第4話:灼熱の渓谷と、自由を謳う亜人 〜「絆」とは、「天気が変われば腐る生鮮食品」である〜
世界が、焼かれていた。
空には、慈悲のかけらもない太陽が一つ、王のように居座っている。そこから降り注ぐのは光という名の暴力だ。
赤茶色の岩肌が続く渓谷は、巨大な釜の底のようだった。地面から立ち上る陽炎(かげろう)が、遠くの景色をゆらゆらと歪ませている。油絵の具を水で溶いてかき混ぜたような、頼りない視界。
吸い込む空気すら熱を帯びていて、肺に入れるたびに喉の奥がチリチリと乾いた音を立てる。
岩陰にへばりつくように咲くサボテンの花だけが、毒々しいほどの鮮やかな黄色を主張していた。その生命力は、この死に絶えたような荒野における唯一の皮肉にも見えた。
そんな灼熱地獄を、メイはふらふらと歩いていた。
厚手のフードを目深に被り、全身を布で覆った姿は、見ているだけで熱中症になりそうだ。しかし、彼女が恐れているのは暑さではなく、布の下にある「紫の瞳」を誰かに見られることだった。
「み、水……」
メイの唇は干上がった川底のようにひび割れている。
ふと、前方の岩陰から、何かを焼く香ばしい匂いが漂ってきた。
警戒しなければならない。また石を投げられるかもしれない。騎士に剣を向けられるかもしれない。
だが、空腹と脱水で思考能力が低下しているメイの足は、本能(生存欲求)に従って勝手に匂いの元へと向かってしまった。
角を曲がった瞬間、メイは「それ」に出くわした。
「ぬん!!」
視界いっぱいに広がる、茶色の筋肉。
岩のように隆起した大胸筋、丸太のような上腕二頭筋。汗でテラテラと光るその肉体は、太陽の光を反射して、神々しいというよりは単純に暑苦しかった。
それは、ライオンの顔を持つ獣人だった。
身長二メートルを優に超える巨漢が、小さな焚き火の前で、得体の知れない巨大な肉を回していたのだ。
「あ……」
メイが声を漏らすと、ライオン男が振り返った。
鋭い牙。野獣の眼光。
(食べられる)
メイが死を覚悟した、その時。
「おう! なんだァ? 迷子の小リスちゃんかァ!?」
ライオン男は、鼓膜が破れそうなほどの大声で笑い、ニカッと白い歯を見せた。
そして、驚くべき速さでメイとの距離を詰めると、その巨大な手でメイの肩をバシバシと叩いた。一撃ごとにメイの身体が地面にめり込んでいくような衝撃だ。
「腹ァ減ってんのか!? そうだろうそうだろう! 顔色が真っ白だぜ! もっと日に焼けねえと筋肉が喜ばねえぞ!」
「あ、あの、私は……」
「細かいこたぁいいんだよ! ここに来たってことは、お前も『ハグレモノ』だろ? 人間社会からはじき出されたなら、俺たちゃ今日から家族(ファミリー)だ!」
問答無用だった。
メイはそのまま、小脇に抱えられ(荷物のように)、岩山の奥にある集落へと連行された。
そこは、混沌(カオス)の吹き溜まりだった。
断崖をくり抜いて作られた住居には、獣の耳を持つ者、背の低いドワーフ、肌の色が青い小鬼たちが、ごった煮のように暮らしていた。
彼らはメイを見るなり、歓声を上げた。
「おいボス! 新しい家族か!?」
「細っせえなあ! ちゃんと飯食ってんのか!」
「とりあえず飲め! このサボテンを発酵させた酒を!」
拒否権はなかった。
広場の中央に引きずり出されたメイの前に、先ほどの「巨大な肉」がドンと置かれる。
よく見ると、それは大トカゲの丸焼きだった。皮は消し炭のように黒く、しかし中身は半生で、微妙にピンク色の肉汁が滴っている。
「食え! これは栄養の塊だ! 俺たちの筋肉の源だ!」
ボスのライオン男――名前はガロンというらしい――が、期待に満ちた眼差しでメイを見つめる。
周囲の亜人たちも、「食え、食え」と手拍子を始めた。
メイは覚悟を決めた。これも生きるためだ。
震える手でトカゲの肉をちぎり、口に放り込む。
――ゴムだ。
古くなったタイヤを噛んでいるような弾力。そして遅れてやってくる、土と野草と獣臭さが混ざり合った強烈な風味。
