第04話「銀の光と癒しの夜」

 真夜中だった。

 ふと目が覚めたのは、不気味なほど静まり返った城の廊下から、何かが軋むような音が聞こえたからだ。いや、それは音というより、もっと直接的に空気を振動させる、重苦しい気配だった。

 アナベルは半身を起こし、耳を澄ませた。

 

「……ぐっ、ぅぅ……」


 微かだが、苦悶の声が聞こえる。獣の唸り声のようにも、人の悲鳴のようにも聞こえるその声は、隣の部屋――レオニールの主寝室から響いていた。

 恐怖で心臓が跳ねる。噂にあった「悪竜の呪い」だろうか。夜ごと生贄を求めるという話が本当なら、今こそ逃げるべきだ。布団を頭から被って、朝まで震えているべきだ。

 けれど、その声には、どこか助けを求めるような切迫した響きがあった。あの食事の時に見せた、一瞬の陰りのある表情が脳裏をかすめる。


『放っておけない……』


 アナベルは震える足でベッドを降りた。ショールを肩に掛け、冷たい廊下へと出る。廊下の灯りは消えており、月明かりだけが頼りだった。

 レオニールの部屋の扉は少しだけ開いていた。そこから、どす黒い霧のようなものが漏れ出しているのが見える。瘴気だ。

 本能的な恐怖が警鐘を鳴らす。だが、アナベルの足は止まらなかった。彼女はずっと、誰にも助けてもらえなかった。だからこそ、誰かが苦しんでいるのを無視することができなかったのかもしれない。


「……旦那様?」


 扉を押し開け、部屋に足を踏み入れる。

 室内は氷点下のように寒かった。そして、ベッドの上で、レオニールが苦しみにのたうち回っていた。

 シャツの前がはだけ、露わになった胸元には、禍々しい黒い紋様が血管のように浮き上がり、脈動している。彼の顔は苦痛に歪み、脂汗が玉のように浮かんでいた。銀の瞳は虚ろで、焦点が合っていない。


「……来る、な……! 逃げ、ろ……!」


 アナベルの気配に気づいたのか、彼は掠れた声で拒絶した。


「私に触れれば……死ぬぞ……!」


 その言葉を聞いた瞬間、アナベルの中で何かが弾けた。死ぬ? 私が?

 そんなことはどうでもよかった。ただ、目の前で苦しむ彼を楽にしてあげたい。その一心で、アナベルは彼のベッドに駆け寄った。


「嫌です! 一人で苦しまないでください!」


 アナベルは無我夢中で、レオニールの腕を掴んだ。

 その瞬間、バチッという音と共に、衝撃が走った。

 レオニールの体から溢れ出る黒い瘴気が、アナベルの手にまとわりつく。焼けるような痛みが走る――はずだった。

 だが、次の瞬間、奇跡が起きた。


 カッ――!


 アナベルの肩から背中にかけての「銀の鱗」が、衣服を通して眩い光を放ち始めたのだ。それは月の光よりも清冽で、優しい輝きだった。

 光はアナベルの手を伝ってレオニールへと流れ込む。すると、彼の体を蝕んでいた黒い紋様が、光に浄化されるようにシュワシュワと音を立てて消えていくではないか。

 

「ぐ、あ……っ!?」


 レオニールが大きく目を見開く。苦痛の表情が驚愕へと変わる。

 熱い。けれど、心地よい熱だ。アナベルの鱗が、まるで彼の痛みを吸い取ってくれているかのような感覚。

 アナベルもまた、不思議な感覚に包まれていた。鱗が熱を持ち、脈打っている。いつもは疎ましいだけの呪いの証が、今は確かな力を持って彼を守ろうとしているのが分かった。


 やがて、黒い紋様は完全に消え去り、部屋に充満していた瘴気も霧散した。

 レオニールの呼吸が整っていく。彼は信じられないといった様子で自分の体を見下ろし、そして、彼の手を握りしめているアナベルを見た。


「……馬鹿な。俺の呪いが、治まった……?」


 アナベルはへなへなとその場に座り込んだ。急激に力が抜けたのだ。鱗の光も徐々に淡くなり、元の鈍い銀色に戻っていく。

 レオニールが慌てて彼女を支える。その手は大きく、温かかった。瘴気の冷たさはもうない。


「お前……その体は」


 はだけたショールの隙間から、銀の鱗が覗いている。レオニールはそれに触れようとして、ためらいがちに手を止めた。


「これが、私の呪いです。醜い、銀の鱗……」


 アナベルは泣き出しそうな声で言った。彼にこの姿を見られるのが怖かった。また罵られるのではないかと。

 しかし、レオニールは静かに首を横に振った。


「醜くなどない」


 彼はそっと、アナベルの鱗に指先を触れた。ひやりとした感触。だが、彼にとっては救いの光の名残だった。


「これは……綺麗な、銀色だ」


 その言葉に、アナベルは目を見開いた。綺麗。生まれて初めて言われた言葉。

 レオニールの瞳には、先程までの虚ろさはなく、代わりに強い光が宿っていた。それは熱を帯びた、何かを探求するような、そして感謝に満ちた瞳だった。


「お前が、俺を救ってくれたのか?」


 問われ、アナベルは戸惑いながらも小さく頷いた。

 月明かりの中、二人は互いの瞳を見つめ合った。言葉はいらなかった。ただ、共有した秘密と、触れ合ったぬくもりが、凍てついた二人の心を静かに溶かし始めていた。

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