第3話

 断片的な記憶ほど無償に悲しくなる。日が陰って来たので、時刻はとうに正午を過ぎているのだろう。屋外のベンチに座っているのは寒くなり私はサナトリウムに戻った。エントランスは屋外よりもさらに暗く、にわかに私は恐怖に苛まれた。するとどこからかカタリと音がした。さらにカタリという再び音が聞こえてきた。再び音がするのを待ち、耳を澄ませていたがもうその音は聞こえなくなった。

「誰かいるの?」と私はささやくように声をかけた。誰かと話してこの境遇を共有したいけれど見知らぬ人に会うのは得も知れぬ恐怖だった。私は慎重に音の発生場所を探した。しばらくして再びカタリと音が聞こえた。それはさっきよりもだいぶ近い場所だった。音のした方へ向かい、暗い廊下を歩いていく。フローリングの床が軋む音すらも私を驚かした。薄暮のサナトリウム内で廊下の両側の壁面にはパルテノンライトが灯っている。薄暗くなると自動で点灯する仕組みになっているらしい。ただそれは必要最低限の明かりだった。音が聞こえた部屋の前まで来ると、ドアには金メッキで【Dining Room】の文字が刻まれていた。かつて患者が食堂として使っていた部屋なのだろう。ドアのノブは簡単に引くことができた。食堂に入ると、明らかに調理場の奥からから先ほどよりも大きな音でカタリと聞こえた。調理場に入ると、そこには巨大な食器棚があり、かつて使用していたと思われる寸胴鍋や皿やグラスなどの食器が多量に収納されていた。どの食器にも煌びやかな装飾が施されており、綺麗に磨き上げられていた。食堂に入った時には気が付かなかったが、調理場の奥に小さな扉があり、そこは食糧庫のようだった。食糧庫の扉は小さかったが、頑丈そうな閂で外側から閉ざされていた。

(この中から音が聞こえた)

私にはそれがわかった。恐怖心と誰かと話をしたいという二律背反の気持ちだったが、その扉を開かなければ何も始まらない。私は扉の重い閂を横にずらし、恐る恐る扉を開けた。わずかに開けた扉の隙間から途端にすえた体臭とカビの臭い、そして食物が腐ったアンモニア臭が押し寄せて来た。色彩が見えるくらいの強烈な臭いだった。中には皺だらけの棉シャツと袴のように寄れたズボンを履いた薄汚れた男が横たわり、手に持ったスプーンで壁面を力なく叩いていた。これが私の聞いた音の正体だった。扉を開けた時、男はよほど眩しかったのか両手で目を覆ったが、何事もなかったかのように再びスプーンで叩くことを再開した。その様子や男の顔立ちは明らかに気がふれている人間のそれだった。顔面を髭に覆われ、やせ細った男は明らかに弱っていたが、中年というにはまだ若い年齢に見えた。食糧庫の扉は外側から重い閂で閉ざされており、食糧庫の内側には閂を開けるための鍵がなかったため、男は外に出ることができなかったのだ。幸いそこは食糧庫だったため、その食糧を食いつないで男は生き延びていたのだろう。男の背後には食い散らかした缶詰だけでなく、果物の食いカス、それにジャガイモの皮も見えた。長く狭い暗所に閉じ込められていたのだろう。男の精神状態はひどく、話ができるような状態ではないことはすぐにわかった。しばらくして男は壁面を叩くことをやめ、食糧庫から扉の近くまで這ってきた。近づくにつれて臭いは強烈になり私は顔をしかめた。その臭いに脳が刺激を受けたのか、はっと私の記憶の中に思い浮かぶものがあり、愕然とした。

(この男は私の婚約者だった人だ)

 食糧庫から這い出て来た男の顔に薄明かりがあたった。その男の顔は、髭と黒ずんだ垢にまみれていても、明らかにあの大学時代を共に過ごした私の婚約者だとわかった。すると雪崩のように過去の記憶が脳内に押し寄せてきて、その中にあの瞬間を切り取った記憶も含まれていた。

―川沿いの道を大学へ向かって歩く私の後方からアクセルの唸り声を響かせながらものすごい勢いで迫ってくる銀色のセダンの車。気がついた時には車は私の背後数メートルの位置にまで来ていた。振り返った私が目にしたのはフロントガラスの向こうに見える男のにやけて引き攣った口元と、血走った赤い目―

そこで記憶は途切れた。私はその車に跳ね飛ばされたのだろう。私をひき殺そうとし、結果として大けがを負わせ、今日まで意識不明の重体とさせたその車に乗っていた人間のあの瞬間のあの顔をやっと鮮明に思い出した。それは目前の男の顔と同じだった。

 もう一度、床に這いつくばる男の方に目をやると左手に光る何かが見えた。男にはもう危害を加えるような余力は残っていないように見えたので近づいてその手を見るとそれは薬指の肉にめり込んだようにはめられた結婚指輪だった。さらに男は右手と胸で抱えるように何かの小さな箱を抱えていた。ひったくるように私はその箱を奪い取った。きっと長い間握っていたのだろう。その箱は手垢にまみれ、黒ずみ、少し湿っていた。その時点で私には想像がついていた。これは私への結婚指輪なのだと。男から距離を取り、食堂まで戻った私は、落ち着いてスチール製の丸イスに座り、奪い取った箱の蓋を開けた。想像していた通り中には小さな指輪が入っていた。薬指に通すとそれはぴったりと私の細い指に収まった。これはあの男が私への罪滅ぼしのために用意していたものなのだろうかという思いが浮かんだが、箱に指輪と共に入っていた小さな紙切れはそんな私の思いを簡単に否定した。


『妙子へ

この指輪を見つけたということは、ちゃんとあの人に会えたのですね。あの人にはあなたを傷つけた責任をちゃんと取ってもらいました。心から結婚おめでとう。母より』


 手紙を読み終えた瞬間、私はその箱と手切れを食堂の床に叩きつけた。猛烈な吐き気が襲ってきて、口の中に酸っぱいものがこみ上げて来た。食堂の床に吐き出したのは粘着質の液体だけだった。私は薬指にはめた指輪を食堂の薄暗いライトに当てて仰ぎ見ると、少し気持ちが落ち着き、食糧庫へと戻った。男は先ほどと同じ場所に横たわっており、戻って来た私を見て気味悪く口角を上げ、口元からよだれを垂らしながら、卑しく笑みを湛えた。再び酸っぱい液体が喉までせり上がってくる感覚があったが、私はぐっとそれを飲みこみ、横たわる男の手を取った。

この男は母の残した狂気の産物、私への供物なのだ。地球に電磁波の雨が到達するまでの十日間、私はこの狂った婚約者と最初で最後の甘酸っぱい新婚生活を送ることを決めた。

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