第8話 自由

 赤い回転灯が、降りしきる雪を血のような色に染め上げていた。


 サイレンの音はもはや耳鳴りのように鼓膜に張り付き、現実感を削ぎ落としていく。


 目の前のアパートは、かつて映奈が住んでいた場所であり、ほんの一時間前まで私が「癒し」を求めて訪れた場所だった。


 それが今、黒煙を吐き出しながら、骸骨のような建材を夜闇に晒している。


 消防隊員たちの怒号が飛び交っていた。


「放水止め! 残火確認!」


「二階東側、崩落の危険あり! 離れろ!」


 プロフェッショナルたちの無駄のない動きが、この惨状を「処理すべき事象」へと変えていく。


 炎の勢いはすでに峠を越えていた。窓から吹き出していた紅蓮の舌は引っ込み、代わりに重く湿った蒸気と、鼻をつく焦げ臭さが辺り一面を支配し始めていた。


 私は野次馬の群れの中に埋もれていた。


 誰もがスマホを掲げている。液晶画面の光が、彼らの無責任な好奇心を青白く照らし出していた。


「うわエグ、マジ全焼じゃん。ストーリー上げよ」


「ねえ、中に人いたってマ?」


「Xで見たけど、一人逃げ遅れたっぽくね?」


「うわー……焼肉の臭いすんじゃん、最悪」


 背後で囁かれる言葉が、鋭利な氷柱のように私の背筋を刺す。彼らにとって、これはただのコンテンツだ。安全圏から消費する、退屈な日常を彩るスパイスに過ぎない。


 だが、私にとっては違う。


 あの焼け焦げた枠組みの中に、つい先刻まで生きていた男がいた。串本という名の、粗野で、下品で、けれど確かに生命力に溢れていた男。


 彼が吐いた安酒の臭いも、彼が誇示した性器の醜悪さも、そして彼が最後に発した喉の詰まるような呼吸音も、すべてが私の記憶にこびりついている。


 私は自分の手を見た。


 震えてはいなかった。コンビニの袋を握りしめていた指先は、今はただ空っぽのまま、コートのポケットの中で握り拳を作っている。


 寒いはずだった。二月の寒風が吹き荒れ、雪が舞っているのだから。


 しかし、私の体の奥底には、奇妙な熱が燻っていた。それはアパートの熱気にあてられたせいかもしれないし、あるいはもっと別の、ドロドロとした感情が発する熱量なのかもしれなかった。


 ふと、視線を感じて顔を上げた。


 規制線の内側、消防車の巨大なタイヤの陰に、彼女がいた。


 映奈だ。


 薄い部屋着のまま、肩に消防隊員から渡されたであろう毛布を羽織っている。その姿はあまりにも小さく、頼りなく見えた。


 顔は煤で汚れ、髪は乱れている。かつて私が愛した、清潔で、慎重で、少し神経質なほど整っていた彼女の面影はどこにもない。


 そこにいるのは、ただの抜け殻だった。


 彼女の視線は、もはや燃え尽きた自室の窓――今はただの黒い穴――には向いていなかった。


 彼女は、ぼんやりと、虚空を見つめていた。


 その瞳に映っているのは何だろうか。焼き殺した男の断末魔か、それとも自分自身の人生が灰になった光景か。


 警察官が二名、彼女に近づいていくのが見えた。


 制服警官ではない。スーツ姿の、おそらく刑事だろう。鋭い眼光が、野次馬の壁を越えて私の肌まで粟立たせるような威圧感を放っている。


「ここにいてはいけない」


 本能がそう告げた。


 私の足が、無意識に半歩下がった。雪を踏む音が、やけに大きく響いた気がした。


 私はこの事件の当事者なのか?


 法的に言えば、私はただの訪問者だ。火をつけたわけでもないし、男を殺したわけでもない。


 だが、私は見ていた。


 男が倒れ、痙攣し、死に向かっていく様を。そして映奈が、その男を見捨ててタバコに火をつける瞬間を。


 通報義務。救護義務。


 そんな言葉が頭をよぎる。もし私が警察に話せば、映奈の罪はより重くなるだろう。「未必の故意による殺人」あるいは「不作為による殺人」


 だが、それを話すということは、私自身もあの汚物と汚濁に満ちた部屋にいたことを、公にするということだ。


 家族の葬儀を終えたばかりの男が、恋人の部屋で浮気現場に遭遇し、その浮気相手が死ぬのを黙って見ていた。


 そんな事実が明るみに出れば、私の社会的な立場もまた、あの部屋のゴミと一緒に燃え尽きるだろう。


 逃げたい。


 家族を失った悲しみからも、恋人に裏切られた絶望からも、そしてこの殺人現場の生々しさからも。


 私は臆病者だ。家族が死んだ時も、私はただ茫然とするだけで、涙すら枯れ果てていた。そして今、目の前で一人の人間が焼死したというのに、考えているのは自分の保身のことばかりだ。


