち。

 機械的な音が一定の速度で、端末から流れてきた。メトロノームの音だった。幼少期に、教養として楽器に触れていた経験を持つ閂は、反射的にそれが分かった。テンポは六十くらい。丁度平常時の脈拍をちょっと遅めにしたくらいだ。息を大仰に吸い込む音に負けないボリュームで、明確に、確実にリズムを打ち込んでくる。築年数が比較的新しいこのアパートは、そこまで壁は薄くないけれど、もし隣人に聞こえていたら、相当安眠妨害になるだろうと思わざるをえないような、執拗さで。

 不思議なことに、あれだけヒステリックだった呼吸は、その音に合わせて徐々に落ち着いてきた。ひゅっひゅっひゅっという忙しない音から、ひゅ、ひゅ、ひゅという、少し余裕のある息づかいに変わり、そこから更に、ひゅう、ひゅう、と普段の呼吸に近いペースまで戻り、隣の部屋の人は、確か気の弱そうな男性である、ということを思い出した。ひゅう、すう、と閂の息が完全に整い、そしてその隣人と、最近身の回りで不審なことが相次いでいて、困っているという世間話を交わしたことまで記憶に浮かんだところで「お疲れ」と、端末から声が発せられた。

 職場の上司の声だった。普段直に聞いている声よりも、わずかにノイズが混ざった声。機械に通すと声質が変化するのは、人間もアンドロイドも同じなのだな。閂はどうでもいいことを思い、

「……こんばんは、コト」

 と、背中を丸めた姿勢のまま、そう答えた。手先が冷えていた。嫌な汗をかいていて、心臓のあたりが、薄ら寒いような気がしている。それでも、

「助かりました」

 と、閂は平静を装って、そう続けた。

「パニックになってしまったみたいだったで」

「知ってるよ」

 と、上司であり、かつ、高性能の演算処理を有するアンドロイドのコトは事もなげに言った。口調は穏やかで、静かだ。笑みさえ含んでいそうな物言いだったけれど、普段の冷め切った瞳が目に浮かぶようだった。

 閂は、腕に巻かれている銀色のスパイラルリングに目をやる。このリングは、持ち主のリアルタイムの生体データを収集している。職場の人間ならば、全員が身につけているものだ。そして、コトはそのデータにアクセスできる権限を持っている。

 もし仮に、突発的な事態が閂の身に起これば、そのバイタルデータの変化から、即座にコトはそれを把握するだろう。支給された端末を介して連絡が寄越され、応答がなければ、膨大な情報から最も適当な処置が行われる。先ほどのメトロノームの音も、その処置の一環だったはずだ。

 ……メトロノームの規則的な音が、恐慌を来した自分のメンタルを、ああも劇的に落ち着かせることを、閂は今の今まで知らなかった。コトが、一体どれほどの自分に関するデータを手にしていて、そしてそれに基づき、自分を解析しているのか、想像もつかなかった。

 人工知能の研究が盛んに取り沙汰されている昨今だけれど、それとは全くもって違う次元の話で、もうすでに高度に自立的な思考を行う人工知能を搭載したアンドロイドが完成しているということを、果たして知っている人はどれだけいるだろう。そしてそのアンドロイド達が、我々人間の生活をコントロールしているなんて、きっと夢にも思っていないに違いない。少なくとも、閂は今の職業に就くまで全く知らなかった。ネットで検索しても、そういった話はよくある都市伝説の一種とされていて、ほとんど本気にしている人はいないようだから、別に閂が特別世情に疎いというわけでもないのだろう。

 偶然を装って、あるいは必然を偽って、その特別製のアンドロイド達はそっと社会の歯車を調整し、流れを修正する。それが行われる形は様々だ。例えばSNSで、ある投稿がバズることかもしれないし、メディアで少し何かが映り込むことなのかもしれない。はたまた、誰かが誰かとぶつかることなのかも。

 バタフライエフェクトを起こす部署なんだよ、ここは。閂が配属された初日に、コトはそうやって端的に業務を説明した。

 自分たちの生活が、そうやって監視されて調整を受けていたことを知って初めは衝撃を受けたけれど、それとは別に、管理する側に回ったということでなんだか特別な存在になれたような浮ついた気持ちになった。自分が必死に優秀な人間たらんとして努力してきたことはこのためだったのだと本気で感じた。実際の業務は非常に地味だったとしても。

 結局のところ、人の行動を操るなんて、ビックデータを集積し、分析し、予想して、行動し、その結果をまた分析する、という地道な作業の積み重ねだ。データの収集から整理、分析や予想まではアンドロイドが行い、人間の閂たちは、その結果を受けて、それ以外の全てを行う。そうして、社会が適度な許容範囲を逸脱しないように、均していく。

