いをた公園のみょこみょこ道化師
仮装
いをた公園のみょこみょこ道化師
🌸
初めてその白い顔の女の子を目にしたのは、たぶんわたしが、4歳か5歳の時だった。その子はわたしがその頃気に入っていた絵本に出てくる、
母はよく晴れた日曜の午後、わたしを、いをた公園に連れて行ってくれていた。その大きな桜の木と、広大な芝生、そして魅力的な遊具広場のある公園は、家の近くの丘の上にあった。母はシックな暗い赤の車に乗せて、わたしをそこに連れて行く、そしてわたしは、彼女の優しい運転が、父のそれより好きだった。
駐車場に辿り着くと、いつも決まって、わたしは車から飛び出して一直線に芝生に向かった。駐車場の近くには、念入りなおもちゃ売り場のように遊具が並べられていたけれど、わたしは光に満ちた芝生の方が好きだった。
広場を通り抜け、小川にかかる木の橋を渡ると、なだらかに起伏する景色が見えてくる。いくつかの木陰には数人の大人たちが腰掛け、子どもたちは、左手に見える、円錐型の屋根の、西洋砦の縮小版のような、石造りの休憩所の近くで遊んでいた。
そこが彼女を見つけた場所だった、道化師風の、白い顔の女の子。
わたしは小さな砦に近づいていき、子どもたちのグループに加わった。互いの周りを走り回り、意味もなく叫んだ。たぶん、わたしは彼らの名前を聞いていたと思う、でも今となってはそのうちのひとつも思い出せない。子どもたちの輪は多くの異なる生地と色で織りなされていて、その中で、彼女が一際美しく、奇妙に、目立っていた。彼女は夜空のような服を着ていた、それも、たくさんの異なる国や季節の空を繋ぎ合わせたような——その上で、彼女の顔は丸い月のように、ほたん、と冷ややかに浮かんでいた。
わたしたちは走り、散らばり、また集まった。誰かがわたしを掴まえ、わたしは身体をよじってそれから逃れ、振りかえり、彼女の顔を見た。わたしが唇を曲げると、彼女は腕を自分の腰に回して、にやけて見せる。わたしが両腕を大げさに振ると、彼女も同じように振るって見せた。なのでわたしは言った、「真似しないで!」
彼女は腕をぶらぶら振るのをやめ、夜空の
その日曜の午後、わたしはもう二度か三度、その小さな砦のそばで彼女と眼を合わせた。すると彼女はぎこちなくわたしに微笑みかけ、でも、二度とわたしの真似はしなかった。わたしたちの輪のそばで、母とほかの大人たちは話しながら、ときおり互いに注意を促すような沈黙を挟んで、こちらに視線を注いでいた。でも、わたしは結局、誰が彼女の親なのか目当てをつけられなかった。
🩱
それからおそらく10年経つか経たないかの、夏休みも終わりに近いある日、わたしはいをた公園の隣にある市営プールにいた。
大会に向けての練習を終え、シャワーを浴び、タオルで髪と身体を拭いて、ラコステのポロシャツとリーバイスのジーンズに着替え、更衣室の外に出る。それから、いつも練習後にしているように、玄関ホールの隅にある自動販売機で、プラスチックバーのアイスクリームを買った。ベンチに腰掛け、乾いたばかりの髪が耳や肩に当たるのを心地よく感じながら、口でクリームの甘さを味わい、ぼんやり、ホールに響く、人や、物や、水の、青い
横に置いていたナイキのナイロンバッグが震える。わたしはジップを開けて、その中に手を伸ばし、母が中学校に進学した際に買ってくれた、新しい携帯電話を取り出した。その画面に映る名前にしばし戸惑ったあとで、わたしは受話ボタンを押した。
「切」ボタンを押した時、通話は10分か15分くらいで済んだと思った。でも、携帯の画面にはほとんど1時間に近い通話時間が表示されている。わたしは立ち上がり、アイスクリームのバーをゴミ箱に捨てて、化粧室に行き、手を洗った。それからプールのある体育館を出て、いをた公園の中の道を通って家に向かった。左手の、さんご色に焼けたテニスコートから単調なボールの反復音が、ときおり途切れながら、響いてくる。道の端から、小さなスケーターたちと一緒に、横断歩道を渡って、コナラの木立の間を進んでいく。
