第9話

 私にはひと目ですぐにわかった。

 我が子のことを忘れるわけがない。

「こっちにおいで!」

 私の声が聞こえていないのか無反応だ。可愛い表情で辺りをキョロキョロと見廻して、よちよちと歩いている。

 いや、それならばむしろ私の方から行く!

 ——あぁなんで?!また会えるなんてそんなわけないのに

 あの子は死んだのにどうして!

 はあぁぁぁぁ

 嬉しくて理性がふっ飛びそうだ。


 どんどん近づく。

 五メートル

 三メートル

 目の前!

 抱きしめる。かわいいかわいい、あぁ、この匂い。

 この世で一番大好きだった子。

 もう離したくない。ずっと一緒にいたい。

 あの時だってそうだった。ずっと一緒にいたかった。

 もっと生きていて欲しかった。

 この子が死んだのは私のせいだ。ずっとそれを悔やみながら生きてきた。



 この子と出会った時、こんなにかわいい生き物がこの世に存在するのかと思った。

 小さくってやわらかく、あたたかい。

 四六時中抱いていても苦にならなかった。

 あぁ、これからいろんなことを覚えて大きくなっていくのかと思うと、なぜか泣きそうな気持ちになった。


 日々が過ぎ、どんどん成長していく我が子。

 食事風景を眺めるだけでも、お風呂で体を洗ってあげているだけでも、幸せを感じていた。

 一緒に眠る。体温のぬくもりが伝わり安心する。ふふふ、かわいい、寝返りをしている。ただそれだけでかわいい。

 柔らかい耳に優しく唇で触れてみる。少し冷たいのも心地よい。まるでキクラゲのような感触。

 こんな幸せな時間がずっと続くと思っていたのに。


 あの日、あの子はなかなか寝床から起きてこなかった。私はただの風邪か、疲れているのかと思い、あの子が寝たいだけ眠らせていた。

 だが次の日もよく眠っていた。

 日が経つにつれ食欲もだんだんとなくなり、急に心配になって行きつけの病院へと電話して連れて行った。

 我が子は病院が嫌いだ。

 しかし今はそんな悠長なことを言っている場合ではないと心を鬼にし、嫌がる我が子を連れて行った。

 病院まで車で二十分ほどかかるのだが、運転している間も気が気ではなかった。

こんなに心配になるぐらいならもっと早く診せに行けばよかったと後悔した。


 待合室で待っている間も親子揃って緊張していた。

 宥めるように背中に手を当てる。

 名前が呼ばれ診察室へと入る。先生と看護師さんが待ち構えている。ここの先生は少し厳しいが、とてもよく診てくれるので信頼している。

 我が子の症状をきき、身体をあちこち調べる。注射器で血液もとられた。

「結果が出るまで待合室でお待ちください」と看護師さんに言われ待った。


 その間、悪いことしか頭の中に浮かんでこなかった。

 よく引き寄せの法則とかいうが、私はそれを信じてはいなかった。

 良い事を考えて良くなったためしなど無かったからだ。

 何を考えようが全て裏切られてきた。

 ”悪い事を考えて裏切られて良いことが起きる”ではないのだ。

 ”悪い事を考えて思ってもみなかった悪いことが起きる”のだ。

 ハナから期待する自分が悪いのだと考えるようになった。


 そんなことを脳みそのさまざまな場所で考えていると「佐藤さ~ん」と呼ばれた。

 緊張しながら診察室へ入る。

 先生がムズカシそうな顔をしている。もう聞く前からわかる。だって良い報告ならこんな顔しないし、すんなりと言葉が出てくるハズだもの。

 すごく言いづらそうにしている口から発せられた言葉は

「この子…白血病ですね」

耳を疑った。

 頭が真っ白になった。

 白血病って、あの白血病?

 そんなになります?白血病。

 ぼーっとした頭のまま先生と治療方針などを話している間も、我が子はキャリーケースの中で不安そうに時々「みゃう」と小さい声で鳴いている。

 私もあなたに負けないぐらい不安よ。


 その後、治療の甲斐もなく、一年半ほどして亡くなった。

 いや、私が殺した。

 辛そうにしているあの子の姿を見ていられなかったから。

 日本の法律では、人間には適用されない、立場の弱い彼らが持っている唯一の権利

——安楽死——


 私がもっと早くに気付いて、病院へ行っていたら今の結果が違っていたのかもしれない。勝手に拾って勝手に育て、病気に気付かず最後は私の意思で殺された。

申し訳なくって情けなくて涙が止まらなかった。

 先生にもひどく申し訳ない気持ちになった。

 この子だって本当はもっと生きていたかったのかもしれない。

 しかし、毎日毎日「苦しいよ。助けてよ」と鳴いているのに何もしてやれない私が唯一できる決断だった。


 安楽死を頼みに病院へ連れて行った日、こちらを見つめる我が子に最後の言葉もかけてやれず、ただただ泣くことしかできなかった。

 ごめん。怖かったね。


こんな事をしたのに今、この子はフンフンと鼻を動かし私の匂いを確かめゴロゴロと喉を鳴らしている。こんなに私に優しく寄り添ってくれている。

 許してくれているのか、許すなどの概念がそもそもないのか。

 なんてかわいい子。

 私の唯一の味方。

 この先もずっと一緒にいようね。

ふわふわのからだを抱きしめると涙が止まらなかった。



 泣きながら目を覚ますとあの子はいなかった。

 でも、死ぬ前にいい夢を見られたことをありがたく思う。

 そうか、おばあさんと祠に水をあげに行ったあの時の祈りを聞いてもらえたのか。

 神様も粋なことをするではないか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る