第5話 水槽
水槽にそれを入れたのは、いつだったか思い出せない。
引っ越してきたばかりの部屋。テレビもまだ届かず、やけに静かな空間だった。
インテリアのつもりで、中古ショップで買った古いアクリル水槽を部屋の一角に置いた。中に何を入れようか決めていなかったが、気がつくと、**“それ”**がいた。
最初は冗談だと思っていた。
水槽の底に、何か人のような形をした影が横たわっているように見えた。
でも、冗談で済ませられたのは、最初の三日だけだった。
*
水槽の中は、常に濁っていた。
フィルターを入れても、毎朝水が曇る。茶色く、ぬめりを帯び、底が見えない。
だが、暗く沈んだ中に、“目”だけは見えた。
水面のすぐ下、じっとこちらを見上げているような影。
それは確かに人の形をしていた。いや――人“だった”と言うべきか。
細く、白く、骨のように痩せた腕が、時おり水槽の内側からすべるように上ってくる。
触れようとすると、何もいない。水面は冷たく、静かだ。
でも、夜になると、再びそこに現れる。
そして、口を動かしている。
*
声は聞こえない。
けれど、何を言っているのかは分かった。
「ここから、出して」
その唇の動きは、何度も何度も、同じように繰り返された。
私は水槽に目を合わせないようになった。
布をかけ、電気を消して寝るようにした。
だが――毎晩、眠りにつくと、夢の中で水の中にいる自分を見る。
濁った水。動かない体。水槽の中から、私自身が部屋を見上げている。
夢の中で、私は水槽の“内側”にいた。
*
ある朝、私は気づいた。
水槽の中にいる“それ”が、自分と同じ顔をしていた。
顔色は悪く、肌はふやけ、目は腫れぼったく、髪の毛は水中に漂っていた。
けれど、それは確かに――私自身だった。
その日から、水槽の中と、鏡の中の自分とが、少しずつ、ズレ始めた。
鏡の中の私は、ほんの一瞬だけ、口元が水槽の中の“それ”と同じ動きをしていた。
「出して」
私は、部屋の中に「もう一人」がいるのだと確信した。
*
水槽を処分しようと決めたのは、その夜のことだった。
だが、持ち上げようとすると、水が異常に重い。
中の何かが、ずしりと底に沈み、まるでこちらを拒むように重力を増しているかのようだった。
諦めて立ち去ろうとしたとき、水槽の内側から、手形が浮かび上がった。
爪のない白い指。べたりと貼りついた両手が、ガラスを叩いている。
トン、トン……トン……!
やがて、そのリズムが部屋全体に反響するようになった。
壁を、床を、天井を叩く音が響き、私は耳を塞いだ。
だが、止まらなかった。
*
翌朝、水槽を確認すると、中は空になっていた。
水も、ぬめりも、“それ”も、すべてが消えていた。
だが、部屋の中に何かがいる感覚は、むしろ強まっていた。
冷蔵庫を開けると、中に水が張られていた。
風呂場の排水口からは、目が見えた。
そして、鏡の中の私は、もう私ではなかった。
顔は、似ている。
でも目が合うと、微笑み返す。私は笑っていないのに。
今では、誰かと話していると、相手が時折、首をかしげる。
「なんか、声が……変じゃない?」
そう言われるたび、私は曖昧に笑ってごまかす。
私は、もうここにいないのかもしれない。
それとも、“私”が、もうひとり増えただけなのかもしれない。
*
夜になると、水の音が聞こえる。
どこにも水はないのに。
そして、夢の中で、私は水槽を見下ろしている。
その中で、誰かが口を動かしている。
「ここから、出して」
私の声だった。
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