ローラーの残響は、街灯の光と木の葉の影にこすられて、ゆっくりと滑らかになっていった。すると、水面の下から聞こえてくるような、こもった、すすり泣きが一瞬聞こえた。右を向く、石のベンチの上に、ふるえる
ほとんど
「ねえ、大丈夫?」
彼女は脚の間に置いたスポーツバッグを爪先で挟み、手の甲で顔をぬぐってから、こちらを見上げた。
「あ……ありがとう」と彼女は言う。「わたし……大丈夫。でも、でも、わたし」彼女は投げやりに、弧を描くように力なく左手をふった、まるで携帯電話を放り投げようとして出来なかったみたいに。「わたし……いま……電話で別れちゃった」
そうしてまた、彼女はすすり泣き始めた。わたしは彼女に近寄り、隣に腰掛けて、何も言わずに彼女の肩に手を回す。彼女がショートパンツのポケットからハンカチを取り出して眼を拭いた時、彼女のこめかみとほほの間に、双子の星のようなほくろがあることに気づいた。やがて彼女は言った、「うん……もう大丈夫……たくさん」。
ロイヤルブルーのハンカチで鼻をかんで、「もう、うちに帰らなくちゃ」こちらを振り向き、「ごめんなさい、引きとめてしまって」
「気にしないで」とわたしは言った。「わたしも帰ろうとしてたところだから。あなたもこの道を抜けてくの?」
「うん」
「そう」とわたしは返す。「じゃ、端まで一緒に行こう」
わたしたちはベンチから立ち上がると、スポーツバッグを肩にかけ、並木道の向こうに見えるゲートに向かって歩き出した。夕暮れの光は木立の闇の中霞み、思い思いの音程で騒ぎ立てる、姿の見えない鳥たち、ふいに風が枝を揺らすと、短い間、その音程にスッとミュートがかかり翼が空の底を引っ掻く。わたしたちは小さな川にかかる木造の橋を渡る。ゲートの前までたどり着くと、彼女が突然言った、
「あなたの匂いが好き」
「匂い?」
「水の匂い」と彼女はいう。「
「あなたもプールにいたの?」
「うん」と彼女は子供っぽく微笑む。
「ごめん、気がつかなかった」
「気にしないで」と彼女はいう。「わたし、あなたほど泳ぎが綺麗じゃないから」
わたしたちは笑う。
走る車たちのヘッドライトが、道路にかかった紫色の影を拭いつづけていた。そのうちに、大きな蜜色の光がこちらに近づいてくる。「わたし、あのバスに乗らなくちゃ」と彼女はいう。「あなたも?」
「ううん、ここから歩き」
「羨ましい!」
彼女は、ぼんやりと光る無人のバス停に向かって走っていった。彼女がそこに辿り着いたのと同時に、バスが深いため息をついて止まり、彼女はこちらをふりむき、手をふってよこす。
「またね!」と彼女が叫ぶ。「わたしたちの、次回の
わたしは手を振って返した。彼女を拾ったバスが、乾いたエンジン音を立てて走り出す。わたしは前を通り抜けていく、その物体の中、他の乗客の間に、彼女の青白い顔が水族館の珍しい魚のようにぽっかりと浮かんでいるのを目にする。バスが走りすぎてようやく、わたしは彼女の名前を聞いていないこと、それに関しては相手も同じだったことに気づく。でも多分それは、わたしたちの次の浄められた時間に果たされるのだろう。
しかし結局、わたしはその後も、公園の隣のプールで彼女を一度も見かけることがなかった。
👝
階段は赤いライトに照らされていた。わたしは低いかかとのついたパンプスで一段一段を確かめるように踏みながら、数段下で一定のリズムで小さく上下する、ユナの頭の後についていった。ツインテールにした彼女の頭の縦長のつむじが、赤色光に照らされて、乾いた傷口みたいに見えた。
「まじですごいから、ここの音」
わたしが最後の一段から足を離した直後に、ユナが言った。
「最初、びっくりすると思う」
