第3話:霧の湖畔と、正義を語る騎士 〜「正義」とは、「他人を殴るために作られた棍棒」である〜


世界がまだ、乳白色の膜に包まれている時間だった。


深い森の奥にひっそりと佇むその湖は、まるで巨大な鏡のように、空の青白さと木々の緑を映し出している。

朝もやが水面を舐めるように漂い、針葉樹の葉先から滴り落ちる朝露が、ピチャン、と小さな波紋を作る音だけが響く。

湿り気を帯びた空気は、濡れた苔と、冷たい水の匂いがした。肺いっぱいに吸い込むと、体の内側から洗われるような清涼感がある一方で、どこか人を拒絶するような厳かさも漂っている。


メイは、その湖のほとりで顔を洗っていた。

氷のように冷たい水が、頬の熱を奪っていく。

彼女はいつものように、分厚い布を頭からすっぽりと被り、右目だけを外に出している。左目の「紫」を、世界から隠すために。


「……冷た」


小さな独り言が、霧の中に吸い込まれて消える。

誰にも会わないように、人里を離れてここまで逃げてきた。ここには美しい静寂がある。誰かの視線に怯えることも、石を投げられる痛みもない。ただ、鳥の声と風の音だけが友達だ。


(ずっと、ここにいればいいのかな)


そう思った時だった。

霧の向こうから、カチャカチャという金属音が近づいてきたのは。


「隊長! この辺りは湿気が凄いです! マントが湿ります!」

「泣き言を言うな。高貴なる我らが任務の前では、湿気など露払いにも等しい!」


現れたのは、全身を銀色の鎧で包んだ男たちの集団だった。

その先頭に立つ男は、一際輝く装飾過多な鎧をまとい、金色の髪を不自然なほど完璧にセットしていた。泥一つついていないブーツが、彼の異常なほどの潔癖さを物語っている。


メイは反射的に身を隠そうとした。しかし、足元の小枝をパキリと踏んでしまう。


「む! 何奴!」


隊長と呼ばれた男が、バッと振り返る。

そして、メイを見た瞬間、彼は雷に打たれたように硬直した。

霧の中に佇む、布を被った華奢な少女。朝もやを背負い、神秘的な空気を纏っている(ように見える)。


隊長の目が、キラキラと輝き出した。


「お、おお……! なんという……!」


彼は大股で近づいてくると、メイの前で優雅に膝をつき、両手を広げた。


「見つけたぞ! 伝説に謳われし『湖の聖霊』よ!」


「……は?」


メイの口から間の抜けた声が漏れる。

しかし、隊長の耳には届かない。彼は自分の中で作り上げた物語に完全に酔いしれていた。


「清らかなる森の守り手! その身を粗末な布で隠し、俗世の穢れを避けておられるのか! 美しい! その慎ましさこそが尊い!」


後ろにいた部下たちも、「おおー!」と拍手を送る。

メイは後ずさりした。

(違う。ただの浮浪者です)

そう言おうとしたが、隊長は止まらない。


「私は王立騎士団、白銀(はくぎん)小隊の隊長、アレインである! 我々は『絶対的な正義』を成すために、この森の邪悪を浄化しに来たのだ!」


アレイン隊長は立ち上がると、剣を抜いてポーズを決めた。無駄に歯が光った気がした。


「聖霊よ、我々の高貴なる使命を見届けてくれ!」


ここから、奇妙な共同生活(?)が始まった。

彼らは勝手にメイを崇め、メイは何をしても「聖なる行い」として解釈された。


昼時。

食料を持っていなかったメイは、湖に飛び込み、泳いでいる魚を素手で鷲掴みにして捕らえた。そして、焚き火も起こさず、その場で頭からガブリと齧り付いた。

生きるための、なりふり構わぬ食事だ。ドン引きされるかと思った。


「な、なんと……!」


アレイン隊長が震えながらそれを見ていた。


「なんという野性味! なんという生命への賛歌! 我々のように調理などという小細工をせず、命を直接いただくその姿……これぞ『自然との完全なる調和』だ!」

「隊長! 感動しました! 俺も生でいきます!」

「うむ! それこそが騎士の道だ!」


部下たちが生魚にかぶりつき、「ぐえっ」「生臭っ」と顔を青くしている。

メイは、口の端についた魚の鱗を拭いながら、呆然としていた。


(この人たち、大丈夫かな……)


しかし、悪い気はしなかった。

アレイン隊長は、確かに面倒くさくて暑苦しいが、言葉の端々に「正しさ」への執着が見えた。


「いいか、正義とは『美しさ』だ。曇りなき鏡のように、一点の汚れも許さない心。それが世界を平和にするのだ」


休憩中、アレインはメイに語った。

彼は自分の剣を、布で丁寧に磨き続けている。


「我々は弱きを助け、悪を挫く。ルールを守らない者、秩序を乱す者は、断固として許さない。それがみんなのためだからな」


その言葉に、メイの胸が少しだけ温かくなった。

『弱きを助ける』。

これまで、村人や商人から「邪魔者」扱いされてきたメイにとって、その言葉は甘い蜜のように響いた。


(この人たちが言う『正義』の中に、私も入れてもらえるのかな)