 その仕事を、閂は、およそ三ヶ月前から放棄していた。その職についての三年間、一度も休んだことが無かったのに。

 コトが電話の向こうで、少し笑った気配がした。どうして笑ったのか、閂には分からない。閂が分からないことを、コトは分かっているような気がするから、

「まだ駄目そうか」

 と、コトに聞かれた時に、閂は

「駄目です」

 と、正直に答えた。そうか、と答える上司の声に、陰りはない。閂は床の模様をじっと見つめながら、上司の声を聞く。

「まあよく休めよ」

 と、物わかりの良い──良すぎる上司は言う。

「こっちは正直なところ、閂、お前がいなくて駄目だ、駄目すぎる、お前が早く職場に復帰する日を一日千秋の気持ちで待ってるよ」

 思わず笑ってしまった。皮肉っぽい、乾いた笑いが、口の端からこぼれ落ちる。

「……今度は口説き文句ですか」

 コトが連絡を寄越してきたのは、これが初めてではない。そのたびに、こちらの状況を尋ねてから、閂が職場に復帰するような誘い文句を口にする。交渉も、恫喝も、叱責も、泣き落としも、全て体験済みだ。どれもこれも、心は酷く揺さぶられたのだけれど、相手がコトだと思えばそのざわめきはすぐに落ち着いた。相手の言葉は、どれも本気ではない。ただ単にデータが導き出した、その時に最適だと思われる音の羅列なのだ。

 そう思えば、頭は冴える。水を掛けられたように。

「正直なところだけどな。小鷹が騒いで困ってるんだ。一刻も早く綿貫さんを職場復帰させてくださいじゃないと私淋しくて死んじゃいますって」

「嘘でしょう」

「嘘だ」

 コトは悪びれた様子もない。閂はため息をつく。自分にしか興味がないあの小鳥遊小鷹が、果たして同僚の不在に気がついているのかさえ、怪しいところだ、と閂は思った。

「すみません。コト」

 と、閂は切り出す。いつものように。

「なんだ?」

「仕事、辞めたいんですけど」

「できない相談だな」

 コトは軽やかに、閂の申し出を却下する。いつものように。

「なんでですか」

 と、毎回律儀に聞いてしまう自分も自分だ、と閂は何気なく顔を上げて玄関を見た。鍵が二つ、チェーンが一つついている、一般的な部屋の扉は、静かに閉ざされている。その扉を見ながら、閂は言う。

「自分は小鳥遊みたいに優秀じゃ無いですし、仕事もそこまでできませんし。第一、あの職場に残れるだけの人間じゃないですよ。私が所属しているというだけで、リスクがあると思います」

「面白いほど自己評価が低いけど、興味深いほど端的に客観視ができている、閂のそういうところ、俺は好きなんだよな」

「あの業務量にはついていけないんです。将来自分が歳を重ねたとき、身体を壊すことを目に見えている。働きたくないんです。逃げたいんです。何もしたくないんです」

「だから言ってるだろ? ゆっくり休めって。好きなだけ休んで良いよ。お前の有給はまだ余ってるし、有給が無くなっても俺がデータを操作すれば、いくらでもお前は休める」

「職権乱用ですよ。周りがなんて言うか」

「少なくとも小鷹は気にしないだろうな。小鷹に限らず、誰も何も言わないさ。お前のことなんか気にしてない」

「……本当に、何でなんです?」

 閂はとうとう困惑して、自分とは遠くかけ離れた存在である高性能の人工知能に尋ねる。

「どうしてそこまでするんですか?」

「いつも言ってるだろ。お前が必要だからだ」

 端的な一言だった。ぐ、と何かが喉に詰まるようなそんな感覚がある。跪いた姿勢で、閂はゆっくりと息を吐いた。

「私じゃなくたっていいでしょう、駒は」

 そういう仕事であることは理解していた。汚れ仕事をする仕事だと言うことは。そのことを分かって入社したのに、結局のところ、閂は仕事に嫌気が差してしまったのだった。一秒単位でこなすことを要求されるスケジュール、労働基準法をせせら笑うような勤務体勢は別に良い。問題はそこではない。

 閂は──業務の一環で、助けを求める人を、見捨てた。

 事情は込み入っていて、客観的に判断して閂に非はなかった。そもそも、業務中の行為により、無関係の第三者の不利益が生じたとしても、その責任は問われない。けれども、閂の中でそれはどうしても、引っかかった。何のためにこの仕事をしているんだ? と一旦頭をもたげたその問いに、閂は折り合いをつけることができなかった。