そういってユナがドアノブを引くと、わたしの靴の音はどこかに弾き飛ばされて、思わず自分の耳を覆いかけた。慌てて手を前に伸ばし、ユナが雑にわたしに託したドアに触れて、中に入り、赤い光をぐっと押し除ける。開け放しにすると誰かに怒られそうな気がして、怖かった。それだけフロアーの音量がすごかったのだ。振り返ると、無数の人影が、光に灼かれながら弾んでいた。その間から覗ける巨大な対の柱状のスピーカーは、まるでこの空間にある肉体すべてに当てられた聴診器のように、低音の利いた
わたしが早く近づいて話しかけようか、彼女たちの挨拶が終わるまで待とうか戸惑っているうちに、きゃーっという甲高い女の子の声が聞こえて、黄色いタンクトップから伸びる白い腕が、ユナの首に巻き付いた。社交が連鎖している。DJが次の曲につなぐ。心臓は鼓動を早め、影たちの弾み方が低く、小刻みになる。わたしは人垣の隙間を乗り越えるのを諦めて、アルコールと煙の匂いにめまいを覚えながら、壁の方に近づいていった。
「全然、前連れてってくれた箱みたいにメロくないじゃーん」
「だってここラウンジないもん」
「ラウンジ?」
「この前の箱、あんたがずっといたとこ」
「だって下、うっさかったんだもん音もひとも」
「ここが下」
「え? じゃ、上いこ」
「上、あった? ここまでくる途中」
「えー……」
すぐ隣から聞こえてきたその声から数秒置いて、ため息の追い討ちのように吐き出された煙が、彼女たちの顔を覆う。わたしは壁にもたれて、腕を組み、ただじっとしていた。ここからはもうユナの姿は見えなかった。ときおり乱暴に空間にひらめくフラッシュライトが、床の上で弾む黒い肉体の群れの中から、顔を切り抜く。自分のまぶたとは別の、何か、得体の知れない大きなものが、発作的にまばたきをしているみたいに。知らない、顔。音。顔。顔。天井より少し低いところから不意に吹き出す。煙。顔。顔。さっき見た顔。音。煙。顔。顔。白い顔。
そう、その顔だけ白かった。ほかの顔とは違って、ナイフのように闇を裂くライトの光と、関係なしに。
その女の子は、黒い髪を二つのお団子に分けて頭の上に乗せていて、あごを引きながら、たぶん、つま先だけで弾んでいた。青っぽく濡れたまつ毛と、紫色のアイシャドウで補強された、くっきりとした目鼻立ちの上で、額が綺麗な卵形に広がっている。顔の角度から、白いうなじがひんやりと暗闇に浮かんで見えた。その女の子は周りの狂騒なんか見えも、聞こえもしないみたいに、半ば眠りかけているような薄目で、弾んでいた。頬骨のうえの、二つのほくろ。ふいにグッと両腕を持ち上げて、それがまるで見えない糸に吊られたかのようで、わたしは両膝をぶつけてしまう。自分の肉と骨のこもった音に怯えながら、それでも目を離せないでいると、やがて彼女は持ち上げた両手をゆっくり、交互に、指先から前へ伸ばして、もどす、という不思議な踊りを始めた。そんなふうに踊っている子は他にいなかった。それでも誰も彼女に気を止めなかった。黒いシースルーを通して、タンクトップから伸びる白い腕が、磁器のように冷たく、それでいて肉肉しく見えた。何度目かの腕の動作のループを終えると、彼女はもう完全に弾むのをやめ、空間を満たす音楽からも抜けきって、ただ、両腕を交互に指先から前に伸ばし、顔の横に戻す。腕の動きに合わせ左右を振り向く。はっ……はっ……はっ。数回目の息継ぎの時に、その子の、銀色の光を宿す瞳がはっきりと見えた。わたしはいつの間にか触れていた壁の、アルコールで汚れたようなべっとりとした感触にふいに気づいて、手を離し、その場からも離れた。
「ここにいたんだ!」
化粧室の鏡の前でわたしを見つけたユナは、すぐに声から喜びの調子を消して、
「えっ、大丈夫?」
「うん……もう、だいぶ」とわたしは答えて、
「もう出ようか?」
「ううん」とわたしは答える。「先輩のライブ、これからでしょ?」
「それは……そうだけど」と、ユナが親しい友人を
「平気、平気」とわたしは言う。平気じゃないと。ユナが悪いわけじゃない。わたしが。彼女が。「音が……思ったよりフロアーの空気が薄くて、びっくりしただけだから」
