前夜に灯る
京野 薫
朝六時までの音
音大生の青年アレック(19歳)は、徴兵を明日に控えた夜、日記にこう記した。
「朝六時までは、僕は音と共に過ごせる。でも、それ以降の僕は、音を殺す人間になるのかもしれない」
「僕の指は、空気を震わせ、人を慰め、自分の心を守ってきた。けれど明日からは、その指が空気を血に染めるだろう」
その夜、彼はいつもの教会で、誰に聴かせるでもなく弾いた。
バッハの《シャコンヌ》
音は深く、乾いて、優しかった。
一秒ごとに積み重なる恐怖や怒りや不安を、
音の中に閉じ込めようとするように――。
何時間弾いただろう。
何曲弾いただろう。
音で時を止められたらと、何度思っただろう。
四歳の頃からずっとそばにあったバイオリン。
空気のような存在だったそれが――
自分の一部だったのだと知ったのは、この夜だった。
この楽器は、待っていてくれるだろうか。
生きて帰れたとして何年後なら、また触れられるだろうか。
朝日が差し込む。
彼はバイオリンの f 字孔にそっと口づけ、
イエス像の前に置いた。
神よ、憐れみ給え。
日記を開き、静かにこう書いた。
「今日は、記念日だった。
僕が“初めて、ちゃんと音を出せた日”。
この夜、僕は初めて“生きて弾く”ことができた。
そして僕は――弾けなくなる」
前夜に灯る 京野 薫 @kkyono
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