第28話 黒い薔薇の紋章 4


 玄関を開けた瞬間、空気が変わった。──重く、冷たい。不気味な静寂が家を満たしている。


「……ただいま?」


 声は吸い込まれるように消え、返事はない。

 耳のいいリャナが駆けてくるはずなのに。違和感が、じわじわと胸を締めつける。

 靴を脱ぎ、遥はリビングのドアノブに手をかけたその瞬間──


「──ッ!?」


 指先を走る電流。

 ──肌の奥にまで染み込むような異様な感覚。

 漠然とした不安が、確信へと変わっていく。


「……遥君?」


 唯の声が緊張を破る。遥は即座に振り返り、叫んだ。


「唯、伏せろっ!」


 きょとんと立ち尽くす彼女を抱き寄せ、玄関の外へと身を投げる。


──ドォォォォン!


 激しい轟音。壁を突き破り、黒い薔薇の蔦が唸りを上げて飛び込んできた。

 太い蔦が頭上を掠め、床板を抉る。

 一瞬でも逃げ遅れていたら、二人の身体は串刺しになっていただろう。

 

 生き物のように蠢く蔦に驚く間もなく、それはしゅるんと音を立てて主のもとへ戻った。

 大きく開いた壁の穴から、リビングの様子を覗くと、そこには見たことのない吸血鬼ヴァンパイア。そしてウィルとティム。険しい表情のリャナが、彼らと対峙していた。


「ふふっ……混血児ダンピールは感がいいみたいですね」


「話しが違うなノエル。お前だけ手を下してもいいのか」


 ウィルが低く呟いた瞬間、空気が震えた。

 ソファーに腰掛けていたティムの輪郭が揺らぎ、黒猫へと変じて大きく跳ね上がった。

 鋭い爪が閃き、舞を掴んでいたノエルの手を容赦なく叩き落とす。すると、拘束が解かれた舞は死神の鎌から解放されてフローリングに沈んだ。

 ノエルは痛みに顔を歪めながら手を押さえ、忌々しげに舌打ちをする。


「くっ──忌々しい使い魔ファミリアめ」


 一瞬の隙に、赤い紐がノエルの両手首をぎりぎりと締めつけた。その紐の先には己の血と魔力を注ぐ鋭いウィルの瞳。


「……ノエル、終わりだ」

「ふふっ……『我──命ず』」


 まだ奥の手を持つノエルは口元に笑みを浮かべ、低い声音で術を口ずさむ。菖蒲色しょうぶいろの瞳は、既に紅へと変化していた。

 刹那、気絶していた舞の身体が、びくんと大きく跳ねる。


『ノエル=ティエノフの名において命ず……若き聖乙女の血ジャンヌ・ブラッドを奪い取れ』


 彼の魅了チャームが発動。一瞬で黒い瞳を真紅に変えた舞は、崩れ落ちた自分の身体を支えていたリャナの胸を押す。

 そして彼女は大股でキッチンへ足を向け、包丁を取り出すと両手でそれを握りしめた。


『あの子、半死人グールとは少し違うみたいですね。ノエルの使い魔ファミリアにしたのでしょうか」

「ああ。ノエルの魅了チャームにかからない人間はまずいないだろう」


 冷静に状況を分析するウィルとリャナの会話に、獣の咆哮のような声をあげた舞が突進する。


「うあああああっ!!」


 両手で握った包丁をリャナに向けて振りかざす。

しかし、エンプーサは元々主人マスターの命を守る為に鍛錬を積んでいるので人間に負けるなど無きに等しい。

 鮮やかにその攻撃をかわした彼女は深紫色の瞳を鋭くさせる。


『はっ!』


 さらに舞の手首を後ろに捩じり上げて、彼女の手からすかさず包丁を叩き落とした。

 関節技を決められて悶え苦しむ舞は、そのまま魂が抜けたようにがくりと膝から崩れ落ちる。


「お姉ちゃんっ……!」


 異次元の戦いを玄関から見守っていた遥と唯。しかし、姉のピンチを黙って見過ごす事は出来ない。

