第4話
食糧庫には大量の食糧が残されており、あと十日、食い繋ぐには十分な量だった。このまま指をくわえて消滅を待つのは嫌だった。母の言葉に従うのは悔しいがこれを食べて十日間を生き延びることを決めた。目前の男は体力を失い、調理場から動けなくなっていたので、私は男の体に水をかけ、置いてあった洗剤で体を洗った。汚さに触れることは阻まれたが十日間は夫になるのだからやらざるを得ない。さらに調理場に置いてあった果物ナイフで男の髭を剃り、最後に再び水と洗剤をぶちまけて体の汚れを洗い流した。水をかける度に男はかん高い声をあげて引きしまった体躯を強張らせた。髭を剃り、汚れを落とすと、男は上出来な顔立ちをしており、すらっと立った姿には見惚れるほどだった。大学生の時に私が魅かれた理由がわかった気がした。男の名前を思い出すことができなかったので、私は男を『狂夫』と呼ぶことにした。私は小綺麗に仕立てた狂夫を連れて朝まで寝ていたベッドへと戻った。廊下には整然と並ぶパルテノンライトの列が私達を導いた。窓の外にはすでに真の暗闇が訪れていた。日中に見えていた雪を纏った遠くの山嶺も姿を隠していた。狂夫にはベッド脇に置いてあった紳士用の病院着を着せたら、普通の人間に見えた。私はそっとベッドに腰を下ろし、こっちに座るようにと身振りをしたが、狂夫は理解できないのか、立ったままだったので私は狂夫の腕を引っ張り、ベッドに座らせた。
狂夫をあのまま食糧庫に閉じ込めておかず、ここまで連れてきた理由はそこにある。十日間、一人にしないで私を楽しませてくれよと、それが私の願いだった。ベッドに座った狂夫は窓の外の闇をじっと眺め、時折体や頭を掻きむしった。何もわからなくなった狂夫は十日後に自らが消滅することも理解していない。それは幸せなことだと思った。しかし、狂夫は大学生の頃、私のことをひき殺そうとしたのだろう。身重となった私のことが邪魔になったから?結婚する程、私のことが好きではなかったのに別れられなくなってしまったから?もっと色々な女と遊びたかったから?狂夫の気持ちは推し量れない。狂夫はどういう男性だったろうと、私もぼんやりと外の闇を眺めながら断片的な記憶の欠片を拾い集めた。事故の記憶が圧倒的に強いが、現在の境遇による補正を除いたとしても本来はやさしい人間だったような気がする。そして私はどういう人間だったのか…
私は隣に座る狂夫の手を私は握りしめた。ごつごつとした大きな手だった。この手で抱きしめられていたのか、と在りし日の思い出を想像する。狂夫は怪訝そうな顔で、私を一瞥したが、その手を拒絶することはなかった。私は今日一日着ていた白いブラウスと若草色のロングスカートを脱ぎ捨てた。私は狂夫に抱きつき共にベッドへと倒れ込んだ。狂夫の体はひんやりとしていて熱ぼった私の体を冷やしてくれて気持ちが良かった。狂夫はただ私の思うままに動き、木偶人形のようで都合がよかった。それにクイーンサイズのベッドは二人で並んで寝ても余裕のある作りでそれも都合が良かった。狂夫の体の具合はちょうどよく、私達が元恋人であり、重ねていた情事の数を物語っているかのようだった。情事を終え、狂夫は疲れ果てたのだろう。
狂夫はすぐに静かに寝息をたてた。私自身も今日一日の疲れがあったが、興奮した体は寝付くことを拒絶した。窓の外には、見えるはずのない山嶺の輪郭がぼんやりと見えた。
了
母の残余 武良嶺峰 @mura_minemine
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