序章 お礼の要求
目の前で可愛い黄色のウサギがニヒルな笑み浮かべて血反吐を吐いていた。
なんの話かと思うだろう。
真っ赤なエプロンの胸あたりに貼り付けられた拳ほどの大きさのアップリケのことだ。
なぜ自分がそれに注目しているかというと、目の前にあるからに他ならない。
いや、正確にいうなら、これは現実逃避だと分かっている。
そのように、ユネリ・アップグレナーはひとりごちた。
だってウサギに注目していなければ、目の前の人が見ず知らずの他人の家で、自前だかなんだか知らないが。そんな奇抜なエプロン持ち込んでまで、ユネリのために夕食を作った理由が全くわからないから。
なぜ赤いエプロン?
なぜそのアップリケがついたものを選んだのか。
え、好きなの?
まさか、まさかね?
脳内の思考の追及が追い付かない。
本人が自己紹介したところによれば、彼は王太子直属の近衛騎士筆頭ルミナトス・ハウエバド。二十二歳。剣だけでなく武術全般の腕も確かだが、何よりその目立つ容姿で有名とのこと。
真夜中の闇に相応しい流れる黒髪はきっちり後ろに長し、涼やかな目元は一見優しげに見える。けれどどこまでも整った高い鼻梁と形の良い薄い唇はどこか酷薄に映った。均整の取れた体躯に見合う甘さと厳格さを不自然に併せ持つ美貌の持ち主は、その瞳の色が最も特徴的だ。
ブルーアンバー。昼間の太陽光の下では明るいコバルトブルー色も、日が沈んだ後のランタンの下では濃厚なウィスキーを思わせる琥珀色になるという。
そんな彼の琥珀色の瞳を真近くで見たいと、年頃の少女たちが黄色い声をあげているらしい。
確かに、今の彼の目の色は甘やかな飴色だ。
けれどそんなのユネリには関係ない。
そんなことよりなにより優先すべきことがある。むしろ現実逃避をしている場合でもなかった。
自宅のダイニングテーブルには信じられないモノが並んでいた。
目の前には完璧な形で整えられた黄色いオムライス。デミグラスソースじゃなくて何の手を加えてもいないケチャップを選んだところはポイントが高い。卵もちゃんとかたいやつだ。ふわとろとかユネリは許せない。あとは緑一色ほうれん草のサラダとクルトンだけが浮いたコンソメスープ。
本当に彼が作ったのかと疑うけれど、見慣れた自分の家のキッチンで料理をしていたのは見ていた。食材は冷蔵庫から出していたので、ユネリが意識を失っていた間に買ってきたのかもしれない。
今もお玉とフライ返しそれぞれ手に持ち、腕を組んで仁王立ちしている。長い手足の無駄使いもいいところだ。
近衛騎士で培ったその鋭い眼光からは、何を考えているのか読み取れない。
思考はどこまでも暴走するが、生来の面倒臭がりのユネリだ。さすがに現実逃避にも限界が来て、ようやく吐いた言葉は一言だった。
「オムライスは……」
「安心して、玉ねぎときのこは使っていない。中身は鶏肉とコーンと角切りチーズ」
「神様……っ!」
ユネリの声は震えていた。
ここに本当に完璧な夕食がある。まともなご飯を食べたのはいつぶりか。そもそもユネリは偏食だ。そのうえ無精だから自分で料理はしない。
だというのに魔法士は魔力を回復させるために食事が必要不可欠である。寝るだけでは魔力は完全に回復せず、ユネリは毎日仕事柄膨大な魔力を消費するのだ。
ちなみに家事の一切は家政のプロを雇っていて、仕事に行っている間に掃除、洗濯などを済ませてもらっている。
料理が含まないのはユネリが偏食なことを知らず最初は作り置きしておいてくれていたが手をつけないことが続いたので作り置きをやめられてしまったからだ。
面倒で伝えることをしなかったユネリが悪い。
食事の方は手をつけなかったからか、家事代行者がちゃんと食べてくれたようで後日食材費だけが戻ってきていた。偏食でも食材が無駄になるのは心苦しいと思うのだ。
けれど安心はできなかった。
食事が用意されないということは、生命の危機である。
家で作らないなら外食すればいいと思うだろう。だが偏食にとって、外食は危険だ。いつ苦手なやつらが潜んでくるかわからない。もしかしたらうっかり口に入ってくるかもしれない。
仕方なく手製の栄養剤を片手に菓子を食べたり食パンをかじったりしていたが、流石に魔力不足と栄養失調というか貧血が相まって倒れたらしい。
らしいというのはルミナトスがそう説明したからだ。
ユネリは彼の前で倒れて、自宅へと運ばれ、夕食を作ってもらったという流れである。
いや、わからんて。
百歩譲って城で倒れたユネリを医務室とかに運ぶなら理解できる。
なぜ自宅に運ぶ?
なぜ偏食のユネリが食べられる夕食を作れる!?
あんた一体何者だよ!!
いや、自己紹介は聞いたけれどね。
だがそんな疑問はユネリの口からは一切出なかった。食べることに全集中である。
スプーン片手にオムライスを頬張る。彼の説明通り、中身は食べられるものばかり。
ほうれん草はユネリが食べられる数少ない野菜の一つだ。それだけで構成されたサラダのドレッシングは柑橘系のサッパリしたもの。マヨネーズは論外である。透き通るコンソメスープに浮いたクルトンの地味に硬いところがまた嬉しくもあり……。
「満足した?」
夢中で食べていたユネリは話しかけられて、ビクリと体を震わせた。
本気で目の前にいた男のことを忘れていた。それほどに料理がおいしかった。
だが次の彼の発言で、ユネリは目を瞬かせた。
「これで俺は貴女の恩人になるというわけだね。そんな俺へのお礼は失くした記憶を取り戻す薬を作ることにしてもらいたい」
まさかのお礼の要求である。
しかもツッコミどころ満載の。
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