星を盗んだ少年と、夜明けの図書館
夢ノ命マキヤ
第1章 夜明けの街の、見習い記録者
夜が終わる直前の空には、
必ず ひとしずくの青 が混じる。
この街セレニティでは、その青のことを
《夜明けの静寂(ドーン・サイレンス)》と呼んだ。
ユウリは、その青の気配で目を覚ました。
石畳はまだ夜の冷たさを手放しておらず、
宿舎の窓に吊り下げられた風鈴──セレニティの鍛冶職人が作った
小さな銀の輪──が、かすかな朝風に鳴る。
音というより呼吸。
そんな微弱な響きが、彼の一日をいつも始めるのだった。
靴紐を結びながら、ユウリは胸の奥にある違和感に触れる。
――今日も、あの夢を見なかった。
日本で眠っていた時、毎晩のように見ていた最後の瞬間の夢。
事故。光。暗転。
それがここ数日、まるで誰かが布で覆ったように
ふっと途絶えている。
「……まあ、いいや」
15歳の少年らしく、深く考えすぎる前に頭を振る。
今日も行かなくてはならない。
あの巨大な建物──夜明けの図書館へ。
図書館は、街の北端に聳えている。
建物を見上げるというより、
巨大な雲の下に立つような感覚の方が近い。
壁は淡い金色に輝いているが、これは魔法で磨かれた石材で、
光の魔術師団が寄進したものだと言われている。
けれど市民の間では、
「もともとは六翼族の神殿だったらしいぞ」
「勝手に上書きして図書館にしただけだ」
という噂が、ずっとくすぶっている。
ユウリはその噂の意味をよく知らなかったが、
ここで働き始めて半年、
なにかが嘘のままになっているという空気だけは感じていた。
扉を押すと、石造りの大ホールが朝の光で照らされていた。
しかし天井付近はまだ淡い闇を湛えており、
光と影の境界線が静かに混ざっている。
巨大な柱には「光の魔術の公式」「影の魔術の封印文様」
さまざまな刻印が刻まれ、
魔法の波動がゆっくりと空気を流れている。
図書館に入るたび、
ユウリは胸の奥で 何かが目覚めそうになる感じ を覚える。
言葉にできない。
形にもならない。
ただ──
心がどこか広い場所を思い出している。
「おはよう、ユウリ」
背中に柔らかな声が落ちてきた。
振り向くと、灰色のローブを羽織った老人がいた。
夜明けの図書館の主──老賢者テオだ。
長い眉と、年齢の割に力強い足取り。
目は深い湖の底のように青く、
見られると心の底まで読まれている気分になる。
「今日も、書庫の整理を頼む。
……例の封印棚は近づかなくてよい。
昨夜、少し揺れがあったからね」
「揺れ? 地震ですか?」
「地震……そう呼んでいたね、君の世界では。
まあ似たようなものだよ。
星ひとつ分のさざ波、といったところさ」
ユウリは笑ったが、テオは笑わなかった。
いつものことだ。
老人は冗談を言っているようで、
時にそれが冗談ではないことも多かった。
ユウリは「書庫二層目・記録棚」へ向かった。
棚は天井へ向かって果てしなく伸び、
梯子を登るだけで一仕事である。
だがユウリは、
本を読むことができなかった。
読む前に、文字の形がふっと溶けて、
意味の塊となって頭の中に直接流れ込んでくるのだ。
触れた瞬間、
その本の歴史、その本を読んだ誰かの記憶、
著者の心の揺れまでが、洪水のように脳裏に注ぎ込む。
文字を読むことはできないのに、
情報そのものを丸ごと理解してしまう。
この力を、テオは「記憶の器」と呼んだ。
「器は、時に薬になり、毒にもなる。
ユウリ、気をつけるんだよ」
老人はそう言い、
封印書庫の鍵だけはユウリに触れさせなかった。
その日。
ユウリは書庫の最奥で、
ひときわ古びた木箱を見つけた。
──封印済・閲覧厳禁──
──六翼族関連──
木箱に触れた瞬間。
頭の中を星が砕ける音が満たした。
世界のどこかで、
夜空の星がひとつ、
ふ、と消える映像。
呼吸が止まる。
「……何、これ……?」
次の瞬間、
図書館の奥から警鐘が鳴り響いた。
金属が震える音、魔力が暴発する音。
ユウリは反射的に走り出した。
封印書庫──そこが、開いていた。
中にあったはずの
「六翼族の残された地図」が空っぽになっている。
そして、廊下の中央には
ユウリ自身の名が刻まれた札が落ちていた。
「──容疑者・ユウリ」
誰かが仕掛けた罠か?
