第2話「芽生える気持ちと初めての熱」

「緋色の翼」での生活は、アキトにとって、戸惑いの連続から始まった。

 案内された部屋は、ベッドと小さな机、簡素な棚だけの殺風景な小部屋だったが、雨風をしのげる場所があるだけでありがたかった。

 問題は、そこでの暮らしだ。


 雑用係としての仕事は、主にギルドの掃除や食事の準備、そして冒険者たちが持ち帰る素材の整理などだった。

 どれも未経験の仕事ばかりで、最初のうちは失敗ばかり。

 特に、グロテスクな魔物の素材を捌くのは、平和な日本で生きてきたアキトにとって苦行以外の何物でもなかった。


 ギルドのメンバーたちからの視線も、決して温かいものではなかった。


「おい、カイエン様の拾いもの。そんな手つきで、いつになったら終わるんだ?」


「こいつ、本当にベータか? ひょろひょろで力もねえし、ベータ崩れの役立たずじゃねえのか?」


 彼らの言葉には、棘があった。

 カイエンという絶対的なリーダーに保護されていることへのやっかみと、オメガであることを隠してベータとして振る舞うアキトへの侮りが入り混じっている。


 アキトは、自分がオメガであることは隠していた。

 カイエンからも「体調が安定するまでは、余計なことを言うな」と釘を刺されていた。

 この世界でオメガがどういう扱いを受けるのか分からない以上、それは賢明な判断だった。

 しかし、そのせいで彼は本来の性別を偽り、力のないベータとして見下されることになった。


 悔しさに唇を噛み締めながらも、アキトは黙々と仕事に打ち込んだ。

 ここで追い出されたら、本当に生きていけない。

 その一心だった。


 そんなアキトの転機となったのは、彼の持つ「現代日本の知識」だった。

 ある日、アキトはクエストの受付カウンターが常に混乱していることに気づいた。

 依頼書(クエストボード)は掲示板に無造作に貼られ、誰がどの依頼を受けたのか、達成状況はどうなのか、報酬の支払いは済んだのか、その管理が驚くほどずさんだったのだ。


 アキトは前職で培った事務処理能力とファイリングの知識を活かし、受付管理の改革に乗り出した。


 まず、依頼書をランク別、地域別、種類別に分類し、誰にでも分かりやすいように整理した。

 そして、受注状況を管理するための一覧表を作成し、受付担当のリンクにその使い方を丁寧に教えた。

 さらに、煩雑だった報酬の計算やギルドの経理についても、簡単な複式簿記の概念を取り入れて帳簿を整理し直した。


「すげえ! アキト、お前、天才かよ!?」


 リンクは目を丸くして驚いた。

 これまで何時間もかかっていた月末の締め作業が、アキトの作った帳簿のおかげで数十分で終わってしまったのだ。

 その噂は、すぐにギルド中に広まった。


「あいつ、ただの雑用係じゃなかったのか」


「俺の装備の修繕費、計算が間違ってたのをあいつが見つけてくれたんだ。損するところだったぜ」


「この前の討伐クエストの報告書も、あいつが分かりやすくまとめてくれたおかげで、追加報酬が出たらしい」


 侮りの視線は、次第に驚きと尊敬のそれへと変わっていった。

 力仕事は苦手でも、自分たちにはない知識と能力で、確実にギルドに貢献している。

 その事実を、皆が認め始めたのだ。


 最初は「ベータ崩れの役立たず」と罵っていた強面の戦士が、ぎこちなく「いつも、助かってる」と礼を言ってきた時は、アキトも思わず目頭が熱くなった。

 自分の居場所が、少しずつ出来ていく。

 その実感は、異世界での孤独な心を温めるのに十分だった。


 ***


 カイエンもまた、そんなアキトの変化と、彼がギルドにもたらした影響を静かに見守っていた。

 カイエンはギルドマスターとして、誰よりもギルドのことを考えている。

 しかし彼は、力で仲間を率いることには長けていても、組織を細かく運営するような細やかな作業は苦手だった。

 アキトは、カイエンがずっと見て見ぬふりをしてきた、ギルドの弱点を完璧に埋めてくれていた。


 夜、マスター室で報告書を眺めていたカイエンは、そのあまりの分かりやすさに思わず感嘆のため息を漏らした。

 以前までの、殴り書きのような報告書とは比べ物にならない。

 これも、アキトが書式を統一し、指導した成果だった。


 いつの間にか、アキトの存在を目で追うのが当たり前になっていた。

 真面目な顔で帳簿と向き合う横顔。

 仲間と笑い合う、少しはにかんだような笑顔。

 自分に気づいて、慌ててお辞儀をする律儀な姿。

 その一つ一つが、カイエンの心を捉えて離さない。


 あの日路地裏で感じた、甘く蕩けるような香り。

 運命の番だと、本能が叫んでいた。

 だが、カイエンはアキトに手を出さなかった。

 異世界に来たばかりで、オメガになったことに戸惑い、怯えている彼を無理やり組み敷くことなど出来なかったからだ。

 理性が、本能を必死に抑えつけていた。


 だが、その理性も、いつまで持つか分からなかった。

 アキトがギルドに馴染み、日に日に生き生きと輝きを増していく姿を見るたびに、胸の奥で燻る独占欲の炎は大きくなるばかりだった。


 そんなある夜、事件は起きた。

 その日、アキトは夕食の後片付けを終えた後、自分の部屋で遅くまで経理の仕事に追われていた。

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったギルド。

 集中してペンを走らせていた、その時だった。


 ふわりと身体の芯から熱が湧き上がった。


(……なんだ?)


