第26話 黒い薔薇の紋章 2


「いいかい、ハル。彼女達の手の甲が白い光を放っていたら、すぐ家に連れて来なさい」


「それって、何かまずいの?」


 遥が学校へ向かう前、ウィルは真剣な面持ちで語った。


「印は、吸血鬼ヴァンパイア半死人グールに触れれば必ず白い光を放つ。危険を知らせる証だ」


 その声には、冗談の余地もない緊張が滲んでいた。

 ウィルの勅命を受けたティムは、佐久間神社の周囲を守る役目を続けながらも、今は遥の学校周辺へと監視の目を移していた。

 黒猫という日常の風景に紛れながら、彼の黄金色の視線は常に異形の気配を探し続けている。


 神社の境内で、千里は静かに遥へ告げた。


「千秋はまだ貧血が酷くて起きられないみたいなんだ……」


 その声には父の不安が滲んでいた。遥は頷きながらも、胸の奥に寂しさを抱えたまま頭を下げて鳥居を後にする。


 学校に着くと、朝のホームルームで「佐久間は風邪で休み」と簡単に説明があった。

 だが、転校生アスラの不在については誰一人として口にしない。まるで最初から存在しなかったかのように、教師も生徒も記憶をすり替えられている。

 教室はいつも通りのざわめきに満ちていた。笑い声、雑談、黒板のチョークの音──すべてが「日常」に戻っているはずなのに、その均衡がかえって不気味だった。


 アスラという吸血鬼を覚えているのは、遥と千秋、そして千秋の家族だけ。

 彼が吸血鬼であった事をこの平穏な学校に知られるよりはまだ良いのかもしれない。だが、誰も触れない沈黙こそが、遥には恐ろしく思えた。

 これが、吸血鬼の力なのか──


「おはよう、遥君」


「千秋君、まだ体調悪いの?」


「神社で千里さんに聞いたけど、まだ調子悪いって」


「へえー、あの頑丈が取り柄の千秋君がねえ……」


 いつも通りの挨拶と雑談。遥は鞄を席に置き、近づいてきた二人に声をかけた。


「……ところで、唯と加奈は昨日変わった事あった? 例えば、変な奴に遭遇したとか……」


 突然の問いに二人は顔を見合わせ、小首を傾げる。「別に」と返すその仕草も、普段と変わらない。

 考えすぎか。取り越し苦労だろう。遥は胸を撫で下ろしかけた。


 だがその瞬間、唯の右手の甲がふっと白く輝いた。本人は気づかず、教室のざわめきに紛れた異常は誰にも知られず忍び込んでいた。


「唯、その手……!」


 遥は思わず唯の手首を掴み、白い光に釘付けになる。光の中心には薔薇の紋章が淡く浮かび上がっていた。

 アスラと同じ印。彼なのか、それとも別の吸血鬼の仕業なのか……。


「……遥、君?」


 唯の声に顔を上げると、彼女は頬を赤らめ、ちらちらと周囲を示していた。

 気づけば教室の空気が凍りつき、クラスメイトたちの好奇的な視線が一斉に二人へ注がれている。まるで遥が唯に熱烈な告白をしているかのように。

 遥は慌てて手を離し、「ご、ごめん!」と謝る。だが、じとっと纏わりつくような視線の熱はすぐには消えなかった。


「あのさ、唯……悪いんだけど、今日学校が終わったらまた家に来てくれないか?」


「えっ? い、いいの!?」


 唯の顔がぱっと輝く。その嬉しそうな表情に胸が痛む。突然の招待の理由は、決して彼女が期待するようなものではないのだけど。


「うん。叔父さんももう少し唯と話したいみたいだったから……」


「やったあ! じゃあ、お姉ちゃんに連絡してもいい?」


 クラスの女子たちから余計な誤解や反感を買わないように、唯は耳元に唇を寄せて小声で確認すると、いそいそと携帯電話を取り出した。

 指先は少し震えていて、画面を開く仕草にも緊張が滲んでいる。

 そういえば、唯の姉は吸血鬼ヴァンパイア半死人グールに強い興味を示していた。もし既に何らかの接触をしている可能性があるとしたら、早めに確かめておく必要がある。