それとも……。
胸が強く跳ねる。
図書館の奥から、
光の魔術師団の足音が迫ってくる。
彼らの偏見と恐怖に満ちた視線を知っているユウリは、
即座に悟った。
――逃げなければ、殺される。
そして、走り出す直前。
彼は気づいた。
自分のポケットに、
見覚えのない 銀色の鍵 が入っている。
そして、文字が読めないはずの自分が書いた
謎の手紙が握られていた。
図書館の廊下は、いつもよりずっと長く感じられた。
警鐘の音が、石壁にぶつかって反響する。
まるで「逃げろ」と「捕まえろ」が同時に叫び合っているみたいだった。
ユウリは、手の中の紙と鍵を握りしめたまま、
迷路のような通路を駆ける。
――どうして、俺の名前が。
――どうして、この鍵がポケットに。
息が詰まりそうだった。
足音が、背中に追いかけてくる。
一つではない。三つ、四つ。
鎧のこすれる音と、光の魔術特有の金属のきしみが混ざる。
「そこの少年、止まれ!」
振り返らなくても分かる。
光の魔術師団の下級兵だ。
彼らのローブは、明け方の空のような白銀色だが、
目に宿っているのは朝の光ではなく、
疑いと恐れを固めた硬質なまなざしだった。
ユウリは角を曲がり、
古い階段を一気に駆け下りた。
足を滑らせかけ、手すりに肩をぶつける。
鈍い痛みが走ったが、止まるわけにはいかない。
――逃げなきゃ。
頭の中で、その言葉だけが何度も繰り返される。
地下へ続く小さな扉の前にたどり着いたとき、
階段の上から光が閃いた。
「〈照明槍(ルクス・スピア)〉!」
誰かが詠唱し、
光の槍が階段の壁に突き刺さる。
瞬間、白い稲光のような光束が廊下を満たし、
ユウリの影が、ありえない方向へと伸びた。
影は、六枚の羽を広げた何かの形をとりかけて──
すぐに、普通の少年の影に戻った。
ユウリは、息を呑んだ。
「……今の、何?」
考える暇もなく、
地下扉の取っ手を引く。
開かなかったはずの錠前が、
きい、とかすかに鳴いて、
ユウリの手の中の銀色の鍵と同じ音を立てた。
――カチリ。
鍵は、勝手に錠前の中で回っていた。
「え、俺、今……開けた?」
自分で自分に突っ込む余裕があるあたり、
まだパニックの底までは落ちていないらしい、と
妙に冷静な自分が心の隅で笑った。
扉の向こうからは、
地下の冷たい空気と、古紙の匂いが立ちのぼる。
ユウリはその中へ身を滑り込ませ、
扉を静かに閉めた。
暗闇の中で、
ユウリは自分の鼓動の速さを数えた。
ひとつ、ふたつ、みっつ……
数えているうちに、少しずつ呼吸が整ってくる。
やがて、
耳慣れた足音が前方の闇から近づいてきた。
「やれやれ。
光の坊やたちの足音は、
いつ聞いてもせわしないね」
ランタンの火が、ぽっと灯る。
そこには、テオがいた。
「テオさん……!」
緊張の糸が一気に切れそうになり、
思わず声が裏返る。
老人は眉をしかめながらも、
口元だけはかすかに笑っていた。
「上は、少し騒がしい。
星ひとつ消えた程度で、大げさだと思わんかね」
「星……やっぱり、あれ、本当に……?」
ユウリは、言いかけて口を閉じる。
自分だけが見た星の消滅をどう説明していいか分からなかった。
テオは、彼の手の中を指さした。
「それと、その鍵と紙は、もうしまいなさい。
光の魔術師に見つかったら、
君の無実が、さらに完全な罪へと格上げされる」
「無実って……
僕、何もしてないのに」
ユウリの声には、少しだけ怒りが混じった。
テオは、ふう、と短く息を吐く。
「何も知らない者ほど、
都合よく犯人に仕立て上げやすいのだよ、ユウリ。
まして君は、別世界から来た『記録者』だ。
読み書きもできないくせに、
封印された本の中身を一瞬で記憶する。