 その時だった。


 刑事に話しかけられていた映奈が、ふっと顔を上げた。


 まるで、磁石に吸い寄せられるように。


 彼女の視線が、野次馬の壁を貫通し、私を捉えた。


 心臓が跳ね上がった。


 見つかった。


 彼女が指を差せば、それでおしまいだ。


『彼もいました』

『彼が見ていました』


 そう言われれば、私は規制線の内側へと引きずり込まれる。この地獄の道連れにされる。


 私は身動きが取れなかった。逃げ出すことも、近づくこともできず、ただ立ち尽くして彼女を見つめ返した。


 映奈の瞳は、暗く、深く、光を吸い込んでいた。


 かつてその瞳に宿っていた、私への甘えたような光も、あるいは先ほど見せた狂気的な情熱も、今はもうない。そこにあるのは、底のない井戸のような静寂だけだった。


 彼女の唇が、微かに動いた。


 声は届かない。距離がありすぎるし、周囲の騒音が大きすぎる。


 だが、私にはわかった気がした。


 彼女は、私を呼んではいなかった。助けを求めてもいなかった。


 彼女の唇が、音もなく動いた形が見えた。


「さよなら」でも「ごめん」でもない。


 あれは――『他人』――そう形作っていたように見えた。


 映奈はゆっくりと、本当に微かな動作で、首を横に振った。


 それは「来るな」という拒絶ですらなく、ただの事実確認だったのかもしれない。


 彼女はすぐに視線を外し、目の前の刑事へと向き直った。


 その動作には一切の躊躇がなく、あまりにもスムーズだった。まるで、パソコンの画面上で不要なファイルをゴミ箱へ移動させ、即座に次のタスクへ移るような、機械的で無機質な処理。


 そこに迷いや、別れを惜しむような湿った感情は一ミリも存在しなかった。


 彼女はただ、「西田という人間」を自分の中からデリートしたのだ。


 刑事の背中が、彼女と私の視線を完全に遮断した。


「……そうか」


 私は白い息と共に、言葉を吐き出した。


 彼女は私を売らなかった。


 それは私への最後の愛情だったのだろうか?


 いや、違う。そんな美しいものではない。


 彼女にとって、私はもう「考慮に値しない過去のデータ」になったのだ。私を巻き込めば事情は複雑になり、処理に時間がかかる。だから彼女は、私を「無関係な他人」として切り捨て、効率的に自分の運命と向き合うことを選んだ。


 それだけのことだ。


 彼女は最後まで、自分のために動いた。


 その事実は、不思議と私を傷つけなかった。むしろ、胸のつかえが取れたような、奇妙な納得感があった。


 そうだ、映奈はそういう女だった。


 弱くて、脆くて、だからこそ自分を守るためには残酷なほど合理的になれる。私の家族の死を「重い」と言って切り捨てたように、今また、私という存在を「不要なノイズ」として消去した。


 徹底している。いっそ清々しいほどに。


 私は踵を返した。


 もう、見るべきものは何もなかった。


 野次馬の壁をかき分ける。人々の体温と、濡れたコートの臭いが不快だった。


「押すなよ」


 誰かが舌打ちをする。私は頭を下げず、無言でその肩を押しのけて進んだ。


 背後で、再び何かが崩れる音がした。


 消防隊員の叫び声。野次馬のどよめき。


 私は振り返らなかった。


 雪が強くなっていた。


 アパートから離れるにつれて、赤い光は遠のき、世界は再び夜の闇と雪の白さに支配されていく。


 足元の雪は、泥とススで汚れていたが、私の進む先にある雪はまだ新しく、純白だった。


 靴底が雪を踏みしめる、ギュッ、ギュッという音が、私の心拍のリズムと重なる。


 歩きながら、私は奇妙な感覚に襲われていた。


 喪失感ではない。


 悲しみでもない。


 虚無感、という言葉が近いかもしれないが、それよりももっと、軽く、乾いた何かだ。


 家族がいなくなった。


 恋人がいなくなった。


 その恋人が別の男と寝ていた事実も、その男が死んだ事実も、すべてが火の中に消えた。


 私の手元には何もない。


 家族の遺骨はまだ葬儀場にあるかもしれないが、精神的な意味での「帰る場所」は、あの燃え落ちたアパートと共に消滅した。


 私は完全に、一人になった。


 孤独。


 かつて私はその言葉を恐れていた。家族との団欒が失われることを、映奈との繋がりが切れることを、何よりも恐れていた。だからこそ、家族の死後にすがりつくように映奈の部屋へ向かったのだ。


