海賊の逆襲

わんし

海賊の逆襲

南シナ海は、常に熱を帯びた、そして時に危険な水域である。


多国籍の商船隊が連なる航路帯を護衛するため、日本海上自衛隊の最新鋭駆逐艦〈あやかぜ〉は、友軍艦艇とともに合同任務に就いていた。


任務はシンプルだ。


総勢十二隻の巨大タンカーとコンテナ船からなる船団を、この海域で頻発するテロや海賊行為から守り抜くこと。


〈あやかぜ〉の艦橋は、無駄な装飾を排した機能美に溢れていた。


中央に立つ艦長、浅間修一あさましゅういち二等海佐は、周囲の静けさにむしろ神経を研ぎ澄ませていた。


(この静けさが、一番不気味だ……)


と、彼は心の中で呟く。


この海域での海賊は、高速艇を用いた原始的なものが主流であり、最新鋭の駆逐艦が出動するような大規模な組織的襲撃は、数年報告されていない。


今日の巡航は、いわば定型業務のはずだった。


その定型を打ち破るかのように、ソナー員が突如として声を上げた。


「艦長!未確認音紋を複数感知!急速接近中!深度は深い!」


その報告を聞いた瞬間、浅間は背筋に氷を押し当てられたような寒気を感じた。


一般的な海賊が使う武装高速艇であれば、海面近くで騒音をまき散らすものだ。


しかし、この音紋は深海から、極めて静かに、そして異様な速度で近づいている。


「音紋解析急げ!深度と速力を!」


副長が緊張した面持ちで命令を復唱する。


モニターに映し出された三つの巨大な影。


そのシルエットは、海賊の装備としてはあまりにも不釣り合いな、洗練された流線型の船体を示していた。


それは、各国海軍が最も恐れる兵器――ステルス仕様のハイテク潜水艦の姿だった。


「信じられん……」


ベテランのソナー員が小さく呻いた。


音紋データからは、それが特定の国家の艦艇ではないことが示唆されている。


国産技術の流出品か、あるいは未知の国家が裏で供与した“影の艦隊”なのか。


正体不明の武装勢力は、自らを「深海の自由船団(リバティ・ウェイブ)」と名乗っていた。


彼らがこの海域を支配しようとしているのか。


あるいは、商船隊の積荷に国家機密級の重要物があるのか。


いずれにせよ、〈あやかぜ〉は商船を守る盾となって、深海の闇へと追い込まれていくことになる。


浅間艦長は、静かにブリッジを見回し、そして覚悟を決めた。


「総員、臨戦態勢!敵はハイテク潜水艦だ。油断するな!」


薄い雲の間から太陽が差す穏やかな海面は、数時間前と変わらない。


しかし、その下、水深200メートルの世界はすでに戦場へと変わりつつあった。


ソナー室では、レーダー員が額に汗を浮かべながら、耳障りな微弱音を追っていた。


「ターゲット、深度200メートル地点で捕捉。あり得ない軌道を辿っています!


「蛇のようにうねり、時にレーダーから完全に消滅します!」


「何だと?!」


「それはステルス機能だけではない。」


「おそらく、船体表面の電磁波吸収コーティングに加え、低周波パルスによる音響かく乱装置を併用している……」


浅間艦長は、その技術レベルの高さに嫌な予感を覚えた。


これは単なる海賊ではない。


国家レベルの支援を受けた、高度に訓練された部隊だ。


(もし敵が本気で沈めに来たら、今の駆逐艦では分が悪い……)


