第2話




 焚き火が揺れる。


 木が爆ぜる音にエドアルトは目を覚ました。


 瞳を開くと焚き火の側に緑の術衣が座っているのが見えた。

 夜営の時は一人が寝ずの番をする。

 身動きをしないまま、すぐ側にミルグレンが眠っているのを確認した。

 恐らくもう本当ならミルグレンを起こす番だろうが、メリクはじっと火を見つめたまま彼女を起こす素振りがなかった。

 ミルグレンは一番年下だし女の子だ。

 今日はかなり移動したのでこのまま眠らせてやろうと彼は考えたのだろう。


 エドアルトは寝たふりをしながらメリクの横顔を見つめていた。


 ドキとしたのだ。


 メリクの表情にこれほど彼の感情が顕われているのを初めて見たから。

 何か苦しげなことに堪えるような、そんな表情で瞳を伏せていたが、時折じっと想いを込めて揺れる炎の光を見つめている。


 ……彼がそんな顔で何かを見つめることがあるなんて知らなかった。



「……メリク?」



 ふと、こっちを見る。

 その顔はもういつもの彼に戻っていた。

「……ん? なに……?」

「あ……」

 幻だったのかと思うほど普通に返される。

「いえ……、すみません……、寝ぼけてて……」

 くす、とメリクは笑った。

「温かいお湯でも飲むかい。落ち着くよ」

 彼はそう言って、火の側に置いてあった小さな鍋を火に掛けてくれた。

 エドアルトはミルグレンを起こさないよう注意しながら、静かに焚き火の方へと移動する。



 ここはエデン南西、ラメンスより北の山中だ。


 三人は増殖を続ける不死者を退治しながら世界を移動していた。



「……何か、考え事ですか?」



 火を見つめながらエドアルトが尋ねる。

 メリクがこっちを見たのが分かった。

「そういう風に、ちょっと見えたから……」

「大したことじゃないよ」

 メリクは笑う。

 彼が大したことを考えてないことなんかあるんだろうかとエドアルトはふと、思った。



「……自分の人生について考えてた」



 直前に見たメリクの苦悩に覆われた顔が脳裏に過る。

 今度はエドアルトがメリクを見た。


「……それは、……大したことだと思うけど」

「はは」


 そうかもね。


 メリクは少し沸騰したお湯を椀に注いでくれた。

「はい……熱いからね」

「ありがとうございます。温かい」

 毛布に包まりながら湯を飲んだ。

 白い湯気が夜の冷気に溶けて行く。


 そのまま空を見上げた。


 厚い霧。


 月や星はどこへ行ったんだろう。


 あの輝きを、もう一度見たいとエドアルトは思った。


 彼は記憶を辿る時、よく光を辿る。

 それが自分だけなのかは分からないが、幼い頃の記憶を辿るときも、母といる礼拝堂の光や食卓にある光をよく思い出す。

 だから光が無いと、記憶の辿り方が曖昧になってしまうのだ。

 それでもこの霧が出ても自分の記憶が迷子になっていないのは、傍らにいる緑の魔術師が場面場面で光に成り代わるような明るい言葉を掛けてくれたからだと思う。


 エルシド。

 サンアゼール。

 ニケ。

 アンテア。

 ガルドウーム。

 ルブ。


 場所を思い出すとそこで何があったかより彼が何を言ってくれたかを思い出す。

 それに呼応させるように、その時の空気や景色が鮮やかに蘇る。



「メリク、おれ、メリクと会えて幸せです」



「なんなの突然……」

 可笑しそうにメリクは笑った。

「いえ、何となく……言っときたくて……」




「――……俺も君に会えて良かったよ」




「本当ですか?」


 驚いた。

 彼はあまり、そういうことを言う人じゃないと思っていたから。

「なんでそんなに驚くんだ。本当だよ」

「いやだって……メリクがそんな風に言ってくれると思ってなかったから」

 メリクの口許が穏やかに緩んだまま、彼は焚き火を長い枝でそっと整えた。


「……俺はどうも、自分の好きな相手には嫌われることが多くてね」


「そうなんですか?」

「まぁね」

「信じられないです。あと、ミルグレンの前ではそれは言わない方がいい」

「はは。俺を慕ってついて来るなんて、君くらいのものだよ」

 エドアルトが向こうで眠ってる少女を指差す。

「あとレインもね」

 エドアルトも頷きながら笑った。




「運命について考えてた。

 ……運命というものは、どこまで自分の意志で紡げるんだろうって」



「そうやって考えるのは……やっぱり……メリクがその……【闇の術師】だからですか?」

「そうかもしれない。【闇の術師】の人生は【光の術師】の人生より遥かに受動的だ」

「……辛いですよね」

「いや、そうでもない。流れに身を任せることを覚えてしまえば案外そっちの方が簡単だし楽かもしれないしね」


 どうだろう。


 エドアルトはやっぱり、動きたい時に自分の意志で動けないことは辛いような気がした。