もし、私が「紫の瞳」を持っていると知っても、彼らは「弱きを助ける」というルールを守ってくれるのだろうか。

淡い期待が、胸の奥で小さく芽生えた。

それは、冷え切った体を温める残り火のような、すがりつきたくなるような希望だった。


しかし、メイはまだ知らなかった。

「正しさ」という定規は、ひとたび使い方を間違えれば、最も鋭利な凶器になるということを。


空気が変わったのは、日が傾き、湖面が茜色に染まり始めた頃だった。


ズズズ……と、地面の底から重低音が響く。

鳥たちのさえずりがピタリと止んだ。

風が止まり、腐った泥のような強烈な悪臭が漂い始めた。


「な、なんだ!?」


アレインたちが剣を構える。

湖の水面が盛り上がり、巨大な泥の塊が姿を現した。

それは、ヘドロと枯れ木が絡まり合ったような、醜悪な怪物だった。複数の赤い目が、ギョロギョロと騎士たちを見下ろしている。


「沼の主(スワンプ・ロード)か! 汚らわしい!」


アレインが叫び、斬りかかる。

しかし、彼の剣は泥の体にヌルリと飲み込まれ、手応えがない。逆に、怪物から伸びた泥の触手が、アレインの自慢の鎧を打ち据えた。


「ぐあっ!」


銀色の鎧が泥にまみれ、アレインが吹き飛ばされる。

部下たちも次々と泥の波に飲まれていく。


「くそっ……! 私の……私の美しい正義が……こんな薄汚い奴に……!」


アレインは泥水の中で藻掻いた。潔癖な彼にとって、泥にまみれることは死以上の屈辱だった。

怪物の巨大な腕が、動けなくなったアレインを押し潰そうと振り上げられる。


(助けなきゃ)


メイの体に、反射的に力が漲る。

「正義」を語ってくれた彼。自分を「聖霊」と呼んで笑ってくれた彼。

期待が、メイを動かした。


メイは飛び出した。

アレインと怪物の間に割って入り、隠していた右手をかざす。


「お願い、消えて!」


圧縮された魔力の塊が、突風となって放たれた。

ドォォォン! という轟音と共に、怪物の泥の体が四散する。

圧倒的な破壊力。

怪物は悲鳴を上げる暇もなく、ただの泥水へと還っていった。


静寂が戻る。

パラパラと、泥の雨が降っていた。


「はぁ、はぁ……」


メイは肩で息をした。助かった。守れた。

振り返って、アレインに笑いかけようとした。

「大丈夫ですか?」と。


しかし。


先ほどの突風の衝撃で、メイの頭を覆っていた布が、捲れ上がっていた。

夕陽の赤い光の中、隠していた左目が露わになる。


鮮やかで、禍々しく、そして悲しいほどに美しい、紫色の瞳。


アレインは、腰を抜かしたまま、その目を見た。

泥だらけの顔で。


メイは慌てて布を戻そうとした。

けれど、アレインの口から出た言葉は、感謝ではなかった。


「……き」


「き?」


「貴様……なんだその目は」


アレインの声は、氷点下のように冷え切っていた。

先ほどまで「聖霊よ」と崇めていた熱量はどこにもない。そこにあったのは、生理的な嫌悪と、理解できないものへの恐怖だった。


「紫の瞳……。災いを呼ぶ『忌み子』か!」


アレインが叫んだ瞬間、空気が凍りついた。

部下たちも、這うようにしてメイから距離を取る。


「だ、騙したな! 我々の神聖な任務を、その汚らわしい存在で汚したな!」

「違う、私はただ、助けようと……」

「黙れ!」


アレインは剣を拾い上げ、切っ先をメイに向けた。

その剣は、メイが命がけで守ったものだ。


「我々の正義は『秩序』だ! 貴様のようなイレギュラーな存在、呪われた瞳を持つ者は、世界の秩序を乱す『悪』だ!」


アレインの目は、完全に据わっていた。

彼は本気で信じているのだ。自分たちのルール(正義)に従わない者は、排除すべき悪だと。

彼にとっての「正義」とは、「自分たちが気持ちよくいられる世界」を守ることであり、そこからはみ出す異物は、たとえ命の恩人であっても許容できないのだ。


「消えろ! 怪物の仲間め! 二度と私の前にその汚い顔を見せるな!」


石が飛んできた。

部下の一人が投げた石が、メイの肩に当たる。

痛みよりも、心の軋む音の方が大きかった。


(ああ、やっぱり)


メイは、溢れそうになる涙をぐっと飲み込んだ。

期待なんて、しなければよかった。

「正義」なんて言葉に、すがらなければよかった。


彼らは悪人ではない。ただ、自分たちの信じる「白」を守るために、「黒」と決めたものを攻撃しているだけだ。

それが、この世界で一番残酷なことなのだと、メイは知った。


「……ごめんなさい」


メイは小さく呟いた。

何に対しての謝罪かは、自分でも分からなかった。

ただ、彼らの「美しい世界」を壊してしまったことへの、悲しい諦めだったのかもしれない。


メイは踵を返し、夕闇の迫る森の奥へと走り出した。

背後からは、まだ罵声が聞こえていた。


湖は、再び静まり返った。

ただ、美しい水面には、メイがこぼした一粒の涙の波紋だけが、いつまでも消えずに広がっていた。

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