残業中に異世界召喚され、男なのに妊娠できるオメガになって絶望していたら、最強無愛想アルファの運命の番として執着&溺愛されることになりました

藤宮かすみ

第1話「異邦人、朱き瞳のアルファと出会う」

 アスファルトの匂いも、車の騒音も、コンビニの明かりもない。

 それが、橘秋人(たちばな あきと)が意識を取り戻して最初に感じたことだった。


 全身を打ち付けたような鈍い痛みと、頭の芯が痺れるような感覚。

 おぼつかない足取りで路地裏の壁に手をつき、秋人はぜえぜえと荒い息を繰り返した。


(なんだ、ここ……どこなんだ……?)


 目の前に広がるのは、石畳の道と、煉瓦や木で造られた中世ヨーロッパを思わせる街並みだった。

 空を見上げれば、見慣れた青ではなく、ほんのりと紫がかった空に、緑色と黄金色の二つの月が浮かんでいる。

 ありえない光景に、思考が完全に停止した。


 つい先ほどまで、秋人は東京のオフィスで残業をしていたはずだった。

 鳴り響くキーボードの音、コーヒーの香り、同僚たちの囁き声。

 それが、どうして。


 記憶をたぐり寄せようとした瞬間、突如として閃光が脳裏をよぎった。

 そうだ、眩い光だ。

 パソコンの画面が突如として白く発光し、抵抗する間もなく意識が飲み込まれていった。

 まさか、あれが。


「う……っ、ぁ……!」


 思考を遮ったのは、身体の奥から突き上げてくるような、経験したことのない熱だった。

 内側から焼かれるような感覚に、思わずその場にうずくまる。

 腹の底がぐつぐつと煮え立ち、自分から甘くむせ返るような香りが立ち上るのを感じた。


 なんだ、これ。熱があるのか?

 でも、こんな奇妙な感覚は知らない。

 まるで、身体の作りそのものが変えられてしまったような、根源的な違和感と恐怖。


「おい、大丈夫か」


 不意に、頭上から低い声が降ってきた。

 見上げると、逆光の中に立つ大柄な男の姿があった。

 夕焼けの光を背負い、燃えるような赤い髪が風に揺れている。

 覗き込んできた瞳も、髪と同じ緋色をしていた。

 狼のような、鋭く猛々しい眼光。

 その圧倒的な存在感に、秋人は息を呑んだ。


 男は秋人の顔を見て、わずかに眉をひそめた。

 そして、何かを探るようにくんと鼻を鳴らす。

 その仕草に、秋人は得体の知れない恐怖を感じた。


「この匂い……お前、まさか……」


 男が何かを言いかけた瞬間、秋人の視界はぐにゃりと歪み、身体から完全に力が抜けていった。

 遠のく意識の中で最後に聞こえたのは、男の焦ったような声と、自分を力強く抱き上げる腕の感触だった。


 ***


 次に目を覚ました時、秋人は簡素なベッドの上に寝かされていた。

 木の天井と、薬草の混じったような匂い。

 身体を覆っていたあの奇妙な熱は、少しだけ和らいでいるようだった。


「気がついたかね」


 穏やかな声に横を向くと、白髪の老人が椅子に座ってこちらを見ていた。

 医者、だろうか。

 壁には薬草らしきものがたくさん吊るされている。


「あの……僕は……」


「あんたは路地裏で倒れていたんだよ。あの男がここまで運んできた」


 老人はそう言って、顎で扉の方を示した。

 そちらに目をやると、壁に寄りかかったまま腕を組む、あの赤髪の男が立っていた。

 緋色の瞳が、じっとこちらを観察している。


「体調はどうだね。まだ熱っぽいだろう」


「は、はい……。あの、僕の身体、どうなってるんでしょうか。何かの病気なんですか?」


 秋人の問いに、老人は難しい顔で口を開いた。


「病気、というのとは少し違う。あんたの身体は今、非常に大きな変化の最中にある」


「変化……?」


「単刀直入に言おう。あんた、体質が変わってしまった。それも、極めて希少な『オメガ』にな」


「オメガ……?」


 聞き慣れない単語に、秋人は首をかしげる。

 老人はため息交じりに説明を続けた。


「この世界には、三つの性別がある。圧倒的な力とカリスマを持つ『アルファ』。大多数を占めるごく普通の『ベータ』。そして、数は少ないが、アルファの子を産むことができる『オメガ』だ。オメガは男女問わず妊娠が可能で、定期的に『ヒート』と呼ばれる発情期が訪れる。その際、アルファを強く惹きつけるフェロモンを発するんだ」


 老人の言葉は、秋人の理解を完全に超えていた。

 妊娠? 発情期? フェロモン?