 だから休んでいる。向いていないとも思ったから、今後の生活が不自由になることも承知の上で辞職を願い出た。それでもコトは、それを受理しない。バグっているとしか思えない。

「駒だなんて、思っているはずないだろ」

 と、コトは言う。温厚に、ソフトに、優しく。

「俺たちは、お前らがよりよい生活を送るために生み出されたんだから」

 ぞっとするような言葉だった。大多数がよりよい生活を送るために、一部の人間が踏み台にされているのは良しとされるのか。人の幸不幸が、誰かの意思でコントロールされて良いものなのか。仮にそれで、今の秩序有る社会が保たれているとしても、そんな醜悪なことに関わるのはごめんだった。

「……今度出社したら、自分はあなたのことをめちゃくちゃに壊すかもしれません」

「そうなったら俺のスペアがある。大丈夫、いくらでも壊してくれ。バックアップは何重にも取ってあるんだ」

「小鳥遊や、他の人も無事では済まないかも」

「お前が出し抜けるほど、あいつらは間抜けじゃない。お前がどんなに虎視眈々と準備しようと、あいつらが害されることはないって俺が断言してやるよ」

 逃げられない。それを冷たい気持ちで閂は感じる。どこまでも光を吸い込むような黒い水のようなものが、自分の周りにひたひたと満ちていく気がする。

「……分かりました」閂は言った。「自分は、明日も休ませていただきます」

「うん。ゆっくり休んでくれ」上司は朗らかに答える。「じゃあな。お休み」

 通話は切れた。閂は息を吐き、それから両手で握っていた包丁を、再び、握り直す。痛いのは厭だ。死ぬのも怖い。過呼吸を起こしてしまうくらいには。この選択が取れなかったのは、偏に自分が意気地なしなだけだ。けれど、やはり、逃げられないのだ。あの仕事からは、あの上司からは。だとすれば、自分が自由になるとするならば、こうするしかない。

 息を吸う。吐く。覚悟を決める。

 自分の腹に刃を突き立てようとした瞬間、どんどん、と乱暴に扉が叩かれた。閂ははっと顔を上げる。こんな時間に、一体何だ? 隣人からの苦情だろうか? そんなまさか。得体の知れない恐怖が身体を凍り付かせる。どんどんどんどん、と逼迫した扉のノック。がちゃがちゃがちゃと、鍵がかかっているドアノブが回される。それから、扉の向こうから叫び声。聞き覚えがあった。

 閂の身体は自然と動き、鍵を開けて、扉にすがりつくようにして震えていた血まみれの隣人を部屋の中に引きずり込んだ。それから包丁を構えて、隣の部屋からゆらりと出てきた人影と対峙する。


 翌朝、閂が出社すると奥のデスクで指を組んでいたコトが「おはよう」と朗らかに微笑んできた。柔和で童顔の造作に、小柄な体躯をしているので、まるで高校生かそれくらいの子どもが座っているように見える。

「休むんじゃなかったのか」

 三ヶ月あまりの休暇が、まるで無かったかのように、そんな風に言う。

「休み中に職場に来ちゃいけないですか?」

 と閂は平然を装ってそう返した。上司は、「いや? ちっとも」と肩をすくめて見せた。

「閂の好きにしたらいいさ。昨日は大変だったみたいだしな」

 揶揄するように言って、にやっと笑う。

 昨夜、隣人の男性を襲ったのは、彼の職場の同僚だった。詳しい事情はよく分からなかったのだけれど、負傷している隣人の話を統合すると、随分彼に執着していたらしく、一連の不審な事柄も、すべてその人物に依るものだったらしい。閂はつつがなくその危険人物を警察に引き渡し、隣人のために救急車を呼んだ。双方から事情を聞かれたり、手続きなど諸々の対応をしていたら、そのまま朝になっていた。

 そして、閂は職場に来た。 

 三ヶ月ぶりの自席に座る。ノートパソコンとモニタが置かれただけの、綺麗に整理された机には、なんの付箋もメモも置かれていない。電子機器を起動するためのパスワードも忘れかけていて、もたもたと支度をしていたら、「はよーざです」という独特な挨拶と共に、小鳥遊小鷹が部屋に入ってきた。彼女の髪は基本的に真っ白で、その中にピンクと緑の房が混ざっているので(そういう風に染めていると聞いた)、閂は彼女を見る度に、ひやむぎを思い出す。小鷹は、閂の姿を認めて、「あれ」と丸い眼鏡の奥の瞳を見開いた。

