『薫る君の嘘をあばく ~放課後、香道部は化学室の片隅で~』
(´・∀・`)ヘー
第1話 毒ガス騒ぎと、嘘つきたちの聖域
1
世界は、耐え難いほどの悪臭に満ちている。
六月半ばの体育館は、蒸し風呂のような熱気に包まれていた。
全校生徒、約六百人。
彼らが発する汗の酸っぱい匂い制汗スプレーの安っぽいシトラス、そして床ワックスの油臭さが混じり合い換気扇の回らない閉鎖空間で濃縮されている。
だが、僕――篠原蓮司(しのはら れんじ)にとっての地獄はそれら物理的な「臭い」ではない。
「えー、来たる期末考査に向けて、諸君らには学生の本分を全うし……」
壇上で校長が口を開くたびマイクを通した音声と共にドブ川のような腐敗臭が漂ってくる。
典型的な欺瞞(ぎまん)の匂いだ。
心にもない定型文を読み上げるだけの乾いて腐り落ちた言葉の残骸。
それが鼻腔を突き刺し脳の奥を直接殴りつけてくる。
(……限界だ。吐き気がする)
僕は顔の半分を覆う黒いマスクの上からさらに手で口元を覆った。
袖口に忍ばせた小さな匂い袋――白檀(びゃくだん)と丁子(ちょうじ)を調合した防虫香のような清冽(せいれつ)な香りだけが僕の理性を繋ぎ止める唯一の命綱だった。
僕の鼻は、異常だ。
香道(こうどう)の家元である篠原家に生まれたせいかあるいは神様の悪質な悪戯か。
僕には他人の感情が「匂い」として知覚できてしまう。
嘘は腐敗臭。嫉妬は焦げたゴム。好意は熟れすぎた果実。
思春期の高校生がひしめくこの空間は僕にとって有害物質が充満するゴミ処理場も同然だった。
「――おい、あれ」
隣の列から、焦げ臭い囁き声がした。
見ると、最前列に並んでいた女子生徒の一人がふらりと身体を揺らしている。 彼女の周囲から、唐突に「恐怖」の匂いが爆発した。
それは血の鉄錆(てつさび)に似た、鼻の奥がツンとする鋭利な刺激臭だ。
「きゃあああああっ!」
悲鳴が、熱気を切り裂いた。
それを合図にしたかのようにバタバタとドミノ倒しのように生徒たちが倒れ始める。
「おい、どうした!?」
「なんか変な匂いがする!」
「ガスだ! 毒ガスが撒かれたぞ!」
誰かが叫んだ「毒ガス」という単語は瞬く間にパニックという名の猛火となって広がった。
我先にと出口へ殺到する生徒たち。
怒号。悲鳴。上履きが床を擦る音。
恐怖の鉄錆臭と、混乱が引き起こす埃っぽい土埃の匂いが混ざり合い体育館は阿鼻叫喚(あびきょうかん)の坩堝(るつぼ)と化した。
その中で、僕だけが立ち尽くしていた。
周囲の喧騒がまるで水槽の外の出来事のように遠く感じる。
(……ガスだって?)
マスクの下で、僕は鼻をひくつかせる。
違う。
ここには、「何も臭わない」。
校長の腐敗臭も生徒たちの汗の臭いも恐怖の鉄錆臭さえもある一点を中心にして不自然なほど綺麗に「消滅」していた。
無臭。完全なる無(ゼロ)。
それは、この世で最もありえない、人工的な空白だった。
「篠原! 何をしている、早く逃げろ!」
教師の誰かが僕の肩を掴もうとしたが、僕はその手を振り払った。
人の波に逆らい僕は体育館の袖ステージ脇の非常口へと走る。
この「無臭の猛毒」の発生源から逃れるためではない。
パニックになった六百人が放つ感情の悪臭に圧殺されないために。
2
渡り廊下を抜け雑草の生い茂る中庭を横切る。
目指す先は校舎の北外れにある旧理科棟だ。
耐震基準の問題で立ち入り禁止になっているその廃墟同然の建物なら誰も来ない。
息を切らして三階まで駆け上がり突き当たりの「化学準備室」のドアに手をかける。
ここは、僕が校内で唯一見つけた避難所(シェルター)だ。
常にきつい薬品の臭いが充満しているため他人の生々しい感情の匂いが中和される、貴重な場所。
「……ふう」
重い引き戸をガラリと開け中へ滑り込む。
瞬間、鼻をつくエタノールとホルマリンの刺激臭。
僕は安堵(あんど)に肩の力を抜いた――はずだった。
「動くな」
冷徹な声と共に、目の前に霧が噴射された。
「うわっ!?」 とっさに目を瞑る。冷たいミストが顔にかかる。
アルコールの匂い。消毒液だ。
「……よし。汚染反応なし、か」
目を開けると、異様な光景があった。
薄暗い準備室の中、青白い炎を上げるブンゼンバーナー。沸騰するビーカー。
そして白衣を着て防毒ガスマスクを装着した何者かがスプレー缶を片手に僕を見下ろしている。
「なんだ、君か。篠原蓮司」
ガスマスクのこもった声。
相手は手慣れた様子でマスクを外した。
現れたのは色素の薄い茶髪を無造作に束ね度の強い眼鏡をかけた女子生徒だった。
一ノ瀬理香(いちのせ りか)。
この学校で唯一の化学部員でありこの準備室の主(ぬし)。
「一ノ瀬、いきなり何を……」
「除染よ。体育館で『毒ガス騒ぎ』があったんでしょう?