 最初は、疲れが出たのかと思った。

 しかし、熱はどんどん勢いを増し、まるで血液が沸騰しているかのような錯覚に陥る。

 診療所の老人が言っていた言葉が、脳裏をよぎった。


 ――『ヒート』。


 息が荒くなり、思考が霞んでいく。

 身体の奥から、自分でも制御できない甘い香りが溢れ出すのが分かった。

 濃密な、アルファを狂わせるための香り。


「はっ……ぁ、う……っ」


 まずい、誰かに気づかれたら。

 特に、アルファにこの匂いを嗅がれたらどうなる?

 アキトはよろめきながら扉に鍵をかけ、ベッドに倒れ込んだ。

 しかし、焼け石に水だった。

 熱は引くどころか、ますますアキトの理性を蝕んでいく。

 誰でもいい、強いアルファに抱かれたい。

 そんな、本能的な欲求が頭をもたげる。


(だめだ……だめだ、しっかりしろ……!)


 必死に自分に言い聞かせるが、身体は言うことを聞かない。

 涙が溢れ、シーツを掻きむしる。

 助けを呼びたいのに、呼んではいけない。

 そのジレンマに、精神が引き裂かれそうだった。


 その時だった。

 部屋の扉が、外から激しく叩かれた。


「アキト! 開けろ、俺だ!」


 カイエンの声だった。

 彼の声には、切羽詰まったような焦りの色が滲んでいた。


(どうして、カイエンさんが……!?)


 アキトは混乱した。

 鍵をかけているはずなのに、どうして。


 次の瞬間、凄まじい音と共に、扉が根元から吹き飛んだ。

 呆然とするアキトの目に映ったのは、肩で息をしながら、緋色の瞳を苦痛と欲望に歪ませて立つカイエンの姿だった。


「この匂い……やはり、ヒートか」


 カイエンは、部屋に充満した甘いフェロモンを吸い込み、ぐらりとよろめいた。

 アルファの本能が、目の前のオメガを貪れと激しく叫んでいるのが、その表情から見て取れた。


「カイエン、さん……だめ……来ないで……」


 か細い声で懇願するアキト。

 しかし、カイエンはゆっくりと、一歩、また一歩とベッドに近づいてくる。

 その瞳は、獲物を前にした獣のようにぎらついていた。

 もうおしまいだ。

 このまま、本能のままに抱かれてしまう。

 アキトが恐怖に目を閉じた、その時。


 カイエンの足が、ぴたりと止まった。

 彼は苦悶に満ちた表情で額を押さえ、荒い息を繰り返している。


「くそっ……なんて匂いだ……」


 カイエンは、自分の本能と必死に戦っていた。

 理性の最後の砦で、欲望の濁流を食い止めている。

 アキトを傷つけたくない。

 彼の意思を無視して、無理やり抱くことだけはしたくない。

 その一心だった。


 何分そうしていただろうか。

 やがてカイエンは、覚悟を決めたように顔を上げた。

 その瞳には、先ほどの獣のような光はなく、代わりに深い覚悟と、アキトを慈しむような色が浮かんでいた。


 彼はベッドに近づくと、震えるアキトの身体を、力強く、それでいて壊れ物を扱うかのようにそっと抱きしめた。


「……大丈夫だ。俺がいる」


 耳元で囁かれた低い声に、アキトの身体からふっと力が抜けた。

 カイエンの腕の中は、不思議なほど安心できた。

 彼の匂いは、アキトの暴走する本能を優しく宥めてくれるようだった。


「アキト。今は何も考えるな。俺がそばにいるから」


 カイエンはアキトを抱きしめたまま、ベッドに腰を下ろした。

 彼はそれ以上、何もしてこなかった。

 ただひたすらに、苦しむアキトをその胸に抱き、背中を優しくさすり続ける。


 高熱と甘い香りに理性を失いかけるアキトを、カイエンは夜通し必死に介抱した。

 肌と肌が触れ合うたびに、アルファの本能が牙を剝く。

 そのたびにカイエンは歯を食いしばり、アキトの名前を呼んで理性を繋ぎとめた。


 夜が明け、最初の熱の波がようやく引き始めた頃。

 疲労困憊で眠りに落ちたアキトの寝顔を見下ろしながら、カイエンはそっと彼の汗ばんだ髪を撫でた。

 一晩中、肌を合わせていた。

 けれど、二人の間にあったのは欲望だけではない。

 それは、言葉では説明できない、もっと温かく、もっと深い絆だった。


 この夜を境に、二人の関係は確実に変わろうとしていた。

 運命の番という本能的な繋がりが、確かな心の絆へと姿を変え始めた瞬間だった。

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