その時、護衛対象の商船隊に向けて、不気味な無線が流れた。


クリアな英語と、抑揚のない冷たい合成音声。


『こちら深海の自由船団(リバティ・ウェイブ)。今からお前たちの積荷をいただく』


商船隊のオペレーターたちが動揺する様子が通信で伝わってくる。


略奪の脅迫は、一見すると従来の海賊と同じだ。


しかし、その数秒後、すべてが変わった。


海面に突如として二本の巨大な水柱が上がる。


爆発音は距離的にさほど大きくないが、その着弾地点は正確無比だった。


目標は、積荷を持つ商船ではなく、〈あやかぜ〉の進路を完璧に塞ぐ、警告射撃――“威嚇攻撃”だった。


「艦長!敵潜は魚雷を発射しました!着弾まで十秒前!」


「威嚇だと?!ふざけるな!」


浅間は瞬時に判断する。


彼らの目的は物資ではなく、海軍の駆逐艦を沈めること、あるいは無力化することだ。


海賊のレベルを超えた火力がそこにあった。


「敵潜、水上攻撃意図ありと判断。対潜戦闘配置!」


「商船隊に通達!速度を落とさず、我々の後方三海里を維持せよ。我々が盾になる!」


ブリッジは一瞬にして緊張の坩堝と化す。


乗組員たちは訓練通りの動きで配置につくが、その心臓は恐怖と興奮で激しく脈打っていた。


魚雷の音響がソナーに響く。


それは、もうすぐ自分たちの命を奪うかもしれない「死の音」だ。


「目標魚雷、回避運動開始!面舵一杯!」


「面舵!」


駆逐艦は轟音を上げながら急旋回する。


海面を切り裂くように船体を傾け、水飛沫をあげる。


辛うじて二発の魚雷は艦尾を通り過ぎ、遥か彼方で爆発した。


しかし、これは始まりにすぎなかった。


敵潜は、ここから本格的な追走戦術へと移行する。


〈あやかぜ〉の回避行動は成功したものの、敵潜水艦の戦術は極めて巧妙だった。


彼らの潜水艦は、従来の静粛潜水艦とは比べものにならない超静粛モードで航行していた。


さらに、無線電波を一切使わず、海中で極細のレーザーパルス通信を用いることで、ほとんどすべての音紋と電波情報から姿を消すことに成功していた。


「敵潜、深度250メートルで停滞中!推進音、ほぼゼロ!艦底の海水摩擦音しか拾えません!」


ソナー室からの報告に、浅間艦長は舌打ちをする。


(まるで遊ばれているようだ……)


〈あやかぜ〉は、商船隊を護衛するという宿命から、この海域を離れるわけにはいかない。


にもかかわらず、敵潜は〈あやかぜ〉の護衛限界域で接近と離脱を繰り返し、まるで獲物を追い込むハンターのように、魚雷の射線を強制するように航路を操る。


「艦長、この航路だと、まもなく深度100メートルまで潜れる海底地形の浅瀬に誘い込まれます!」


「あそこは潜水艦にとって絶好の待ち伏せポイントです!」


副長が焦りの色を隠さずに報告する。


浅間は苦渋の選択を迫られた。


(浅瀬に誘い込まれるのは危険だが、商船隊を見捨てるわけにはいかない……)


