報酬

@SUSPECT

第1話

果てしなく広がる白亜の空間。

窓ひとつないこの部屋には、時間の概念すら希薄だった。

世界から切り離されたような静寂の中、私たち二人だけが色彩を持ち、熱を持ち、呼吸をしている。

退屈だった、と言えばそれまでかもしれない。

けれど、綾奈と二人きりで過ごすこの不思議な時間は、どんな宝石よりも得難く、甘やかな毒のように私の理性を溶かし始めていた。

「ねえ、リト。暇ね」

「そうだね、綾奈」

ふと、どちらからともなく始まったのは、あまりにも幼い遊びだった。

『ダルマさんが転んだ』。

子供の頃、公園で日が暮れるまで興奮したあの遊び。けれど今の私たちは、無邪気な子供であると同時に――片や令嬢、片や怪盗という、奇妙な共犯関係にある。

「じゃあ、私が鬼をするわね」

綾奈が壁に向かって背を向ける。その背中は華奢で、守ってあげたくなるほど愛おしいけれど、今は私の「獲物」だ。

「だーるーまーさーんーがー……」

鈴を転がすような声が、白い部屋に朗々と響く。

その瞬間、私の身体から一切の「重さ」が消えた。

スイッチが入る。怪盗としての、本能的なスイッチが。

音を立ててはいけない。気配を悟られてはいけない。

それは私にとって、呼吸をするよりも簡単なことだった。床を蹴る爪先は、羽毛が舞い降りるよりも静かに、しかし疾風のごとき鋭さで距離を詰めていく。

一歩、二歩。

綾奈の声の抑揚、肩のわずかな揺れ、呼吸のリズム。すべてを計算し尽くして、私は風になった。

「……こーろーんだ!」

パッ、と綾奈が振り返る。

艶やかな黒髪がふわりと宙に舞い、その遠心力と共に彼女の視線が部屋全体を射抜く――はずだった。

けれど、彼女の視界には、私がいた。

遠くではない。

すぐそこ。

鼻先わずか数センチという、焦点すら合わせづらいほどの至近距離に。

「っ……!?」

時が止まる。

驚愕に見開かれた綾奈の瞳に、してやったりの表情を浮かべた私が映り込んでいるのが見えた。

まつ毛とまつ毛が触れ合いそうな距離。

お互いの吐息が混ざり合い、肌の温度が直接伝わってくるような密着度。

彼女の甘い香水の香りが、私の肺いっぱいに満たされる。

綾奈は言葉を失っていた。

あまりの不意打ちに、思考が追いついていないのだろう。いつも冷静沈着で、余裕たっぷりに私を翻弄する彼女が、今はただの驚いた少女のように固まっている。

「……ち、近……っ」

微かに震える唇から、掠れた声が漏れた。

白い頬に、じわりと朱が差していく。それは瞬く間に耳の裏まで広がり、彼女の動揺を何よりも雄弁に物語っていた。

可愛い。

どうしようもなく、可愛い。

私は微動だにせず、その反応を特等席で堪能する。瞳の揺らぎ、呼吸の乱れ、羞恥に潤み始める瞳。その全てが私だけのものだ。

怪盗が宝物を前にして、ただ見ているだけで満足するはずがない。

私は口角を吊り上げ、にやりと笑った。

「――タッチー!!」

静寂を破り、高らかに勝利宣言をする。

びくり、と綾奈の肩が跳ねた。

「あっ、リト、ずる……っ!?」

「残念でした! タッチしたから、今度は鬼さんが捕まる番だね?」

抗議の声を上げようとした綾奈の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。

私の指先は、すでに彼女の弱点へと伸びていたからだ。

首筋、脇腹、そして腰回り。

人体急所ならぬ、人体くすぐりポイントを、私は熟知している。

「覚悟はいいよね?」

「ちょ、まっ……!」

容赦のない指先の動きに、綾奈の身体がくの字に折れ曲がった。

「……っ、んぅっ!?」

綾奈は必死に声を押し殺そうとしていた。

唇をぎゅっと噛み締め、プライドの高い彼女らしく、無様な悲鳴を上げまいと耐えている。

けれど、そんな抵抗が私をさらに煽ることくらい、彼女は気づいていないのだろうか。

「……! へえへえ、なるほどね……」

まだ耐えるんだ?

