第3話 湧き水

 最初に異変があったのは、町内の奥まった住宅街にある、空き家の庭だった。


 長らく住人がいなかったその家に、ある日突然、水が湧いた。

 ぽこぽこと、まるで井戸のように――いや、実際には、地面に亀裂が入り、そこから水が染み出すようにして湧き続けていたのだ。


 始めは町内会でも、「排水管の老朽化か何かだろう」と軽く流していた。

 だが数日経っても止まらず、むしろ水量は徐々に増えていった。


 そして何より奇妙だったのは、その水が――甘い匂いを放っていたことだ。


     *


 私がそれを知ったのは、町内の掲示板に「試飲自由・持ち帰り可」という貼り紙がされたのがきっかけだった。

 好奇心から立ち寄った私は、他の住民たちと同じように、ペットボトルを手にその場に並んだ。


 水は澄んでいた。手を浸すとひんやりして、まるで雪解け水のような清らかさがあった。

 それなのに、鼻を近づけると、確かにかすかに――花の蜜のような甘い香りがする。


 私は少しだけ口に含んだ。

 無味無臭のはずの水なのに、なぜか身体が芯から潤っていくような、不思議な感覚があった。


 以後、その湧き水は町内で静かなブームとなった。


     *


 一週間もしないうちに、町の数軒で、似たような「水の湧出」が報告された。


 ある家の玄関先、あるいは家庭菜園の脇の地面、またある老人の風呂場の排水口――どこも、ほんの小さな亀裂や隙間から、同じ匂いのする水が染み出してくる。


 誰かが「奇跡の水だ」と言い出し、老人たちは「若返る気がする」、子供たちは「夢をよく見るようになった」と言い、主婦たちはそれを煮炊きに使い始めた。


 だがその頃から、奇妙な共通点が人々のあいだでささやかれ始めた。


 ――湧き水を口にした者は、みな夜中にうなされ、「誰かの名前」を呟くのだという。


     *


 私にも、思い当たることがあった。


 ある夜、ふと目が覚めると、口が何かを繰り返し呟いていた。

 「すずき……ひかる……ひかる……」という、知らない名前だった。


 気味が悪くなり、その日を境に私は湧き水を飲むのをやめた。

 だが、それでも夢を見るようになった。


 夢の中、私は暗い場所にいる。そこは水に満たされた、井戸の底のような空間で、冷たい泥の中から、誰かの手が伸びてくる。


 「たすけて」

 そう言う声が、毎晩、夢の奥から響くようになった。


     *


 私は意を決して調べてみた。

 「すずきひかる」――何の手がかりもないまま検索していくと、ある一件の記事が目に留まった。


 十年前、町内の旧家で小学生の女児が失踪した事件。

 名は「鈴木光(すずきひかる)」、自宅敷地内の井戸に転落した可能性が高いとされながら、遺体は見つからず、事件は迷宮入りとなっていた。


 その旧家こそ、最初に水が湧き始めた空き家だった。


 全身に鳥肌が立った。


 まるで、何かが、地中から這い上がってくるような感覚。


     *


 それから町では、原因不明の頭痛や耳鳴りを訴える者が増え始めた。


 医師は「精神的な集団暗示の可能性もある」と語ったが、誰も納得していなかった。

 町内会長の奥さんは、会合の最中に「光ちゃん、見つけてあげて……」と突然泣き出したという。


 湧き水の流れる場所には、今では白い布や御札が貼られるようになった。

 その家々では、人が住まなくなり、夜になると、ぽたぽたと水の垂れる音だけが残るという。


     *


 私はいま、久しぶりに町を離れて暮らしている。

 だが、夜になると夢を見る。水音。甘い匂い。誰かの呼ぶ声。


 そして今夜も、耳元で囁かれる。


 「――もう、捨てないでね」


 口の中には、あの水の味が、まだ残っている気がする。

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