ソナーチームは極度の集中力をもって音紋を解析し続ける。


「艦長!」


「この音……軍用でも聞いたことがありません!推進音が、突然“消えたり現れたり”しています!これは、音響ステルス技術だ!」


敵潜は、特定のタイミングで推進音を遮断し、慣性で滑走しているのか。


あるいは、音響を歪ませる何らかの技術を使っているのか。


いずれにせよ、それは駆逐艦側のソナー技術を完全に上回っていた。


その刹那、敵潜水艦が再び動く。


今度は確実に〈あやかぜ〉を仕留めに来た。


四方から迫りくる魚雷が、護衛艦を包囲するように迫りくる。


「四本!魚雷四本が向かっています!回避不能!」


絶望的な報告が響き渡る中、浅間艦長は即興で常識外れの“危険な賭け”に出る。


「全エンジン後進!最大出力!同時に面舵一杯!」


「な……?! 全エンジン後進ですか!?」


副長が戸惑うのも無理はない。


高速で前進する駆逐艦が、突然最大出力で後退すれば、船体の真横に巨大な波と強烈なスクリュー音の反射波が発生する。


この人工的な「ノイズの壁」で魚雷のソナーを狂わせるという、常識破りの奇策だった。


「やれ! この反射波で魚雷の音響ソナーを欺瞞する! 賭けだ!」


乗員たちは艦長の常識外れの奇策に一瞬の迷いも見せず、操舵輪とコンソールに手を走らせる。


轟音と激しい振動が艦全体を揺さぶる。


その結果、三本の魚雷が波の反射に誘導を狂わされ、無情にも明後日の方向へ逸れていった。


しかし、一本だけが船底めがけてまっすぐに迫ってくる。


「一本が船底へ!残り三秒!」


「デコイ射出!全弾!」


最後の瞬間に射出されたデコイが、魚雷のソナーを噛ませて方向を逸らすことに成功する。


大爆発は起こらなかった。


深海のハンターの第一波攻撃を、〈あやかぜ〉は艦長の即興戦術と乗組員の結束で、辛うじて乗り切ったのだった。


激しい振動が収まった艦橋に、安堵と、それ以上の緊張感が満ちた。


魚雷を回避したものの、彼らはまだ浅瀬の待ち伏せポイントにいる。


そして、商船隊はまだこの海域を抜けていない。


商船隊を守るため、浅間艦長は逆に“あえて”敵潜が有利な深度へと降りていくことを決断した。


水深400メートル、光の届かない深海の領域だ。


「潜水艦の領域に、わざと飛び込む……艦長、よろしいのですか?」


副長が不安げに問う。


「この海賊に見せかけた勢力は、略奪が目的じゃない。彼らは、さっきの魚雷回避で確信したはずだ。」


「これは明らかに“試している”。俺たちの駆逐艦としての性能と、この乗組員たちの対応力をな」


浅間はモニターを見つめ、静かに続けた。


「奴らの技術は最高水準だ。だが、その技術を誇示することで、かえって弱点を露呈した。」


「あんな高性能な潜水艦を持つ勢力が、わざわざ原始的な威嚇攻撃を仕掛ける必要はない。」


「つまり、何らかの理由で本格的な戦闘を避けたい事情があるか、あるいは、我々を深海で葬ることに、何らかの政治的あるいは技術的な意味がある」


そこは水温、深度、潮流のすべてが〈あやかぜ〉にとって不利な条件が重なる深海だった。


しかし、この不利な状況こそ、逆転のチャンスを生むと浅間は考えた。


「第二の奇策を発動する。敵のステルス性能は強力だが、海底地形の影には隠れられない。ソナーチーム、海底地形の影を使って“逆探知”するぞ!」


ソナーチームは、艦長の指示に従い、海底に広がる尾根や岩場の反響特性を解析する作業に取り掛かった。


水中の音波は硬い物体にぶつかると反射する。


通常、この反射波はノイズとして扱われるが、浅間はこれを逆手に取るよう命じた。


駆逐艦のソナー音を海底に正確に打ち付け、敵潜水艦が発する極微量のエンジン波を「反響増幅」させることで、敵の位置を炙り出すのだ。


数十秒間の沈黙の後、ソナー室から歓喜の声が上がる。


「艦長!」


「成功です!海底の尾根からの反射波を解析! 敵潜の鮮明な位置情報が描き出されました!深度380メートル!」


反撃のチャンスだ!


「対潜ミサイル、発射準備!ターゲットロック!発射!」


VLSが轟音と共に作動し、対潜ミサイルが深海へ向けて放たれる。ミサイルは正確にターゲットへ向かうはずだった。


しかし、敵潜は、信じられない機動性でそれを回避した。


魚雷とは違い、垂直に落ちてくる対潜ミサイルを、潜水艦が瞬時に回避するなど、常識ではあり得ない。


まるで水中の戦闘機だ。


ミサイルは空しく目標を逸れ、敵潜は逆に、猛スピードで〈あやかぜ〉の真下へ潜り込んできた。


「敵、真下に!魚雷発射管開放!我々を底から狙うつもりだ!」


追撃を受けた〈あやかぜ〉は、魚雷の射線から逃れるため、さらに深く、水圧限界ギリギリまで沈下する。


船体が軋み、鋼鉄が悲鳴を上げる音が艦内に響き渡る。


「艦長!深度500メートル!限界値を超えます!船体がもたないぞ!」


極度の恐怖に、乗組員たちは顔面蒼白となる。


だが、誰も持ち場を離れなかった。


彼らは互いに声を掛け合いながら、目の前のコンソールに集中する。


「大丈夫だ!船はまだ生きている!俺たちが守る!」


「操舵員、僅かに右へ傾けろ!船底の角度を変える!」


一等海士の操舵員が、涙をこらえながら指示通りに操舵輪を回す。


彼らは恐怖を押し殺し、この危機を乗り越えるために一心不乱に操作を続けた。


艦長もまた、彼らのその結束力を信じ、最後の局面への準備を進める。


限界深度で船体が軋む中、敵潜は最後の魚雷を発射した。


それは、この戦いに終止符を打つための一撃だった。


「魚雷接近!深度480メートル!真上へは逃げられません!」


このままでは、〈あやかぜ〉は海底で座礁するか、魚雷の直撃を受けて沈没する。


まさに絶体絶命の窮地。


その瞬間、浅間艦長は、この深海戦の決着をつけるための、大胆不敵な指示を下した。


「船体を左へ傾斜させろ!全速で海底の地形にぶつける! 衝撃に備えろ!」


「ぶ……ぶつける?!」


ブリッジに再び衝撃が走る。


駆逐艦の船体を、わざと海底の岩場に接触させるという、艦の損傷を無視した荒業だ。


(この一撃で、魚雷の誘導を狂わせる! やるしかない!)


