第2話 聖男、相談する
「たーちーばーなー、みーなーとー」
「たーちーびゃーにゃー、みにゃーと!」
ひらがな表を印刷して、指をさしながら自己紹介をする。
それに続くように少年がゆっくりと復唱すると、僕の名前だと認識したようだった。
日本語と母国語の発音が違うのか、少し話しにくそうな気がする。
「くくく、猫ちゃんみたいだね」
何度か僕の名前〝
猫といえば、お風呂に入れるのはとにかく大変だった。
あれから泣き止んだあとに、お湯と石鹸で優しく洗い流そうとしたら、怖いのか僕にしがみついて離れなかった。
傷自体はかさぶたになっていたが、いつからあるのかわからない傷跡に胸が締め付けられる思いだ。
「君の名前は? えーっと、みなと……君は?」
僕と少年を何度も指をさす。
「るーしーあーん!」
「おっ、ルシアンか! ルシアン!」
僕の言葉に少年は大きく頷いた。
やっと名前を聞くことができた。
ただ、これからどうするべきなんだろうか。
自宅に帰るのが最善だとは思うが、体の傷を見ると躊躇してしまう。
「ちょっと電話をしてくるから待っててね」
「……?」
やっぱり伝わらないのか、首を傾げていた。
言語検索アプリで調べても何の言語かわからず、どこから来たのかも不明なルシアン。
ためらいながらも、僕は地元の警察署に電話をかけた。
「あの、自宅に怪我をした少年がどこからか入ってきて倒れてまして……手当てをしたんですが、言葉が通じなくて、身元もわかりません」
『わかりました。場所を教えてください。こちらから確認に伺います』
数十分後、制服姿の警察官が二人やってきた。
事情を説明すると、一人が無線で何かを話し、もう一人がルシアンに声をかけた。
だが、ルシアンは僕の服の裾をぎゅっと掴んだまま、顔を上げなかった。
「……かなり怯えてますね」
「ええ。さっきまでは元気でしたが、僕が電話した途端に、手を離そうとすると泣いてしまって」
さっきまでニコニコしていた表情が、一瞬で地獄に落ちたように曇ってしまった。
警察を見て怯えているが、それでも僕にしか頼れないと思ったのか、服を掴む手は離れない。
「児童相談所に連絡しますので、少しお待ちください」
警察官は少し言葉を選んだように、ルシアンを見る。
「お兄さんと一緒にいたいのかな?」
ルシアンには伝わらないが、それでも袖を掴む小さな手にさらに力がこもった。
「あなたから離れたくないみたいですね……。今夜だけ付き添ってもらうことはできますか?」
「僕がですか?」
「はい。正式な保護は児童相談所が行いますが、このまま連れて行くのは難しそうなので」
「先輩、児童相談所と連絡が取れました」
どうやらもう一人の警察官が児童相談所に連絡をしてくれていたらしい。
僕は小さく息を吐き、頷いた。
「わかりました。責任を持って面倒を見ます」
「助かります。何かあればすぐに連絡をください。この子……ルシアンくんの安全が最優先ですからね」
警察官の言葉に頷きながら、僕はもう一度、ルシアンの頭に手を置いた。
一瞬ビクッとしたが、撫でると気持ちよさそうに頬を手に沿わせてくる。
「ではまた何かありましたら、児童相談所からご連絡が来るかと思います。ご協力ありがとうございます」
そう言って、警察官は頭を下げると帰って行った。
思ったよりも優しそうな対応で安心した。
部屋に残された僕とルシアン。
昼ご飯も食べていないから、お腹が空いてきた。
「夜ご飯でも買いに行こうか……」
「んーんー!」
ルシアンは僕にベッタリとくっついて離れようとしない。
またどこかに連れて行かれると思っているのだろうか。
僕はルシアンを抱きかかえると、目には涙を溜めていた。
「んー、後でホットケーキをつくろ!」
「ほっとけーき……?」
「そうそう!」
ゴミ箱にあるホットケーキミックスの包装紙を取り出して見せると、少しだけ表情が和らいでニコリと笑った。
どうやらホットケーキは大好物のようだ。
手を繋ぎながら近くのスーパーまで、散歩しながら歩いていく。
ルシアンは初めて見た光景なのか、終始キョロキョロとしていた。
本当に彼はどこから来たのだろうか。
それが唯一気になるところだ。
スーパーに着くと、様々な食材を買い込んでいく。
って言っても子どもの好きそうなものばかりだけどね。
もちろんホットケーキミックスも忘れない。
「よし、夜ご飯はオムライスにしようか! えーっと……オムライス!」
「おむ……らいしゅ?」
ルシアンもゆっくりと復唱して覚えていく。
「おっ、しっかり言えたね!」
ルシアンを撫でると嬉しそうに笑っていた。
本当に弟……というのか猫ぽい。
家に帰るとすぐにオムライスの調理に取りかかる。
フライパンにバターを落とし、じゅうっと音を立てて溶かす。
「熱いから気をつけてね」
ルシアンは僕の背中に抱きついて、盾にするかのように背伸びしながらフライパンの中を覗き込もうとしている。
居間で待っていてもらおうかと思ったが、ルシアンはやっぱり離れようとしなかった。
フライパンが温まったところにご飯を加え、粒がほぐれるまで手早く炒める。
ケチャップを回しかけ、鮮やかな赤に染まったご飯をゴムベラで丁寧に混ぜ合わせた。
「卵は半熟でいいかな?」
その間に別のフライパンで卵をとろりと焼き、ふんわりと半熟に仕上げる。
炒めたご飯を卵で包み、皿に滑らせれば、黄色い卵の上に赤いケチャップが映える小さな丘が完成だ。
ちなみにオムライスにはケチャップで名前を書いた。
「気をつけるんだぞ!」
ルシアンにオムライスが載ったお皿を持たせると、ニコニコしながらテーブルまで運んでいく。
僕が座椅子の上に座ると、ルシアンもそのまま僕の上に腰かけた。
「ルシアンも座椅子に座りたいの?」
僕が座椅子から立ち上がり、隣に座るとルシアンも付いてきて僕の膝の上に座った。
どうやら座椅子に座りたいわけではないようだ。
「んー、離れたくないのかな……」
夜勤明けでお風呂にも入っていないから、密着するのは少し抵抗感があるが仕方ない。
ルシアンを膝の上に載せていると、その場で口を開けて待っていた。
「はぁー、ルシアンは甘えん坊だね」
ホットケーキを食べた時のように甘えるルシアン。
きっとオムライスも食べさせて欲しいのだろう。
オムライスをスプーンで掬い、ルシアンの口に入れる。
「うっ!」
ルシアンは突然目を大きく見開くと、テーブルに置いてあったスプーンを手に取り、オムライスをかき込んでいく。
どうやら口に合ったようだね。
ただ、僕が食べさせることもなく、一人で食べているから少し寂しい気持ちになってきた。
「おいしいかな?」
「……お……おいしい!」
ハムスターのように頬にたくさんオムライスを詰めて、満面な笑みをするルシアン。
そんな姿を見て、夜勤明けなのを忘れるぐらい癒されたような気がした。
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