メイは白目を剥きそうになったが、必死で飲み込んだ。
「……おい、しい、です」
メイが精一杯の世辞を言うと、広場は爆発したような歓声に包まれた。
ガロンが感涙にむせび泣きながら、メイの背中をバシバシ叩く(そのたびにメイの口からトカゲが出そうになる)。
「そうかそうか! やっぱりお前は見込みがあるぜ! いいか野郎ども! 今日からこのチビ助は俺の妹分だ! 誰かが手を出したら、この俺の大胸筋が許さねえ!」
ドワーフが酒樽を持ってきて、メイの頭に酒をぶっかけた(洗礼らしい)。
獣人の子供たちが寄ってきて、メイのローブの上からスリスリと顔を擦り付けてくる。くすぐったくて、少し温かい。
それは、メイが初めて味わう「無条件の肯定」だった。
ここには、顔を隠していることを怪しむ者はいなかった。彼ら自身が、見た目で差別され、傷ついてきた者たちだからだ。
夜になった。
昼間の殺人的な暑さが嘘のように引いていき、砂漠特有の冷たく乾いた風が吹き抜ける。
見上げれば、降るような満天の星空。天の川が、岩山の稜線から溢れ出るように輝いている。
焚き火を囲みながら、ガロンが酒を片手に語り始めた。
「いいか、メイ。人間ってのは不便な生き物だ。肌の色だの、耳の形だの、そんな『皮一枚』の違いで仲間外れにしやがる」
ガロンは自分の胸を拳で叩いた。
「だが俺たちは違う。俺たちは『魂』を見る。中身が熱けりゃ、それで仲間だ。ここでは誰もがお前を受け入れる。もう隠れる必要なんてねえんだ」
パチパチと、薪が爆ぜる音が響く。
メイの胸の奥に、じわりと熱いものが広がった。
ずっと、拒絶されてきた。
期待しては裏切られ、信じては傷つけられてきた。
だからもう、誰も信じないと決めていたはずなのに。
(ここなら……)
メイは膝を抱え、焚き火の揺らめく炎を見つめた。
この暑苦しくて、乱暴で、でも底抜けに明るい人たちとなら。
私が「私」のままで、生きていける場所なのかもしれない。
それは、メイの心に芽生えた、ささやかで切実な「願い」だった。
この温かい居心地の良さが、ずっと続いてほしい。
この人たちと、ずっと一緒にいたい。
その「願い」こそが、後に自分を切り裂く刃になるとも知らずに、メイは焚き火のそばで、久しぶりに深い眠りについた。
***
翌日の昼下がり。
その平穏は、地鳴りと共に砕け散った。
「敵襲ーーッ!!」
見張り役の鳥人の絶叫が、谷間にこだまする。
谷の入り口から、土煙が舞い上がっていた。
現れたのは、銀色の鎧に身を包んだ、隣国の正規軍だった。
「亜人狩りだ! 逃げろォ!!」
集落は一瞬でパニックに陥った。
昨日まで笑い合っていた子供たちが泣き叫び、トカゲを焼いていた鍋がひっくり返る。
ガロンが巨大な戦斧を掴んで飛び出した。
「野郎ども! 家族を守れェェ! 一歩も通すんじゃねえぞ!」
しかし、敵の数は多すぎた。
整然と隊列を組んだ兵士たちは、無慈悲に矢の雨を降らせる。
次々と倒れていく仲間たち。昨日、メイに酒をかけたドワーフが、血を流して倒れるのが見えた。
「やめて……!」
メイの中で、何かが弾けた。
もう、失いたくない。
やっと見つけた、私の居場所を。私を受け入れてくれた人たちを。
メイは飛び出した。
戦場の真っ只中へ。
押し寄せる兵士たちの前に立ちはだかる。
「消えろォォ!」
メイが叫びと共に両手を突き出すと、爆発的な突風が巻き起こった。
人間離れした魔力が衝撃波となり、最前列の兵士たちを紙切れのように吹き飛ばす。
砂煙が舞い、岩が砕ける。
圧倒的な力。戦場が一瞬、静まり返った。
しかし。
その衝撃の反動で、メイの深く被っていたフードが、ふわりと宙に舞った。
灼熱の太陽が、容赦なくその素顔を照らし出す。
透き通るような銀髪。
そして、アメジストのように妖しく、美しく輝く――紫の瞳。
「……あ」
メイは慌てて顔を隠そうとした。
だが、遅かった。
兵士たちが、恐怖に顔を引きつらせて後ずさる。
