第5話 音色
帝の御前で筝を弾く。
こんな名誉なことがあって良いのだろうか。
貴人たちの視線が一気に琴に集まり、緊張感が余計に膨らむ。指はがくがく震えて、心臓は飛び出しそうなくらい鼓動を刻む。
「準備ができたらで良い。ゆっくりと落ち着いて弾け」
「はい」
帝の顔は見えない。
だが、そのゆったりとした声が妙に落ち着く。騒めいていた鼓動が、すぅっと収まるくらいに。
大好きな箏に手を触れる。
『琴……』と母の声が聞こえた気がした。
今は亡き母。優しくて大好きだった母。
──お母さま……。わたしは今、陛下の前にいます。今から箏を弾きます。聴いてください。
始めは、弦ひとつから。
優しく柔らかに弦を響かせる。
途端、自分が今、帝の前にいるということを忘れた。
自分の世界へ入り込んでいく。
◇
「すごい……」
義兄は思わずつぶやいた。
久しぶりに妹の箏を聴いたが、言葉で表せないほど素晴らしいものだった。
心を揺り動かされるような、暖かく包み込むような、繊細で優しい音色。
この一座は、一番の奏者が座長を継ぐ。
そのために、義兄たちは利権争いが絶えなかった。
利権争いに琴は含まれなかった。現座長を父に持つ実の娘でありながら、父親がその権利を与えなかったのだ。
だが、自分たちが利益を求めて争っている間、琴はずっと箏を弾いていた。
箏以外に、琴には何もなかったから。
箏が弾ければ義姉や義兄に認められると思ったから。
琴のつらい過去を唯一照らした光が、箏の演奏に現れている。
ずっと聴いていたい。
自然とそう思わせる筝だった。
◇
──これが筝か?
朝陽は驚愕していた。
ここに座り、筝を奏でた者は数十人。
すべての者が巫女に認められるため、必死に弾いていた。
時折、朝陽の顔色を伺いながら。
間違えまいと目を凝らしながら。
筝を始めとする雅楽は聖花国においてとても重要なものだ。
だが朝陽は、筝を好む気になれなかった。
ただ箏を聴きたいだけなのに、どんな者も帝の前となると、緊張するどころか己の筝が一番だとでも言うように筝の音をごてごてと飾り立てる。
だから好めなかった。単調で美しい箏本来の音色を、その手で響かせられないことが許せなかった。
今まで会って来た奏者は全員、朝陽の望む筝ではなかったのだ。
しかし、彼女は違った。
巫女の前であろうと、帝の前であろうと、自分の好きな筝を好きなように奏でている。
顔は強張っていない。むしろ楽しそうに嬉しそうに筝を弾いていた。
こんな素の姿を帝に見せた者は初めてだ。
──筝は……こんなに綺麗なものだったのか。
委ねた身体がふわりと軽くなった気がした。
*
しゃん……。
弦を抑えている左手で、音を震わせた。
そしてぴたりと止める。
「ふぅ」
一曲弾き終え、息をつく。
楽しかった。
こんなにも自分の音色を表現できたのは、本当に久しぶりだった。
楽しくてたまらなかった。
名残惜しく思いながら、筝から手を離す。ゆっくりと視線を上げると、貴人たちの目が自分に集中していた。
「……え」
楽しかったという感情から、一気に現実に引き戻される。
ここは宮殿。帝の御前。
ただ筝を弾きに来たのではなく、聖琴師の選定会。
それを理解した途端、ぶわっと顔が熱くなった。
(恥ずかしい!)
我を忘れて筝を弾いてしまった。
しかも、帝がいらっしゃるというのに。
恥ずかしくなって、隣にいた祖父の後ろに隠れる。
「琴。恥ずかしがらなくても、良い演奏だったぞ」
和之が、優しい声で頭を撫でてくれた。
それでも、恥ずかしいものは恥ずかしい。帝の御前で失礼なこととはいえ、和之の後ろから出ることができなかった。
「それでは、主上。ご決定のほど、よろしくお願いいたします」
司会役の役人が、静かに声を発する。
その場は一気に静まり返り、帝の言葉を待つ。
「あの娘か?」
「いや、まだ幼すぎる。違う者だろう」
ひそひそと囁き声が聞こえる。
琴は、その言葉を聞きながら和之の衣をぎゅっと握りしめた。
自分から弾きたいと申し出たとはいえ、聖琴師になる勇気はない。ただ、ここで筝が弾けたことだけで十分だ。何せ、本当は筝を聴きに来ただけなのだから。
「……おい。分かっているな?」
ふと、足首がぐいっと握られた。
見れば、義兄が琴の足首に力を込めていた。
痛みに顔をしかめると、義兄はすっと顔を寄せてくる。
そして、琴の耳元で囁いた。
「お前は聖職者になる権利はない。辞退しろ」
「でも、お義兄さまが聖職者になられる確率も高くはないのでは……」
選定会に集められたのは、琴を含めて六人。
義兄が選ばれるのも、確定ではない。
それでは、別に辞退をしなくてもいいのではないかと考えたのだ。
しかし。
「うるさい。万が一のことも考えて行動しろ。分かったな?」
「……そんな」
「いいから早く。『私は、皆さまには及びません。辞退いたします』と言え」
もう逆らえない。
選ばれる気はなくても、もう人前で発言すらしたくなかったのだ。
それでも、義兄にそう言われたら仕方がない。
義兄は、祖父には聞こえない声で脅してきた。かなり本気なのだろう。
ここで反論しても無駄だ。父のときと同じように、反論するより従った方が楽なのである。
「……辞退、いたします」
琴は、すっと頭を下げた。
帝がおられる御簾に向かって、深々と礼をする。
「私は、皆さまには及びません。辞退いたします」
義兄が用意した言葉を、そのまま発する。心のこもらない、無機質な声が広間に響き渡った。
貴人たちが動揺しているのが分かる。それに伴って、隣で不敵に笑う義兄の姿が目に映る。
あぁ、こんな恥ずかしい想いをするのなら、弾かなければよかった。
ただ聴くだけで留めておけばよかった。
そこまで考えて、悔しくなる。
大好きな筝を陥れられた、そんな気分だった。
「そうか」
帝の声が、重たく響いた。
御前であるのにも関わらず、帝が言葉を発する前に申し出た。これは不敬罪に当たる。
琴は、ぎゅっと衣を握りしめるしかできなかった。
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