彼らにとって、君は理解不能な異物だ」
「……異物?」
「そう。
世界は、理解できないものを怖がる。
そして、怖いものには名前をつけ、
悪者にしてしまえば安心できる」
テオの目は、暗闇の向こうを見ていた。
「昔、六翼族という種族がいてね。
彼らもまた理解不能な異物だった。
……どう扱われたかは、君も知っているだろう?」
ユウリは、街で見た光景を思い出した。
子どもたちが遊ぶ広場の壁に落書きされた
六枚の黒い羽の上から、
誰かが塗りつぶした白いペンキ。
「六翼族に生まれたら、不幸だね」
「星を盗んだ裏切り者だってさ」
そんな会話が、何気ない日常の言葉として
交わされていたことを。
「でも、しっかりした証拠みたいなもの、
誰も見たことないって……」
「それが偏見というものだよ」
テオは静かに言った。
「見たこともない恐怖に、
人は名前と物語を与える。
一度、それが正しい歴史と呼ばれ始めると、
誰も疑わなくなる」
ユウリは、唇を噛んだ。
「……だったら、僕の頭に入ってる本当の歴史を、
全部みんなに話せばいいじゃないですか。
僕だって、読めないけど、覚えてるんです。
本に書いてあったこと、全部」
「君が一人で叫んでも、
『読み書きもできない異世界の少年』の戯言で終わるさ」
テオは肩をすくめる。
「だから――君には、逃げてもらう」
「逃げる?」
「そうだ。
上ではもう、君を星を盗んだ少年として処理する筋書きが
できあがりつつある。
あれは筋書きが完成してからでは遅い。
物語は、書かれる前に書き換えるものだ」
老人の目が、ランタンの灯りを映して鋭く光る。
「君が持っている鍵と手紙は、
書き換えのための道具だ」
テオは、ランタンを壁のフックにかけると、
静かに続けた。
「さあ、開けてごらん」
「え?」
「その手紙さ。
読み書きできないはずの君が、
昨夜、自分で書いたものだ。
君は覚えていないかもしれないがね」
ユウリは、ごくりと唾を飲み込む。
震える指で紙を広げると、そこには
見慣れない文字が渦を巻いていた。
アストリアの文字とも日本語とも違う。
線と点が星座のようにつながり、
見るだけで頭が痛くなりそうだった。
だが、次の瞬間。
文字がふっと溶けた。
いつものように意味が洪水のように流れ込んでくる──
はずだった。
今回は違った。
意味が咀嚼されている感じがした。
柔らかく、しかし逃げようのない声が、
直接心に語りかけてくる。
――ユウリへ。
君は、星を盗む。
それは罪ではない。
世界が隠した真実を、
もう一度、朝の光の下に運び出すという意味だ。
――逃げろ。
セレニティを出て、影の都ノクターンへ向かえ。
そこに、君の最初の仲間がいる。
――鍵は、切り離された星への道を指す。
君がそれを持つのは、
偶然ではない。
文字はそこで途切れていた。
「……僕が、書いたんですか、これ」
「そうだ」
テオはあっさりと言った。
「君は昨夜、夢遊病者のように起き出して、
封印棚の前まで歩いていった。
私は止めなかった。
止めてはいけないと分かっていたから」
「どうして……?」
「君は記録者だが、
同時に予定されていた異物でもある」
老人は、どこか寂しそうに微笑んだ。
「世界は今、
都合の悪い真実を封印して成り立っている。
だが、その封印は完璧ではない。
時々、ひびが入る。
君という存在は、
そのひびから差し込んできた、別の世界の朝なのさ」
ユウリは、自分の手を見つめた。
ついこの前まで、
日本のコンビニでおにぎりを買っていた手。
スマホを握りしめていた指。
宿題を後回しにしていた爪の跡。
それが今は、
星を盗む鍵と謎の手紙を握っている。
「……テオさんは、僕を信じてるんですか?」