フロアーにもどると、ユナの知り合いのなんとか先輩が、どこかで聞いたことがあるようなバラードを通して、愛だとか運命だとかを壮大に語っている。わたしはチラチラと横目で、ユナがため息のような歓声を上げた時は思い切って、後ろを振り向いたり、爪先立ちして前の人影の間を探したりしたけれど、あの白い顔は見つけられなかった。先輩とデュオの相方は、サビに入るたびに、曲調と不自然な強いバックライトに当てられて、弱々しい縦長の影になったり、光がもどって、裾の短いTシャツから覗かせた上腕の筋肉を取り戻したりしていた。計算する。そして結果、わたしはその日が、高校1年の終わりに水泳部を辞めた日からちょうど半年だということを思い出した。
🍸
初めての待ち合わせには、そのホテルの3階にある、ラウンジを提案された。いきなりそんなところかと正直思ったが、変に意識したことをバレたくなかったので、わたしはその提案を呑んで、約束通りの時間ジャストについた。朝倉は、すでに窓辺の角席に座っていた。彼は灰地にうっすら青のチェックの入ったスーツを着ていて、わたしは気楽な黒のトルソーに、濡れたような灰色のニットを着ていた。写真で見たより、若く見えた。信頼の置ける友だち伝手の紹介は彼が三人目で、いろいろな意味で、三度目の正直だった。夕暮れが青く透かす窓ガラスを右手に、オレンジ色の灯りが天井から垂れたラウンジを奥に進んいく間、朝倉は数秒、こちらに視線をよこし、窓の外へ戻した。カオリ伝手にもらっていた写真と生身のわたしの照会に自信がなかったのか、またこちらを横目で見る。
「朝倉さん、ですよね」
先に声をかけたのはわたしだった。一度目と二度目の正直の時に、あまりにはやる気持ちに正直すぎる写真を使っていたので、今回はかなり手を抜いたのだ。でも声では悪びれない。
「はい、あ」
「うん?」
「今日、お休みだったんですか?」
「いいえ。私服勤務なので」
「ああ……」と朝倉は、ほとんど呻いた。子供が、親に言いつけられていた失敗を見事になぞって、自分自身に失望している表情に見えた。減点1、とわたしは頭に書き込んだ。なぜだろう、彼がどんな評価基準でそれを自分につけたのか、手に取るようにわかってしまう。
席に着くと、彼はやや怯えたように、微かに震えた声で、
「とりあえず……何か頼みます?」と聞いてくる。
「うん」とわたしは即答する。
「じゃあ……」
わたしは開いた痕のあるメニューを手に取り、眺めた。しばらくして、「もう決めました?」と朝倉に聞く。
「ああ、はい」
「そっかー」とわたしはいう。「……何かおすすめとかあります?」
「えっと」と、まごついた彼に、よい、とメニューを手渡してしまう。
「たしか」と言って、彼はテーブルの上にわたし向きにメニューを置いて、羅列されたドリンクの名前の横の大きな写真、
「これ」
……のしたの小さな写真を指さす。
正直、ラウンジでの彼との会話は、ほとんど思い出せない。そのエピソードとしての記憶は、他の記憶に圧迫されて、どこかへ追いやられてしまったのだろう。
理由は明白だ。
「駅に行くなら、裏口から出た方が早いですよ。道もまっすぐだから、迷わないし」
そう教えてくれた朝倉の後について、ラウンジの外の螺旋階段から、フロントロビーのある1階に降りていく。段差を下りきると、右手に、おそらくロビーに続く明るい廊下と、左手に、夜に半ば浸かったような、青い廊下が伸びている。忍び込んだ街灯の光が、床に、レモン色の帯を伸ばしている。
ガタン、と音がして、自動ドアの少し手前に見える、鉄扉が閉じた。天井の緑色の案内に従えば、それはどうやら非常階段に通じる扉のようだ。ふうん、と出だしで事切れた鼻歌のような音がして、見ると、裏口の自動ドアの一枚目が開いて、閉じて、ついで、二枚目が、開いて、閉じる。誰の影もなく。
え?