 でも自分が動くたびに誰かが不幸になるなら、動きたいとは思わなくなるかもしれない。

 神様が動きなさいと言ってくれた時だけ、安心して動けるのかもしれない。

 そういう風になるのかもしれないと彼は考えながら、もう一口温かいお湯を飲んだ。


「メリクが、自分の意志で一番やりたかったことって何ですか?」

「一番やりたかったこと?」

「うん。今まで、やれなかったことの中で……」


 沈黙が落ちる。

 何を思い起こしているんだろう。

 エドアルトはメリクの横顔を見ながら考えた。


 メリクの人生。


 今、こうして自分を教え導いてくれている彼は、どんな人生を送って来たのだろう。

 ……同じように教え導いてくれた人が彼にもいるんだろうか。


 メリクの周囲には確かに、いつも拭いされない儚い影のようなものが漂っていた。

 彼の飄々とした言動にいつもそれは隠れているけど。

 悲愴感、というほど強い、重苦しいものではない。

 でもエドアルトの苦悩を引き裂いて注ぎ込んで来る彼の言葉には、現実に苦しんだことがない人間には紡げない強い意志があった。


 それでも、そういう言葉を知っていても、彼は敢えて自分からはその言葉を紡がない。


 魔術師というものは、覚えても使わない魔法というものが結構あるらしい。

 これは彼が言っていた。

 丁度それと似ている。

 彼は自分が望めばその言葉を使って、数多の人間を照らし導くことが出来る人なんだろう。

 でもメリクはそれを望んでない。

 誰かを導くことを。


 そうして誰かと縁や絆を築くことを。



「やりたかったことね…………何かな」



 自分の膝の上に頬杖をついて考えた。

 途方もない問いだ。

 メリクからするとそれは正しくは「やらなければ良かったこと」という表現の方が当てはまる。

 メリクは多分、目の前の少年が思うよりずっと何事も我慢せずに生きて来た。

 確かに忍耐は必要とされる生ではあっただろうが多分、そうやって自分の心を押し殺して生きることさえ、ある意味でメリクが望んで選んだことなのだから。


 だから自分は、やりたいことを十分やって来たのだとメリクは思う。


 彼の人生はまさに、やらなければ良かったことの連続だ。

 その結果として今がある。


 この世を無為に彷徨い歩く、不死者のような人生が。


 魔術で罪の無い人を傷つけなければ良かった。

 グインエル王子の名を口にしなければ良かった。

 あの日グインエル王子に花など届けようと思わなければ良かった。

 あの礼拝堂でリュティスに会わなければ良かった。


 ヴィノで――アミアカルバに救われなければ良かった。



 過ちを直そうと糸を解いてみれば、結局そこまで遡る。



(生き延びていなければ)



 今こうして、生に憂うこともなかった。

 メリクはそんなどうしようもない考えに囚われることがある。

 ミルグレン・ティアナは恐らく、まだサンゴール王国にいただろう。


 でも、最近は少し心に変化がある。


 エドアルトの成長する姿を見たときだ。

 ミルグレンはともかくとして、自分が生き延びなければ……この少年のことは、導けなかった。


 きっと光を負う彼のことだ。

 自分がいなければ他の誰かが彼をちゃんと導いただろう。

 そうには違いないけれど、彼を導いている、そのこと一つでメリクは今まで胸の奥にあった『生き延びなければ良かった』というどうしようもない考えを、とりあえず否定出来た。

 

 本当に、今、そのことだけで全てを救い肯定されている。



 そのことをエドアルトは知らないだろう。

 彼は彼が思う以上に「会えて幸せだ」という言葉がメリクの心にほんのりとした明かりを灯していることを知らない。


 彼をここまで教え、導いたこと。


(俺がこの世で唯一した、いいことかな)


 メリクは小さく微笑んだ。



「エドアルトはいいのかい。君はもう随分強くなった。

 国にお母さんを残して来てるんだろ?

【エデン天災】も始まったし……もうそろそろ国に戻りたくなったんじゃないかい。

 もしそうなら、気にしないで言ってくれていいんだよ」


「いや、俺は……。

 ……。メリクは……俺がそうしたらどうするんですか?」


 こっちを見たメリクの翡翠の瞳が綺麗に瞬いた。

「……俺はずっとこのままだよ。何も変わらない」


 メリクの瞳には時々孤独の影が宿る。

 でも、邪心や憤怒とは彼は無縁だ。

 何故そういう彼が【闇の術師】なんだろう。

 本当に彼を嫌うような人間がこの世にいるんだろうか?

 エドアルトには分からなかった。


(メリクの眼をちゃんと見れば、この人は誠実な人だってことは分かるのに)


 自分に分かるのだ。

 大概の人間はきっと分かる。

 エドアルトはそう思った。


「……、あのメリク……俺……確かに、母親のことは気になります。側にいてやりたいとも思うけど……でも、今、大変なのは世界中どこも一緒でしょう?