私はいたずらっぽい笑みを浮かべ、さらに指先の動きを加速させた。

ただ闇雲にくすぐるのではない。強弱をつけ、逃げようとする筋肉の動きを読み、一番感じやすい場所を的確に攻め立てる。

「ひ、ゃ……っ、あ、ははっ! だ、め……っ!」

ついに堤防が決壊した。

我慢の限界を超えた綾奈の口から、甘い悲鳴のような笑い声が溢れ出す。

「うそうそ、あっ、そこ、だめぇ……!」

くすぐればくすぐるほど、綾奈は私の腕の中で身をよじった。

逃げようと藻掻くけれど、私の腕は檻のように彼女を逃がさない。

いつもは命令口調で私をからかう彼女が、今は涙目で笑い転げている。

私の腕をペチペチと叩く手には、もはや抵抗する力など残っておらず、まるでじゃれつく子猫のようだ。

「リト、まっ、て、あははははっ! ゆるし、て……っ!」

「許さないよ。だって綾奈、隙だらけなんだもん」

いつもの余裕ある態度はどこへやら。

白い肌は興奮と羞恥で桜色に染まり、乱れた髪が汗ばんだ頬に張り付いている。

今、私の目の前にいるのは、京極家の令嬢ではない。

ただの、私の指先一つで翻弄される、無防備な一人の少女だ。

その事実が、私の胸の奥にある独占欲をぐりぐりと刺激した。

ひとしきりくすぐり倒し、彼女の息が絶え絶えになったところで、私はようやく手を止めた。

「……はぁ、はぁ……っ、んぅ……」

解放された綾奈は、バランスを崩したまま近くのベッドへともたれかかった。

真っ白なシーツの上に、乱れた彼女の姿が沈み込む。

髪はぐしゃぐしゃで、着衣も少し乱れている。

顔は真っ赤で、涙で潤んだ瞳がとろりと私を見上げていた。

肩で大きく息をするたびに、胸元が激しく上下している。

「……ひどい」

綾奈は恨めしそうに私を睨んだ。

けれど、その表情に怖さは微塵もない。

むしろ、自分をここまで乱した相手への甘えと、隠しきれない情熱が揺らめいているようにさえ見える。

無防備に乱れたその姿は、恐ろしいほどに艶やかで、私は喉が鳴るのを止めることができなかった。

「……むり」

か細い声で、綾奈が呟く。

「ん? 綾奈、なんて?」

「……もう、むり……」


やれ、と。


どこからか、心の声(あるいは天の声)が聞こえた気がした。

そうだ、ここで引くなんて野暮というものだ。

私はベッドに膝をつき、逃げ場のない綾奈を上から覗き込むようにして距離を詰めた。

「……綾奈って、結構よわいんだ~」

わざとらしく、からかうような声音を作る。

綾奈の瞳が、ゆらりと揺れた。

「無理って言った? 無理ってなーに? だめだよ」

私の影が綾奈を覆う。

彼女の身体が、びくりと強張ったのがわかった。

「捕まっちゃった鬼さんには、お仕置きがまだまだ足りないんだから。……覚悟してね?」

耳元で囁くと、綾奈は首を振って後ずさろうとする。けれど背後はふかふかのクッションとヘッドボード。逃げ場など最初からどこにもないのだ。

「うそ……やだぁ……」

拒絶の言葉なのに、その響きは誘っているようにしか聞こえない。

彼女の瞳から、完全に理性の光が消えかけている。

「わたしのこと、舐めてるでしょっ……」

最後の力を振り絞るように、綾奈が精一杯の虚勢を張った。

彼女なりのプライド。彼女なりの抵抗。

「舐めている」だなんて、そんなわけがない。

私はいつだって、貴女に対して本気だ。

貴女を暴きたくて、貴女に触れたくて、貴女の全てを知りたくてたまらない。

だからこそ、私は最高の笑顔で、完全にふざけてみせた。

「そんな~! 綾奈様を舐めてるだなんて、とんでもなーい!」

わざとらしい敬語。道化のような振る舞い。

それが何よりの挑発だと知っていて。

「もおぉ……っ!」

綾奈が悔しそうに、けれど愛おしそうに声を上げる。

その顔が見たかった。

その声が聞きたかった。

私は綾奈の「一番弱いところ」を完全に掌握したのだという確信を得る。

この、完璧で美しく、気高いお嬢様を、こんなにも笑わせることができるのは私だけ。

こんなにも乱れさせることができるのも、世界でただ一人、私だけ。

彼女の仮面を剥ぎ取り、素顔のままの感情を引きずり出せるのは、怪盗である私だけの特権なのだ。

優越感が、胸の奥で熱く疼く。

ふわりと広がる甘い香りと、熱を帯びた空気の中で、私は再び指先を彼女へと伸ばした。

白い部屋での甘い拷問は、まだ終わりそうになかった。

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