耳鳴り?……リィィィィィーンという、何かが、わたしの頭の中?……それとも空間に?……響く。
「え?」と今度は声を発した瞬間、わたしは胸の苦しさを感じて、思わずむせこんだ。いつのまにか息を止めていたらしい。肩をゆっくりと上下させて、呼吸を整えていると、いつの間にか右肩を手が掴んでいた。わたしのではない。朝倉の手だ。
「……大丈夫ですか?」
わたしは黙ったまま、冷えた彼の瞳を見る。
「やっぱり、こっちはやめときましょう」
と彼はいう。それから一瞬眉間を狭めて、細長く息を吐く。減点30の表情。
「わたしも……駅まで行く用事を思い出しました」と朝倉はいって、すかさず付け足す。「一緒に行ってもいいですか?」
「ああ、えっと……はい」
「じゃあ、一緒に行きましょう」と彼はラウンジでは出した覚えがないくらい、はっきりとした口調で言う。「途中、あの……そう、駅に行く途中でちょっとだけ寄りたいところがあるので、あの、こっちじゃなくて、表から出ましょう」
わたしはただうなづいた。わたしの肩を掴んだ彼の手が力を込めて、わたしを明るい廊下へと連れていった。
👗
服を選ぶと行って自分の部屋に上がっていった
2階では窓から注ぐ真昼の光が、廊下の床や、3つ並んだドアの表面ににのっぺりと張り付いている。温められ、ふくらんだ、静寂。わたしはもう一度彼女の名前を呼ぼうと思ったが、耳を澄ませてもドアの向こうから何も物音らしいものが聞こえないので、ゆっくりと、音を立てないよう、彼女の部屋のドアに近づいていった。ドアノブに手をかけて、そっとそれを開ける。部屋の中は奇妙に薄暗く、半ばに開かれた
呆気に取られてドアの向こうで立ち尽くしていた時間を取り戻そうとするように、わたしは大股で鏡の前の影に近づいていった。相手もすかさずこちらに気付き、振り向きざま、伸ばした脚を黄色いしっぽのように動かして、床の上にあった何かを弾き飛ばした。
「何してるの?」とわたしは立ったまま、相手の顔を見下ろして、問いただした。
「ちがうよ」と紗夜は答える。「もらったの」
「ちがうでしょ」とわたしは言う。「なんで顔をそんな……そんなふうに、白く塗ってしまっているの?」
右目の周りを残して、あらかた白く塗りたくられてしまった紗夜の顔は、奇妙にそこから幼さを失ってしまっているようだった。だからか彼女は、顔から受ける印象よりはずっと幼く響く声で、
「ちがうよ、もらったの」と言う。
「その顔についているものを?」たしかに、わたしの持ってる化粧品だけではこんなに白くならない……はずだ。「誰に?」
紗夜が黙ったままでいると、わたしは視線を感じて、彼女の頭の上、姿見鏡の中を見た。そこに映らないように体を横にずらし、床に膝から腰を下ろして、紗夜に視線の高さを近づける。
「この前、公園に行ったとき」と紗夜がいう。「一緒に遊んでた子いたでしょ? 顔の白い。あの子に、もらった!」
「……そんな顔の子がいたの?」
「いたのー、いたよ、いったんだ!」
と紗夜は奇妙に強気な声でいう。まるでどんなに楽しく遊んでいたかをちゃんと見守っていなかったと、責めたてるように。
「お揃いでまた、みょこみょこして遊ぶって約束した、のっ!」
「なにそれ? みょこ……?」
「それは、秘密っ! 怒ってるから、だーめっ!」