 母は俺が戻っても、きっと世界の困ってる人間を助けなさいって言うと思うんです。

 そういう人だから……。

 エデンに住む一人の人間として、……今は出来る限りのことを」


 メリクはエドアルトの言葉を聞いている。


「だからまだ、もう少し、メリクの側で勉強させてもらってもいいですか? まだ、こうやって……」


「……。君がそれを望むなら、構わないよ」


 ホッとした。

 でも同時にいいのかなとも思う。

 メリクは自分でやりたいこととか、本当にないんだろうか。


「メリク……冗談抜きに、この霧……これからずっとずっとこのままだったら世界はどうなっちゃうんですかね?」


「どうなっちゃうって……まぁ生態系がまず崩れるよね。

 北の方では実際にもう小さな村なんかは氷に飲み込まれたって言うし、作物も取れなくなって行くだろうし」


「大変なことになりますよね」

「なるね」

 メリクは火を整えた。

 まるで大した事無いみたいに彼は言った。

 自分には関わりのないことみたいに。

 エドアルトは妙な違和感を感じた。


 メリクは優しい人だ。

 彼は世界なんかどうとでもなれなんて酷いことを考える非情な人ではない。

 エドアルトははっきりと、それだけは知っている。


 その彼が何故そんな言い方をするんだろう。

 優れた魔術師であるメリクの言葉は、脈絡の無いことに思えても実はどこかで筋が通ってる。

 世界が五十年後、百年後……どうなるのかと聞いた時に彼が見せた無関心な様子。

 その理由が非情でないならなんだ。


 エドアルトはつい、とメリクの服の端を引いた。


「ん?」

「メリク、荒野の話、覚えてますか?」

「荒野?」

「メリクが前に……荒野の先にあるものを自分は見たって言ってたじゃないですか」

 ガルドウームで聞いた話だ。

 メリクは少し逡巡した様子を見せてから「ああ」と頷く。

「メリクが見た荒野の先には……何があったんですか?」



「何もなかったよ」



 エドアルトは息を飲む。

 メリクはやはり静かな横顔だった。

「何も、無かった?」

「うん。何もね。荒野の先に何も無いのを俺は見たんだ」


 確か、あれは荒野の先に光があると思えるから人は歩んで行ける。

 そんな話じゃなかったかと思う。


「メリク……、」



【エデン天災】が始まった。


 突然始まった世界の異変に、

 世界中の人が絶望している。

 絶望はもはや、珍しいものではなくなった。


「俺はそれを見たから、もう何かを得ようとするのをやめてしまった。

 だから俺は何も恐れないし何も怖くはないよ」


 こういうことを言うから、エドアルトはメリクという人間に驚くことがある。

 エドアルトは不死者も、荒野の先に何も無いのも嫌だ。

 怖いと思う。

 だけどメリクはエドアルトと同じものを見ても、別のことを思ったりしている。


 荒野の先に光があるから人は歩んで行ける。

 エドアルトもそう思ってる。

 もしくは帰る場所があるから。

 それが全部無くなったら、途端に今平気なものが全て怖くなりそうな気がする。

 平気だったものを恐れるようになるかもしれないと。


 だが緑の魔術師はやはり静かな声で言った。


「霧に包まれて皆が不安に思うのは、今まで見えていた光や平穏な明日が見えなくなってしまうからだ。

 最初から何も見えていなければ、霧に包まれてもさして困りはしない」


「何も?」

「何もね。

 言っただろ。俺は単なる善人じゃない。欲が無いのは認めるけどね。

 こういう旅をしていると色んな欲深い人間を見るけど……どんな人間に会っても俺は彼らの気持ちに同調することは出来なかった。

 何かをがむしゃらに求めた所で、俺はその何も自分の元には残らないことが分かってるからね。

 だから何にも執着しない。

 でも……」


 でも。


「人を幸せにする気が全く無い俺に会って、君は幸せだって言ってくれるだろ。

 それは思いがけないことだし、……荒野の先には何も無くても、その途中には時々光が差し込むこともあるんだっていうことを俺に教えてくれた。

 だからそう言ってもらえるなら、俺も少なからず幸せだよ」



 胸に突然何かが込み上げた。




「――――俺がいますよ、メリク」




 メリクは揺らめく炎を静かな瞳で見ている。

整った横顔は静かだ。


 もう何にも揺らされない。

 そんな彼の心に届くように、エドアルトはもう一度言った。



「荒野の先には俺がいます。

 貴方に教えてもらって、どれだけ助けられたか分からない。

 だからもうずっと、俺がそこにいるんですよ」


 上手く言えない。

 魔術と同じだ。

 やはり自分には魔術というのは向いてないのだと思う。

 メリクは言葉一つで自分に勇気や、知恵や、前を向く力を与えてくれる。

 でも自分の言葉はこの場に響くだけだ。

 メリクを振り返らせることも出来ない。 


 彼がそんな風に思った時、メリクがこっちを振り向いた。


 優しい顔で笑ってこちらに手を伸ばして来る。

 くしゃ、とエドアルトの頭を撫でた。




「……君は本当に強くなったよね」




「メリク……」



「嬉しいよ」


 優しい声で、彼はそう言ってくれた。




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