 だが今、その孤独が、不思議と心地よかった。


 重荷が消えたのだ。


 家族の死という重圧。それを悲しまなければならないという義務感。映奈との関係を維持しなければならないという努力。


 それらすべてが、あの炎で浄化された。


 歩調が速くなる。


 寒いのに、体が熱い。喉が渇いた。


 駅へと向かう道すがら、自動販売機の明かりが目に入った。私は立ち止まり、小銭を探る。


 冷たい缶コーヒーを一本買った。


 プルタブを開ける音が、静寂な夜に小気味よく響く。


 一口飲む。苦くて、甘ったるい、人工的な味がした。


 あの部屋で嗅いだ、腐ったような甘い臭いを思い出した。情事の熱気と、嘔吐物が混じり合った、あの濃厚な死臭。


「……甘ったるいな」


 呟いて、私は笑った。乾いた笑いが、白い息となって消えていく。


 喉を通る液体の不自然な甘さが、私の記憶を刺激し続ける。


 シュークリームは、どこへやっただろうか。


 ふと、記憶の断片がフラッシュバックした。


 そうだ。あの時、串本が倒れ、痙攣し始めた瞬間だ。私は恐怖と衝撃で、無意識に手を開いていた。


 箱が床に落ちる音など、男のうめき声にかき消されて聞こえなかった。だが、散乱したビールの空き缶や吸い殻の山の上に、潰れたシュークリームが転がった光景を、確かに覚えている。


 白いクリームが汚れた床にぶちまけられ、串本の吐瀉物と混ざり合っていく様を。


 私が届けようとした愛情の成れの果ては、あの男の死体と一緒に、今頃は真っ黒な炭になっているだろう。


 どうでもいいことだ。


 私は缶コーヒーを飲み干し、空き缶をゴミ箱に放り込んだ。


 カラン、と軽い音がした。


 駅が見えてきた。


 深夜に近い時間帯だが、駅前にはまだ明かりが灯り、数人の人々が行き交っている。


 酔っ払ったサラリーマン。スマホを見ながら歩く若者。タクシー待ちの列。


 そこには「日常」があった。


 ほんの数十分歩いただけで、世界はこうも簡単に切り替わる。


 誰も知らないのだ。


 この街の片隅で、一人の男が頭を割って死に、一人の女が放火犯として連行されようとしていることを。


 そして、その現場から逃げ出してきた男が、平然とした顔でここを歩いていることを。


 私は駅のトイレに入った。


 鏡を見る。


 そこに映っている男は、ひどく疲れた顔をしていた。目の下には隈があり、無精髭が伸びている。


 だが、頬には一筋のススがついていた。


 まるで、地獄からの招待状のように、黒い線が引かれている。


 私は水道の蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗った。


 ゴシゴシと、肌が赤くなるほど擦った。


 ススを落とし、脂ぎった汗を洗い流す。


 顔を上げ、ハンカチで拭う。


 鏡の中の男は、少しだけマシな顔になっていた。


 目は充血していたが、その奥には奇妙な光が宿っていた。


 ――お前は生きている。


 鏡の中の自分がそう言った気がした。


 家族が死んでも、恋人が人殺しになっても、お前は生きている。


 それは罪なのか?