ガガガガン!


艦全体に響き渡る巨大な衝撃音。


乗組員は椅子から投げ出されそうになる。


だが、この瞬間、浅間が狙った人工的な水流と強烈な反響が生まれた。


海底にぶつかって生まれた強烈な音響反射波は、敵魚雷の誘導装置を完全に狂わせ、魚雷は目標を見失い、無力なまま海流に流されていった。


「よし!全エンジン前進!最大上昇角で海面へ向かえ!」


損傷覚悟の奇策で魚雷を回避した〈あやかぜ〉は、今度は最大出力で一気に海面へと向かう。


急激な深度の上昇は、乗員たちの体にも大きな負担をかける。


しかし、彼らは誰も弱音を吐かず、脱出を信じて耐え続けた。


上昇中、浅間艦長は最後の決断を下す。


「敵潜はまだ我々を追ってくるつもりだ。ソナーチーム、敵潜の浮上ルートを予測しろ!」


「予測深度300メートル地点で浮上開始と見られます!」


「対潜ロケット!あの浮上ルートに、爆雷を“先回り”して空間を封じる!深度300メートル!今すぐだ!」


ロケットに搭載された爆雷は、敵潜が浮上を開始する予測地点よりも遥かに早く、その空間へ送り込まれた。


浅間艦長は、まるで敵の思考を読み取ったかのようなタイミングで、作戦を実行した。


潜水艦乗りにとって、浮上経路を塞がれることは、最も致命的な脅威となる。


数十秒後、〈あやかぜ〉の遥か下、深海に轟音と共に爆雷の衝撃音が響き渡る。


それは、敵潜水艦の上昇経路が断たれたことを示す音だった。


追跡を続けることが不可能になった敵潜は、新たな爆雷の恐怖と、自艦の損傷を懸念し、姿を消すようにさらに深い深海へと沈んでいった。


〈あやかぜ〉は、ついに海面を割って、久々の太陽の光を浴びた。


船体のそこかしこには戦闘の傷跡が残っている。


だが、船はまだ生きている。


太陽の光が乱反射する、穏やかな海面。


商船隊は無事この海域を通過し、任務は成功と判断された。


しかし、浅間艦長の表情は複雑だった。


船体に残された衝撃の痕跡を見つめながら、彼は低く呟く。


「海賊が持つには不自然すぎる技術だ……超静粛モード、レーザーパルス通信、そしてあの超機動性。」


「あれは、国家レベルの最新鋭潜水艦を遥かに凌駕していた。いったい何者なのか……」


それは、単なる海賊行為ではない。


まるで、どこかの超大国が、自国の軍事力を試すために、この公海上で実験を仕掛けたかのようだ。


そして、その実験台にされたのが、自分たち〈あやかぜ〉だった。


乗組員たちは、応急修理を行いながら、互いに視線を交わす。


疲労の色は濃いものの、そこには深い達成感が宿っていた。


「艦長、艦体の損傷は大きいですが、主要機関に問題ありません。すぐにでも、商船隊に合流できます」


副長の報告に、浅間は小さく頷く。


深海での極限の戦闘。


それは、艦長の即興戦術と、一人ひとりの乗組員の揺るぎない結束によって切り開かれた勝利だった。


恐怖に震えながらも、命令に従い、艦を守り抜いた彼らの姿は、まさにプロフェッショナルそのものだった。


この海のどこかで、あの“影の潜水艦”が再び現れるかもしれない。


それは、未来の戦場の形を変える、新たな脅威となるだろう。


だが、同時に乗員たちは確信していた。


――自分たちなら、この駆逐艦〈あやかぜ〉と、この結束力があれば、どんな深海の闇でも、どんな未知の脅威でも、必ず突破できる、と。


彼らの視線の先には、再び航行を始めた商船隊の白い船影があった。


そして、その視線は、この先の厳しい航海、そして未来の戦場へと向けられていた。




これが、海賊の名を騙った影の艦隊と、一隻の駆逐艦が繰り広げた、最初の戦いの記録である。

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海賊の逆襲 わんし @wansi

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