 まるで出来の悪いファンタジー小説の設定だ。


「冗談、ですよね……? 俺は、橘秋人。日本の……いや、とにかく、普通の男で、ベータです。そんな……」


「ベータだった、と言うべきだな。あんた、どうやら別の世界から来たんだろう? 強い魔力奔流に巻き込まれると、稀に体質が強制的に書き換えられることがある。召喚の衝撃が、あんたをベータからオメガへと変えてしまったんだろう。倒れていた時のあの熱と甘い香りは、最初のヒートが始まろうとしていた証拠だ」


 宣告は、あまりにも残酷だった。

 自分の身体が、自分でないものに変わってしまったのだ。

 見知らぬ世界に放り出された挙句、自分の性が根底から覆される。

 絶望が、冷たい水のように心の底から湧き上がってきた。

 秋人が言葉を失っていると、壁に寄りかかっていた赤髪の男がゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。


「おい。名前は」


 低い声が、静かな部屋に響く。


「……あきと、です。橘、秋人」


「アキトか。俺はカイエン」


 カイエンと名乗った男は、ベッドの脇に立つと、探るような目でアキトを見下ろした。


「医者の言う通りだ。お前からは、甘い匂いがする。間違いなくオメガのフェロモンだ。それも、かなり上質な」


 カイエンの言葉には、不思議な説得力があった。

 この世界の人間にとっては、それが当たり前の常識なのだろう。

 その事実が、アキトをさらに孤独にさせた。


「これからどうする。行く当てはあるのか」


 カイエンの問いに、アキトは力なく首を振った。

 帰る方法も分からなければ、この世界のことも何も知らない。

 金もない。

 まさに、路頭に迷うとはこのことだ。


 俯くアキトを見つめ、カイエンはしばらく何かを考えているようだったが、やがて短く息を吐いた。


「……行く場所がないなら、俺の所に来い」


「え……?」


 予想外の申し出に、アキトは顔を上げる。

 カイエンは少しバツが悪そうに視線を逸らした。


「俺は『緋色の翼』っていう冒険者ギルドのマスターをやっている。宿舎に空き部屋があるから、そこを使え。お前のような成り立てのオメガが一人でいたら、ろくなことにならん」


 その言葉はぶっきらぼうだったが、不思議な温かみがこもっていた。

 それは同情だろうか。

 それとも、彼が言っていたオメガのフェロモンとやらに惹かれているだけなのだろうか。


 疑念と感謝が入り混じる。

 しかし、今のアキトに、この申し出を断るという選択肢はなかった。


「……ありがとう、ございます。助かります」


 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。

 カイエンは鼻を鳴らすと、老人に治療費らしき金貨を数枚渡し、「世話になった」と告げた。

 そして、まだふらつくアキトの腕を掴み、立ち上がらせる。


「行くぞ」


 力強い手に引かれ、アキトは診療所を後にした。

 外に出ると、紫色の空はすっかり濃い藍色に変わり、二つの月が幻想的な光を投げかけていた。

 見たことのない夜景。

 行き交う人々の、獣の耳や尻尾が生えた姿。

 腰に剣を下げた屈強な男たち。

 すべてが、ここが異世界なのだという現実を突きつけてくる。


 ***


 カイエンに連れられてやって来たのは、街の中でもひときわ大きな、三階建ての建物だった。

 正面には、翼を広げた竜をかたどった看板が掲げられている。

「緋色の翼」――それが、カイエンのギルドの名前らしい。


 中に入ると、そこは酒場を兼ねた広々としたホールになっていた。

 木のテーブルと椅子がいくつも並び、カウンターの奥では酒瓶がずらりと棚に収まっている。

 夜も更けているというのに、ホールは多くの冒険者たちの熱気で満ちていた。

 屈強な戦士たちが酒を酌み交わし、弓を持った軽装の女狩人が談笑している。

 その誰もが、アキトにとっては異世界の住人だった。


 カイエンがホールに足を踏み入れた瞬間、喧騒が一瞬だけ静まり、全ての視線が彼と、その隣にいるアキトに注がれた。


「マスター、お帰りなさい! って、そいつは誰だ?」


 カウンターから、猫の耳を生やした快活そうな青年が声をかけてきた。

 その問いに、ギルド中の人間が耳をそばだてているのが分かる。

 カイエンは周囲の視線を気にも留めず、淡々と言った。


「行き倒れてたのを拾った。今日からここで雑用係として働かせる。名前はアキトだ」


 その言葉に、ギルド内がざわめく。

「へえ、マスターの拾いものかよ」「なんだかひょろっこいな」「ベータか?」などと、好き勝手な声が飛び交う。

 居心地の悪さに、アキトは思わずカイエンの後ろに隠れたくなった。


「リンク、二階に案内してやれ。部屋は一番奥のを使わせろ」


 カイエンが猫耳の青年に命じると、青年は「はいよっ!」と元気よく返事をしてカウンターから出てきた。


「オレはリンク。よろしくな、アキト! こっちだ、ついてこいよ」


 人懐っこい笑顔を向けられ、アキトは少しだけ緊張がほぐれた。

 リンクに促されるまま階段を上がろうとした時、背後からカイエンの声が飛んだ。


「アキト」


 振り返ると、カイエンの緋色の瞳がまっすぐにアキトを射抜いていた。


「お前は、俺のものだ。誰にも指一本触れさせん」


 それは、有無を言わせぬ絶対的な響きを持った宣言だった。

 ギルドのメンバーたちは、その言葉に驚き、あるいは面白がるように口笛を吹く。

 アキトだけが、その言葉の本当の意味を理解できずに、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。


 アルファの独占欲。

 後になって、アキトはその言葉の意味を身をもって知ることになる。


 運命が、静かに、そして確かに動き始めていた。

 平凡なベータだった青年と、最強のアルファと謳われる男。

 異世界で交わった二つの人生が、これからどんな物語を紡いでいくのか、まだ誰も知らなかった。

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