君が何らかの有毒微粒子を付着させて持ち込んでいたら、私の実験データにノイズが混じる」
理香は表情一つ変えず、手元のタブレット端末を操作した。
画面には複雑な波形が表示されている。
どうやら、体育館の騒ぎをここからモニタリングしていたらしい。
「なによ、その顔。……言っておくけど、私は犯人じゃないわよ」
「疑ってない。ここからは、『犯行の匂い』がしない」
「またそれ? 君のそのオカルトな鼻、相変わらずね」
理香は鼻で笑うと、ビーカーの中の液体をガラス棒でかき混ぜた。
「私の推論を聞きたい? 結論から言うと、毒ガスなんて撒かれていないわ」
「……どうしてそう思う」
「さっきドローンを飛ばして体育館の空気を採取したの。
ガスクロマトグラフィーにかけてみたけど、有毒成分はゼロ。検出限界以下よ。
つまり、あれは集団ヒステリー。
誰かの『臭い』という勘違いが、集団心理で伝染しただけ」
理香は勝ち誇ったように眼鏡の位置を直した。
論理的だ。証拠もある。科学的には、彼女が正しいのだろう。
「違う」 僕は短く否定した。
「は?」 「毒ガスじゃないのは正解だ。でも、集団ヒステリーじゃない。
あそこには、明確に『作為』があった」
僕はマスクの位置を直し理香に一歩近づいた。
「一ノ瀬、君の機械は『無いもの』を証明できるか?」
「どういうこと」
「あそこの空気はあまりにも綺麗すぎたんだ。
六百人の人間がいて汗の臭いも、埃の臭いもしない。
そんなことが自然にあり得るか?」
理香の目が、レンズの奥で鋭く光った。
科学者としての好奇心が、侮蔑(ぶべつ)を上回った瞬間だ。
「……完全な無臭?
そんなの、工業用のクリーンルームでもない限り不可能よ。
あるいは――強力な『マスキング剤』を使ったか」
「マスキング?」
「特定の悪臭成分を、別の成分で包み込んで感じなくさせる技術よ。
消臭スプレーの原理ね。
でも、体育館全体を無臭にするなんて業務用の薬剤をドラム缶ごとぶちまけないと無理だわ」
「ドラム缶はいらない」
僕は記憶の中の「匂い」を反芻(はんすう)する。
あのパニックの直前、一瞬だけ感じた鼻の奥が痺れるような甘い微香。
あれは、どこかで嗅いだことがある。
僕の家の蔵。香木の入った桐箱の隅。
「……ジャコウだ」
「麝香(じゃこう)?」
「ムスクとも言う。本来は強烈な獣臭だが極限まで希釈すると素晴らしい芳香になり、他のあらゆる匂いを支配して消し去る効果がある。
合成ムスクの中でも、特に揮発性が高く、嗅覚を一時的に麻痺させる種類のものだ」
僕は理香の実験机の上にある、裏紙の束を引き寄せた。
「体育館の空調吹き出し口。犯人はそこに、高濃度の合成ムスクを仕込んだんだ。
揮発した成分が熱気で拡散し、生徒たちの嗅覚を一瞬で麻痺させた。
『何も臭わない』という異常事態が、逆に脳に『未知の毒ガスだ』という錯覚を起こさせたんだよ」
理香は口をぽかんと開けて僕を見ていたが、すぐにタブレットを猛烈な勢いで叩き始めた。
「……合成ムスク、ケトン基、揮発性……あった! 『ガラクソリド』の高濃度変性体。これなら、特定の条件下で嗅覚受容体をブロックする!」
彼女は顔を上げ、ニヤリと笑った。
さっきまでの冷たさが嘘のような、獰猛(どうもう)な笑みだった。
「へえ、面白いじゃない。君のその鼻、ただの飾りじゃなかったのね」
「褒め言葉には聞こえないな」
「褒めてるのよ、最高の生体センサーとしてね。……で? 犯人は誰?」
「匂いは辿れる。でも、証拠がない」
「証拠なら私が作る。君が『匂い』で場所を特定して。
私がそこに残留する成分を試薬で可視化してあげる」
理香は白衣のポケットから、数本の試験管とピペットを取り出した。
「行くわよ、助手一号」
「誰が助手だ」
「君よ。私の神聖な実験室(ここ)を避難所として使いたいなら、家賃代わりに働きなさい」
理香は強引に僕の手首を掴むと、出口へと歩き出した。
その手はひやりと冷たかったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
彼女からは、嘘の匂いがしない。
ただ純粋で、鋭利な、知的好奇心の匂いだけがする。
「……分かったよ。でも、僕の鼻は高いぞ」
「経費で落とすわ」
僕はため息をつきながら、彼女の後を追った。
相変わらず校舎はパニックの余韻で騒がしい。
けれど、不思議と吐き気は収まっていた。
薬品の染みついた白衣の背中が僕の前を歩いているからかもしれない。
こうして、僕と「魔女」の、奇妙な共犯関係が始まった。
世界を満たす嘘の匂いを、科学と香道で暴き立てる、面倒な放課後の幕開けだ。
『薫る君の嘘をあばく ~放課後、香道部は化学室の片隅で~』 (´・∀・`)ヘー @arerere
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