思わず、そんな言葉が唇からこぼれた。
老人は、ほんの一瞬だけ目を丸くし、
すぐに苦笑に変えた。
「君を信じるかどうか、ではないよ。
君が信じざるを得ない選択肢を突きつけられることを、
私は知っているだけだ」
「言い方、ひどくないですか」
「君の世界の言葉で言うなら……そうだね、
ブラック企業の内定みたいなものかな」
「いや、それは全力で辞退したいんですけど……!」
緊迫した状況のはずなのに、
自分の口が勝手に突っ込んでいた。
少しだけ、胸の重さが軽くなる。
テオは、そのわずかな軽さを見逃さない。
「ユウリ。
外の広場では、
六翼族の子どもたちが、
今日も翼を隠して遊んでいる」
老人の声に、静かな怒りが混じった。
「彼らの親は、
子どもが羽を広げるたびに怯える。
見つかったら、殺されるかもしれないと。
それがこの世界の秩序だ」
ユウリは目を伏せる。
「僕は……ただの、迷子だと思ってました。
日本から間違ってここに落ちてきた、
よく分からない、文字も読めない迷子」
「迷子だからこそ、
この世界の当たり前の狂気に、
ちゃんと疑問を持てる」
テオは、ユウリの肩に手を置いた。
「さあ、決めるんだ。
ここで星を盗んだ少年として捕まり、
誰かの都合のいい物語の悪役になるか。
それとも、自分で物語を書き換えるか」
地下の静けさが、
鼓動の音だけを大きく響かせる。
ユウリは、銀色の鍵を握り直した。
「……逃げます」
自分でも驚くほど、
その声ははっきりしていた。
「逃げて、ノクターンに行って、
最初の仲間とやらを見つけて。
それで、星を……」
言葉の途中で、思わず苦笑する。
「僕、本当に星を盗むことになるんですね」
テオは、目を細めた。
「盗むのではない。
取り戻すのだよ。
世界が勝手に切り離してしまった真実をね」
そのとき、
地下の天井が低く唸った。
ドン、と遠くで何かが爆ぜる音がした。
光の魔術師団が、
図書館ごと封鎖する準備を始めたのだろう。
時間は、もうほとんど残されていない。
「行きなさい、ユウリ」
テオは、地下通路の奥にある
小さな石扉を指さした。
「この先は、
セレニティの外れに続く秘密の抜け道だ。
もともと六翼族が使っていた通路さ。
君には、そこを歩く権利がある」
「テオさんは?」
「私は、ここで図書館の主として
少しばかり時間を稼ごう」
老人は、いつもの古びた杖を軽く振った。
杖の先に、淡い光の輪がひとつ、浮かぶ。
「あまり、格好つけすぎないでくださいね」
ユウリが口を尖らせると、
テオは珍しく心から笑った。
「心配するな。
年寄りの見せ場は、
そう簡単には取っておかんよ」
ユウリは深く頭を下げ、
石扉の前に立った。
銀の鍵を差し込む。
カチリ、と音がして、
扉に刻まれた古い六枚の羽の紋がうっすらと光った。
――星を盗む少年。
――夜明けの図書館。
――切り離された星と、封印された真実。
自分がこれから歩く道が、
そのすべてに繋がっている予感がした。
「ああ、ユウリ」
扉が開きかけた瞬間、
テオが呼び止めた。
「君がどんな選択をしようと、
記録者であることだけは忘れるな。
恐怖と憎しみに飲まれた心も、
いつか誰かが読み解けるよう、
ちゃんと見て、覚えておくんだ」
「……はい」
ユウリは振り返らずに答えた。
冷たい風が、抜け道の奥から吹き込んでくる。
それは、知らない世界の匂いがする風だった。
ユウリは、一歩踏み出した。
こうして、星を盗んだ少年の物語は、
まだ誰も知らない夜明けへと歩き出したのだった。
──第1章 つづく。
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