「……何なの、もう」とわたしはため息混じりにいう。そして気を取り直し、「じゃ、なんて名前だったの?」と切り返す。「お揃いでみょこみょこ遊びの約束、したんでしょ? その子と」
紗夜は黙る。
「聞いてないのね」とわたしは確認する。「とにかく——」
紗夜が口を開く。その音に、わたしは耳を疑う。
「なんで?」とわたしは言う。「なんでママの名前を呼んだの?」
紗夜が目を丸くする。じっとこちらの目を見据え、白く侵された顔の中で、その濡れた対の器官だけが、幼く震え出す。紗夜は泣き出した。悲しんでいる……だけじゃなく、何かを強く訴えるような泣き方。当然だと思っていた権利を不意に取り上げられて、とにかくわたしを責め立てようともしてきていた。
「ああ……、もう、ね、ごめんね」
「いやっ、だあああああ」
紗夜が泣き止むのに数分の時間を要した。彼女の機嫌がようやく落ち着くと、わたしはこれから公園に出かけるのが信じられないくらい、疲弊していた。
「ごめんごめん、ほら、とにかく、下で顔を洗わなくちゃ」
「ん」
「そのまま一日過ごしたら、顔、きしきしになるよ」
「ん、それはや、だ」
紗夜の体から手を離し、床から立ち上がる前に、ふと思い出して、わたしはベッドの下を見た。紗夜のあの、思い出してもどこかおかしい、俊敏な足払い。あれが弾いたもの……おそらく「誰か」の化粧品が、ベッドの下に滑り込んでいるはずだ。
わたしが腕を伸ばすと、何かが割れる音がした。
紗夜の顔を見ると、彼女も驚いたようにこちらを見返してくる。音は、くぐもって聞こえた。この部屋じゃない。隣の部屋でもない。1階からだ。
「なに? いまの、何の音?」と紗夜がいう。「下に……誰かいるの?」
わたしが黙ったままでいると、紗夜は、涙でところどころ崩れた顔に残る、年齢不詳の部分から力を引き出したような、落ち着いた、諭すような口調で、
「パパじゃない?」という。「もう外国から、帰ってきたんじゃない?」
ごっ、こっ、こっ、こっ……と、また下から何か硬いものを動かすような、あるいは重い靴で床を鳴らすような音が、くぐもって響く。それはリビングの方から移動してきて、ちょうど、わたしたちの真下あたりで止まる。
「……そんなはずない」とわたしは口にする。
「え?」
カーテンレースが砕いた光。それが、紗夜の紺色のワンピースの肩にかかり、襟の端を白く燃やしている。耳を澄ましていると、もうたしかなものは聞こえず、イイイ——イイン、という耳鳴りに似た何かが、空間を覆うようだった。
「見てくるね」とわたしは言って、ゆっくりと膝を伸ばし、立ち上がった。「ママ、下に行って」
「ん」と紗夜がいう。「紗夜も行く」
「え?」
「顔、早く下で洗いたい」と紗夜がいって、目を細めて、顔をくしゃくしゃにして見せる。「顔、きしきし、してきた」
「……そ」とわたしは言った。彼女がすくっと、軽々と立ち上がって見せると、わたしは鼻を小さく鳴らしてから、
「じゃ……一緒に行きましょ」
部屋から出るとき、だらりと肩から下げるがままにしていたわたしの手を、紗夜がとった。小さく、柔らかく……乾いた化粧粉のせいで、奇妙にさらさらしている。わたしは廊下を進みながら、その手を一度しっかりと握り直す。
わたしは娘と手をつないで、階段を下りていった。
Harlequin at the ι.
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