「綿貫じゃん。なんか痩せた? めっちゃ久しぶりな気がするけど」

 コトが苦笑する。「まあ、三ヶ月ほどいなかったからな」

「あれそんなに? なんか見当たらないなーと思って、辞めたのかなーって思ってたんだけど」

 辞めてなかったんだねーと、小鷹は閂の向かいの席に荷物を置く。閂は漸う「意外だよ」と口を開いた。

「お前が私がいないことに気がついていたとは」

「そりゃ。視界がすっきりしているし」

「悪かったな」

「? 何が?」

 小鷹はきょとんとしたように首を傾けた。けれど、即座にそのことからは興味を失ったようで、端末を流れるように立ち上げて、ぶつぶつと独り言を言いながら画面をざらっと睨んだ後、「じゃー、仕事してきまーす」と、するりと荷物を手にして出て行った。コトが「おう」と頷く。その間、閂がしたことと言えば、端末にログインできたことくらいだ。それから、ぼそりと再び「意外だよ」と呟く。

 小鷹は本当に他人に興味が無い。それを知っていたから、小鷹が自分の不在にさえ気がついていないんじゃ無いかと、半ば本気で思っていた。

 けれど、小鷹は当たり前のように、それに気づいていて、けれど当然のように気にしていなかっただけだった。

 お前が出し抜けるほど間抜けじゃない。

 コトの言葉が耳元にあざやかによみがえる。

 そんなことばっかりなのだろう。閂は自分が思っているほど優秀ではないし、自殺を決行する思い切りもなければ、自己矛盾を厭う潔癖さもない。流されるように唯々諾々と体制に従い、大義を振りかざすことで他人の不幸を見て見ぬふりして、思考停止している自分に目を瞑る。だから、自分の行動はまるで正しくないんじゃないかという恐怖が、じっとりと首を絞めてくる。

 けれど昨日、不審者に追われて閂の部屋の扉を叩いた隣人を、閂は何も考えずに助けていた。理屈とか損得とか、そういうところをすっ飛ばして、助けてという言葉に、動かされた。刃物をもって扉を開けた閂に、人の良さそうな隣人は明らかに助けを求める相手を間違えたんじゃないかという顔をしたし、制圧した不審者にしたって、閂のことを散々に罵ったから、爽快感や満足感はほとんど無かったけれど。

 それでもあのとき閂が自殺を考えて包丁を手にしていなければ、あの隣人はそのまま大怪我を負って、息絶えていたかもしれない。だから閂が助けたことは間違っていない。

 まるで仕組まれていたように感じたとしても。

 ……自分の職場が、いわば『人の行動を操る』ことを専門に取り扱っている閂は、真っ先のその可能性を疑った。例えば、朝のテレビで閂の部屋番号をラッキーナンバーとして取り上げて、隣人が閂に助けを求めるように誘導した、とか。それこそ朝飯前だろう。

 情報と行動はログに逐一残されていて、辿ることはできる。その膨大な情報から、今回、コトによって仕組まれたことなのかどうかは判断ができる。だから閂は、ろくに睡眠の取らずに出社したのだ。

 ようやくパスワードを思い出し、ログインした端末で、閂は昨日のログを漁る。一時間経ち、二時間経ち、三時間経った。

 ログは。

 見つからなかった。つまり、今回の件と、この部署は関係がない、ということだ。

 その時、身体の中に巡った感覚を、どう言い表せば良いのか閂は分からなかった。温かな血が、全身を逆流するような、そんな不気味な感じだった。その気持ちの悪さを、どうして自分が感じているのか、閂は直感的に悟る。

 隣人を助けたという自分の行動が、果たして正しかったのかどうか、もう自分には分からないのだ。

 それを仕向けるようなログが残っていたのであれば、隣人を助けることはコト達の総意だったことになる。閂は無意識下でその結果を求めていた。つまり、それが『正解』だと、と閂は思ってしまっていたと言うことだった。

 あんなに、コトたちの所業を、醜悪だと言っていたのに、それをよりどころにしていた。その事実を直視した。

 だからこんなに気持ち悪い。

 自分のことが。

「閂」

 コトの声が真後ろから聞こえる。いつのまにかアンドロイドが後ろに立っている。人間が下せなくなった判断を、代わりに間違いなく行ってくれる存在が。

「明日も、休むか?」

 そう問いかけられた。閂は目を閉じる。自分の気持ち悪さを呑み込む。もう自分に、正しいことと間違っていることの判断はつかない。だから、これ以上休暇を取ることに意味は無かった。閂は、今飲み込んだこの気持ち悪さは忘れないでいることを願った。これだけが、自分の嘘偽りない本音だと自分がわかっていられることを祈った。

 いいえ、と閂はかすれた声で答える。

「今から、仕事を始めます」

「うん。それでいいよ」

 と、思考を停止させるような優しい声が頷いた。

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