 いや、ただの事実だ。生物としての事実だ。


 串本は言っていた。


「生きてる人間はセックスせなアカン」と。


 あいつは下衆だったが、ある意味で真理を突いていたのかもしれない。


 生きている人間は、生き続けなければならない。たとえどんなに汚くても、どんなに無様でも。他人の不幸を踏みつけにしてでも。


 改札を通る。


 ICカードが『ピピッ』と無機質な音を立てた。


 残高が表示される。


 日常への通行許可証だ。


 私はホームへと階段を上がった。


 風が吹き抜ける。駅のホームは寒かったが、先ほどの現場のような、肌にまとわりつくような湿気はなかった。


 乾燥した、清潔な冬の空気だ。


 電車が来るまで、あと五分。


 私はベンチには座らず、ホームの端に立った。


 線路の向こうに広がる街の灯りを見る。


 あの光の一つ一つに、それぞれの生活があり、それぞれの地獄があるのだろう。


 私の地獄は、今夜、燃え尽きた。


 映奈はどうなるだろうか。


 逮捕され、裁判にかけられるだろう。彼女の両親が泣き崩れる姿が目に浮かぶ。


 彼女は刑務所の中で、私を恨むだろうか? 「助けてくれなかった」と。


 それとも、「私のせいで彼を巻き込まなくてよかった」と、悲劇のヒロインに浸るだろうか?


 どちらでもいい。


 もう、私には関係のないことだ。


 彼女は「境界線」の向こう側に行ってしまった。


 私はこちら側に残った。


 それだけのことだ。


 遠くから、電車の接近を知らせるアナウンスが流れた。


『まもなく、二番線に、電車が参ります』


 光の帯が近づいてくる。


 私はポケットに手を入れた。指先が、何か硬いものに触れた。


 映奈の部屋の合鍵だった。


 あのアパートの鍵。もう存在しないドアを開けるための、無意味な金属片。


 私はそれをポケットから取り出し、掌に乗せた。


 銀色の鍵は、ホームの蛍光灯を反射して鈍く光っている。


 これが、私と彼女を繋ぐ最後の鎖だった。


 電車がホームに滑り込んでくる。風圧が髪を乱す。


 私は、鍵を握りしめようとして、やめた。


 代わりに、指先で弾いた。


 銀色の放物線を描いて、鍵は線路の闇へと吸い込まれていった。


 音もなく、消えた。


 ドアが開く。


 プシュウ、という音と共に、暖かい空気が車内から漏れ出してくる。


 私は電車に乗り込んだ。


 車内は空いていた。数人の乗客が、まばらに座っているだけだ。誰も私を見ない。


 私は窓際の席に座った。


 硬いシートの感触が、現実感を背中から伝えてくる。


 電車が動き出した。


 ゆっくりと、しかし確実に加速していく。


 窓の外を、景色が流れていく。


 遠くの空が、まだ微かに赤く染まっているのが見えたような気がした。だが、それもすぐにビルの陰に隠れて見えなくなった。


 ガタン、ゴトン。


 規則正しいリズムが、私の体を揺らす。


 私は窓ガラスに映る自分の顔を見た。


 涙は出ていなかった。


 口元が歪んでいた。笑っているのか?


 いや、これは痙攣だ。心が壊れないようにするための、防衛反応としての引きつりだ。


 だが、ガラスに映る私の目は、爬虫類のように冷たく淀んでいた。そこには人間らしい温度が欠落している。


 胸の奥から湧き上がってくるこの感情は、幸福などではない。


 感情が焼き切れたことによる、空虚な躁状態。


 タガが外れ、ブレーキの壊れた機械が空転しているような、危険な軽さだった。


「……ああ、腹が減った」


 私は独りごちた。


 あんな惨状を見た後だというのに、胃袋が収縮して食事を求めている。


 生物的な維持活動。


 そうだ、私はまだ終わっていない。


 家族の葬儀を終え、恋人の部屋に向かったら、そこには知らない男の吐瀉物と情事の残り香しかなかった。


 そして今、それらすべてが灰になった。


 ゼロになったのだ。


 いや、マイナスからのスタートか。


 どちらでもいい。


 私は生きている。


 ただそれだけが、今の私に残された唯一の真実だった。


 電車は闇を切り裂いて進む。


 次の駅へ。その次の駅へ。


 私は深くシートに体を沈め、目を閉じた。


 まぶたの裏には、まだあの炎が揺らめいていた。


 赤く、激しく、すべてを焼き尽くす浄化の炎。


 それは美しくさえあった。


 私はその残像を焼き付けたまま、眠りに落ちるように、深く息を吐いた。


 雑踏へと戻るために。


 新しい、何もない明日へと向かうために。


 電車は走り続ける。私の罪と、私の空っぽな自由を乗せて。



……


……


……



 走り続ける。



【完】

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「死人の話なんて聞きたくない」と僕を裏切った彼女が、浮気相手を物理的に燃えるゴミとして処理するまで。家族を失った僕に残されたのは美しい思い出ではなく、紅蓮の炎と圧倒的な虚無だけだった。 ネムノキ @nemunoki7

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