「連絡がつきそうだったら、お姉さんも呼んでくれ」


 遥はそう告げると、周囲の視線を意識しながら自分の席へ戻った。胸の奥には、薔薇の紋章の意味と、姉の存在が絡み合う不穏な予感が残っていた。


 一方その頃──。


 舞は朝から、全身の血液が沸騰するような奇妙な熱に苛まれていた。

 ほんの数歩歩いただけで胸が苦しく、息が乱れる。食欲はなく、代わりに血の匂いを嗅ぐと、体の奥底で別の獣が目を覚ますようにざわめきが走る。

 大学には顔を出したものの、講義に集中できるはずもなく、結局救護室のベッドに身を横たえた。

 しかし体温は平熱のまま。医務員は「勉強疲れじゃないの?」と軽く笑い、深刻さを取り合おうとしない。

 舞はその言葉に返す気力もなく、ただ自分の体の異変だけが現実味を増していくのを感じていた。


「顔色も悪いですし、今日は無理なさらずお家で休んだ方がいいわよ?」


「そうですね、サークルに伝言残して帰ります」


 舞は苦笑いを浮かべながら、ベッドからゆっくりと身を起こした。視界の端に、珈琲を淹れている医務員の後ろ姿が映る。

 トップにまとめたソバージュヘアから覗く白いうなじに、舞の視線は吸い寄せられ、離れなくなった。

 その瞬間、舞自身ではない“何か”が、唇を操る。


『乙女の血を……』


「え? なんか言った? 舞さ……」


 振り返った医務員の目に映ったのは、いつの間にか背後に立つ舞の姿だった。どうやって移動したのか、考える余裕もないほど一瞬の出来事。

 舞の瞳は異様に光を帯び、普段の彼女とは明らかに違っていた。

 次の瞬間、医務員の手から熱湯の入ったやかんが滑り落ち、床にぶつかって転がる。

 ガツン、と響いた音と飛び散る湯気が、救護室の空気を一気に張り詰めさせた。


 半死人グールと化し、八重歯を覗かせた舞が首筋へと噛みつくと、医務員は恍惚の微笑みを浮かべながらヒクヒクと痙攣した後、静かに命を手放した。

 滴る紅は蜜のように舞の唇を濡らし、彼女はそれを舌先でぺろりと舐めると、ニッと口元に無邪気な笑みを零す。


 その瞬間、舞の影が揺らめき、ノエルが音もなく姿を現した。

 ノエルは舞の頰を指先で撫で、支配者の微笑を浮かべる。その仕草ひとつで、舞はうっとりと瞳を細め、血と悦楽の契約に酔いしれる。


 舞の行った吸血は、ノエルの美と権威を讃える儀式。死と甘美を溶かし合わせたその瞬間、舞はただノエルの寵愛に縛られるペットとして存在するのみだった


「……さあ、半死人グールよ、お前に黒薔薇の種を与えましょう。この学校を薔薇の園にするのです」


かしこまりました。ノエル様……』


 静寂が訪れた僅か数秒後、芽吹いた黒薔薇の種が爆ぜるように膨張し、救護室の壁を轟音と共に突き破った。

 伸び広がる蔦はただの植物ではなく、獣のように脈打ち、壁を裂きながら呼吸するかのようにうねり続ける。

 棘の先端からは黒い液体が滴り、床を焼くようにじゅうじゅうと音を立て、逃げ惑う人々を次々に喰い殺した。


 既に洗脳されている舞は、その異常な光景を夢の中の出来事のようにすんなりと受け入れていた。

 頰をノエルの手にすり寄せ、恍惚の笑みを浮かべながら、逃げ惑う学生達の悲鳴をただ甘美な音楽のように聞き流す。


 黒薔薇は瞬く間に大学全体を覆い尽くし、渦を巻く暗雲を呼び寄せた。

 蔦は建物を締め上げ、車両を呑み込み、空を飛ぶ機械すら触れた瞬間に絡め取って消し去る。まるで世界そのものを捕食する異形の生命体。


 黒薔薇は咲き誇る花ではなく、死と支配を撒き散らす「生きた災厄」として、学園を薔薇色の闇に染め上げた。


 そして、この事件から三十分後。大学から半径五キロ圏内は、政府管理下において立ち入り禁止区域になると緊急ニュースで放映された。

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