第2話

 ——穏やかな波の上、ひとりボートを漕いでいる——


 月夜だ。

 満月の夜だ。おまけに雲ひとつなく、月だけが夜空に輝いている。水面にまあるい月が映り、揺らいでいる。

「あぁ、もう辿り着かないのかもな…あんな噂を真に受けて私って馬鹿みたい。最後ぐらいはすんなり行って欲しかったわ。まぁ、今までのことを考えれば仕方ないか」

 オールを動かす手を止め呟く、中年女の独り言。

 夜空を見上げ自嘲気味にふっと笑ったそのとき、水の流れが変わった。


 まるでボートの舳先にロープが巻かれていて、それが引っ張られるようにスウっと流されていく。

 まるで何かに導かれているようだった。月の光に照らされたボートに黒い塊が近づいてくる。

 いや、自分がソレへと吸い寄せられているのだ。大きな木が見えた。

 手を動かさずとも、どんどん近づく。


 島だ。

 あれが目的の…!

 そうだ。きっとそうだ。今度はオールを動かし、少しでも早く近付こうとする。

 もうすぐだ。もうすぐで辿り着くことが出来る!

 興奮気味にオールを動かす。

 ボートが水底から飛び出た岩にぶつかり、衝撃を受けた。

 そのまま流されたボートの底に当たったのは水に濡れ、重くなった砂だ。


 砂浜にオールを突き立てながら陸へと近づく。

 うまい具合にボートが乗り上げたと思った時に、波に翻弄されボートの向きが変わる。バランスを崩し横向きに倒れ、濡れた砂地へ転倒するかと思った。

「うわっ!」

夜の闇に叫びがこだまする。どさり、とボートに積んだ荷物の上に倒れ込んだ。

 砂がザジャっと音を立てる。


 転覆は免れたが手をついた時に擦りむいてしまった。

 なんとかボートから降りようと一歩、足を踏み出す。

 砂に足が埋まる。足をとられ、一歩一歩が重い。じゅわり。と湿り気を感じる。

「あぁ、靴が…」

 島に辿り着いた喜びもどこへやら、こんなちょっとしたことでもすぐに「ついてない」だの「不幸だ」などと思ってしまう自分にうんざりする。


 さて、ボートはどうするか。

 もう元の場所へは戻らないのだろうが、このまま沖の方へ流されてしまうのも惜しい。

 せっかく魚たちを手懐けて手に入れたボートだ。とりあえず力の限り五メートルほど砂地を滑らせ移動させた。


 魚釣りをするでもなく海の近くにある釣り道具店で魚の餌だけを購入し、それを海に向けてぶつぶつと独り言を呟きながら投げ入れる四十代女は、側から見ればさぞ不気味だっただろう。

「さぁ、お前たち。ご飯をあげるから、私のために舟を用意しておくれ」

 さながら魔女である。

 しかも図々しくも舟を用意するように仕向けている。ボートだったからよかったものの、船舶免許が必要な船を用意されていたのならどうしていたのであろう。


 よく通報されなかったものだ。しかも冬の海。ある一定ラインを超えると人は注意しなくなるらしい。



 私は生き物と仲良くなれた。——人間以外は——

 むこうにも私の意思が伝わるらしく、魚もそうだが鳥や猫、トカゲやカエルなどと心通じていた。

 …と勝手に解釈している。

 いや、ボートまで用意してくれたのだから、コレはもう心が通っていたと言っても過言ではないだろう。あれには驚いた。

 大量の魚が一生懸命、私のためにボートをどこからか拾ってきたのだ。

 感動してちょっと泣きそうになってしまった。しかし、一体どこのボートだったのだろう…持ち主は?まぁ、人間のことなどどうでもいいか。



 月明かりを頼りに、鬱蒼とした暗い森の中を進んでいく。

 木々の影に阻まれ、前が見えづらい。スマートフォンのライトを点け、なんとか歩く。

 風が木を揺らし、ゾゾーゾゾーと不気味な音がする。

 辿り着いたは良いものの、一体どこへ向かっていけば良いのか、ここがどういう場所なのか詳しくは知らない。


 知っていることはこの場所に選ばれた者は、安らかに死ねるということ


 あくまでも噂だ。

 そんな噂を鵜呑みにし、実際にこうして足を踏み入れるものなど私ぐらいのものだろう…か?いや、生きづらい世の中だ。他にも噂を信じて行動に移したものはいるはずだ。

 しかし、選ばれたかどうかは確認しようがない。帰って来たという人の噂をインターネットでも見聞きしない。

 そもそも選ばれるってなによ。



 あぁ、疲れた。しかも空腹だ。靴もぐじょぐじょで砂まみれだし。

 今がひとりでよかった。誰か同行者がいたならばイライラして八つ当たりしていたに違いない。

 どこか休めそうな場所はないかと探していると防空壕跡のような穴を見つけた。

 怖い。

 しかし休みたい。座りたい。なんならちょっと横になりたい。

 恐る恐る穴を覗くと虫すらいなさそうだったのでそこで休むことにした。虫と交渉するのは面倒くさいのでラッキーだった。

「ヨッコラせ」

 反射的に声を出し、腰を下ろす。

 私は割と年齢よりも若く見られる容姿だが、やはりこういう部分は四十五歳であることを実感する。

 汚れた靴を脱ぎ、ティッシュで足を拭く。

 はぁ~と一息つきながらバッグからカロリーメイトのフルーツ味とコンビニのプライベートブランドのペットボトルのジャスミン茶を取り出し、少しずつ飲食した。

 ついでにスマートフォンを取り出し画面をタッチしてみる。ロック画面のかわいらしいネコの画像に、一瞬癒されたのも束の間。

 ”圏外”

 そりゃそうだ。わかってた。わかってたよ。


 空腹から解放されぼーっとする。

 落ち着くと少し肌寒くなり、バッグからカーディガンを取り出し羽織った。

 野宿なんて初めてだ。トイレはどうしたら良いだろうか…まぁ、誰もいなさそうだし適当にその辺で済ませるか。お風呂も入れないな。

 わかりきっていたことだろうに、そんなことを考える自分につくづく呆れる。


「なんかこの穴、火垂るの墓を思い出すな」

 ポケットのたくさんついたバッグを枕にし、横になりながらふと呟いた。

 あの兄妹は結構裕福な家庭の生まれみたいだったから戦争がなかったらきっと幸せに過ごせただろうに、小学生の時にあの映画を初めてテレビで見て「へ~、カルピスってこの時代からあったんだ~」って驚いた記憶があるなぁ…そういや最近テレビでやんないな、生きるために仕方なくやった行為がテレビではアウトなのかな、世知辛い世の中だねぇなどと考えているうちに、疲れと安堵でいつの間にか眠ってしまっていた。

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