 唯は慌てて玄関にローファーを脱ぎ捨てると、遥の静止を無視して舞の元へ走り寄った。


「美しい姉妹愛ですね──反吐が出る」


 ノエルは僅かに口角を上げ、黒薔薇の蔦を唯に向けて静かに放つ。

 ──それは、一瞬の出来事だった。


「唯っ!」


 黒薔薇の蔦はまるで鋭利な刃物のように唯の腹部に深々と刺さっていた。貧血で後ろに倒れてきた彼女を慌てて支える。


『大変……!』


 リャナは慌てて舞をフローリングに横たわらせ、唯の側に駆け寄り応急処置にかかった。

 不意打ちの攻撃を仕掛けてきたノエルに、ウィルは奥歯を噛み締め紅の瞳で睨みつけた。


「ノエル……っ貴様!」


 ウィルの赤い紐に両手を絡め取られながらも、ノエルの瞳には一片の迷いもなかった。

 彼は己の左手首へと「死神の鎌」を瞳で操り、ためらいなく振り下ろす。

 拘束が断ち切られ、右手が自由を取り戻した瞬間、ノエルは即座に鎌を握り直し、残る赤い紐を冷酷に斬り払った。

 床に落ちた己の左手を拾い上げると、断面へと鎌を振るう。

 死と再生をも支配するその力により、肉は繋がり、血も収まり、再び完全な姿を取り戻した。


 己を斬り捨てることすら厭わぬ潔さ。その残酷な決断こそが、ノエルの真なる強さであった。


「ふふっ……甘いのですよ始祖様。貴方は人間に感化され過ぎた。──さあ、帰りますよ私の使い魔ファミリア


 気絶していたはずの舞は主人の声にぴくりと反応し、ゆらりと起き上がる。


「くっ……!」


 視界を遮る邪魔なマントを手で払いのけた瞬間、舞の身体はノエルと共に空高く浮いていた。


「さて、始祖様……後で僕の黒い薔薇を咲かせたその若き聖乙女の血ジャンヌ・ブラッドを頂きに参りますね」


 恭しく一礼したノエルは、黒いマントを大きく翻す。その身は舞うように歪んだ空間へと溶け、影と共に消え去った。

 だが、彼を取り逃がした余韻に浸る暇はない。

──さらに恐るべき最悪の事態が、容赦なく襲いかかってくる。


「唯……! しっかりしろ、唯っ!」


「ハル、彼女は……」


 ウィルはそこで口を塞いだ。人間の命を救う方法は限られている。

 彼女は黒い薔薇に内臓を貫かれ、太い動脈も断ち切られている。──出血死に至るのは時間の問題だ。

 しかも厄介な事に、彼女を治療出来る場所が無い。

 今の日本は吸血鬼ヴァンパイアに怯えている。遥の中途半端な存在は国に捕まった瞬間に人体実験をされるだろう。

 それに、唯のこの傷は猟奇的な殺人事件としか受け取られない。

 彼女を人間の治療場所である〈病院〉に搬送する事が出来ないウィルは最終手段に手を出す。


「……ハル、彼女を救う方法が一つだけある」


「俺に出来る事なら言ってくれよ……!」


「──千秋君の時と同じように、彼女の精神世界へ入り、深部の傷を塞いで来るんだ。これで」


 ウィルはリャナに目配せすると、薬草のような緑色の液体を取り出した。ドロリと濁ったその姿は、とても特効薬には見えない。


『それは神木ガブリエルの葉をすり潰した秘薬です。見た目は頼りなくとも、人間には魂すら蘇らせる力があります』


 リャナから小瓶を受け取った遥は、さらにウィルからは前回同様に護身用のグラディウスを託される。


「行け、ハル。お前の守りたい大切な若き聖乙女の血ジャンヌ・ブラッドを連れ戻して来い」


 その言葉が響いた瞬間、遥の意識はふっと途切れ、精神世界への旅立ちが始まった。

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