「む、紫の瞳だ……!」
「災厄の魔女だ! 関わると呪われるぞ!」
兵士たちの攻撃の手が止まった。
だが、メイが本当に恐れていた視線は、正面からではなく、背後から突き刺さった。
「おい……嘘だろ?」
震える声。
振り返ると、そこにはガロンがいた。
昨日まで「魂を見る」と豪語していた彼の顔から、血の気が引いている。その瞳に浮かんでいたのは、親愛ではなく、底知れぬ「畏怖」だった。
亜人たちの間には、人間以上に深い迷信があった。
『紫の瞳は、一族を滅ぼす死神の印』
古い言い伝え。根拠のない恐怖。
だが、極限状態の今、その恐怖は理性を容易く凌駕した。
誰かが、ポツリと言った。
「あいつがいるから……軍隊が来たんじゃねえのか?」
その言葉は、乾いた草原に落ちた火種のように、一瞬で燃え広がった。
そうだ、あいつのせいだ。あいつが疫病神なんだ。
自分たちを守るための「理屈」が、恐怖によって組み立てられていく。
「ガロン……さん?」
メイは縋(すが)るようにボスを見た。
あなたは違うよね。魂を見てくれるんだよね。家族だって、言ってくれたよね。
しかし、ガロンはメイから目を逸らした。
彼の視線は、倒れた仲間と、怯える子供たちに向いていた。そして、苦渋に満ちた顔で、決断を下した。
「……その女を、差し出せ」
ガロンの声は震えていたが、はっきりと聞こえた。
「そいつを人間に引き渡せば、俺たちは見逃してもらえるかもしれねえ」
メイの思考が凍りついた。
暑い。あんなに暑いのに、体の中だけが急速冷凍されたように冷たい。
「捕まえろ! 逃がすな!」
「俺たちを助けるために、死んでくれ!」
昨日、メイにスリスリしていた子供たちをかばいながら、大人たちがメイを取り囲む。
彼らの目は必死だった。
彼らにとっての「正義」は、「自分たちの群れ」を守ること。そのためなら、異物は排除する。
「差別はしない」と言っていた彼らが今、最も残酷な差別をしている。
メイは抵抗しなかった。
魔法を使えば、全員吹き飛ばせる。でも、そんな気力すら湧かなかった。
心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちていく。
期待していた「居場所」なんて、最初からどこにもなかったのだ。
彼らが愛したのは「都合の良い仲間」としてのメイであり、「災厄の象徴」としてのメイではなかった。状況が変われば、愛は簡単に憎しみに変わる。
(ああ、そうか)
メイは乾いた笑みを浮かべた。
涙も出なかった。
兵士たちが、戸惑いながらもメイを捕縛しようと近づいてくる。
亜人たちは、メイを盾にするように後ろへ下がっていく。
メイは、踵(きびす)を返した。
亜人たちの方ではない。兵士たちの横をすり抜け、谷の出口へ向かって走り出したのだ。
「……こっちよ!!」
メイは声を張り上げ、魔力を空に放った。紫色の光が弾ける。
兵士たちの注意が、一斉にメイに向く。
「魔女が逃げるぞ! 追え! 大将首だ!」
軍隊の標的は、価値のない亜人の集落から、賞金首である「紫の瞳」へと切り替わった。
メイは走る。
集落を守るためではない。
もう一秒たりとも、あの「裏切りの視線」の中にいたくなかったからだ。
背後で、亜人たちの安堵の声が聞こえた気がした。
「助かった」「行ったぞ」
その声が、どんな罵倒よりも深く、メイの心を抉(えグ)った。
灼熱の太陽の下、メイはただひたすらに走った。
息が切れる。足がもつれる。
喉の渇きよりも、胸の空洞の方が痛い。
蜃気楼の向こうに、集落が霞んで消えていく。
一晩だけの家族。かりそめの絆。
「私は、一人だ」
メイは自分に言い聞かせるように呟いた。
風が、乾いた砂を巻き上げて、メイの頬を叩いた。
その痛みだけが、今の彼女に残された唯一の現実だった。
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