ヘルドゥラの神々:漆黒の女王
渡弥和志
第一章
1. 紅の目覚め
おお、漆黒の女王が来たる
闇と魂の支配者
彼女がヘルドゥラに至るとき
世界の
『ゲルス書紀・バロマウル七章一節』
それが見下ろす麓には八司祭議会の治める自由の都、首府クレストルが栄えている。
ここはその賑やかな町並みを抜け、はるか南東へ歩んだ独立領トルイデア。恵みの水海レディン湖が目前に広がる入り江に、領都フィレアルがあった。
領都の中心には古く由緒ある城があった。長い年月を経た事を思わせる大きな岩々で組まれ、古い騎士家の居城にふさわしい威厳を持っている。
トルイデア領フィル家。対魔騎士団を編成するなど、大きな武力を持つフィル家はこのような城を持っても相応な存在である。
屋敷を形作っている黒い巨岩、月光に照らされると青みがかった淡い光を放ち、青く浮かび上がる古城は不思議な美しさを湛えている。
しかし、その外周や城下町には多くの兵らが緊張した面持ちで警備にあたっており、張り詰めた空気が流れていた。
メティル周囲に存在する『
――魂喰いは冬の夜にしばしば現れる―― それはもはや過去の話となっていた。
そんな中、領主クレド・メル・フィルは自らも列席する八司祭議会を通じて、魔道に秀でた隣国レシャンクに支援を求めた。
それに応え、魔導士ナルバなる者が派遣された。
若くして古き五柱の神の伝承に通じ、特に魂を司る神『ヴィリド』の古魔術に詳しく、魂を喰らう 『異形』 への対処術に秀でた人物だという。
城の地下、長い廊下の先に隠されるように存在した扉の中、祭壇に向かい白いローブをまとったナルバが、低く呪文を唱える。
その声は波動となって生い茂る蔦のように広がり、神殿の石畳に絡みつき、中央に据えられた祭壇の上で脈打つように紅く輝く神器 『宝玉』に集まっている。
『宝玉』からは魔力を帯びた風が巻き起こり、燭台の火を消さんとばかりに激しく揺らしている。
祭壇の前には、一人の男が膝をついている。
フィレアル騎士団長、メドゥル・ストリフ。
領主の信望も厚い屈強な壮年の騎士の背は、今は哀しみと執着に打ちひしがれている。
「カルラ……」
皺深く刻まれた彼の眼窩は虚ろで、その視線の先には、まるで生ける人形のように表情を失った娘、カルラが椅子に腰かけていた。
父と同じ深い青緑の瞳には生気がなく、鈍色の長い髪が『宝玉』から漏れ出る風にたなびいているのみで、その身体は微動だにしない。
「メドゥル殿、これが唯一の機会です」
ナルバは囁く。
「この神器に宿る神の魂は、貴殿の娘君の『欠けた魂』を埋め合わせるでしょう。
対価は……我々メティルの民が長く忘れていた、古き神の神意を聞き入れること」
メドゥルは顔を歪ませ悩み、苦悶した。
————
城の上空に、黒紅の雲が渦を巻いていた。
領主クレドの嫡子にして、水竜中隊の長である若き剣士ガルド・メル・フィルは、配下の兵二人を連れて急ぎ地下へ続く廊下を走る。
「父上の不在時に何が起きたというんだ……!」
「ガルド様、ヴァルス様も向かわれているようです!」
ガルドは足を早めた。
カルラの魂の欠損。その救済のため、メドゥルが何か危険な手段に踏み切るだろうという予感はあった。
友であり騎士団仲間であるメドゥルの息子、ヴァルスも同じ懸念を漏らしていた。
廊下を急ぐガルドの傍らに、老神官サルフェンが歩み寄り焦燥した様子で叫ぶ。
「ガルド殿、急いでくれ!
あの魔力は……ヴィリド神の遺骸、『宝玉』じゃ。
あれを用いて魂の補完など、うまくいきようはずがない……!」
「――!? 『宝玉』は、レシャンクに封印されているはずだろう!」
「ナルバが持ち込んだのじゃ。
封印を如何にしたかは分らぬが……
「ナルバ殿が?」
「知識は深いが、何を考えておるのか読めん。
いずれにせよ、今止めねばカルラ殿は――」
険しいサルフェンの顔を一瞥し、ガルドたちは地下への階段を駆け降りた。
そして長い廊下を走る三人の前に、ナルバ配下の二人の魔導士が立ちはだかる。
剣士らが躍り出て魔導士の杖を押さえつけ、詠唱を阻んだ。
「ガルド様!ここは我らにお任せを!」
「頼んだ……!」
突き当たった扉の向こうからヴァルスの声が漏れる。
「父上! 本当にこれで姉さんが救われるとお思いですか!」
メドゥルの悲痛な叫びが響く。
「カルラは魂を欠き、このままでは生ける屍も同然……!
ヴィリド神の力なら補えるはずだ!
私は、ただ……戻ってきてほしいのだ……」
「魂の、補完……
まことにそのような事が……」
ガルドは扉を開き叫んだ。
「ヴァルス、下がれ!」
儀式陣は黒紅の渦と化し、『宝玉』が宙へと浮き上がっていた。
紅き玉が一層その輝きを増して、カルラの胸元へと近づいていた。
その傍らにはナルバが立ち、両手を輝きの方へとかざしている。
冷静な面持ちで、ガルドを見据え言う。
「ガルド様、ここは危険です。もはや儀式は中断できません」
「できないだと? 魂に触れるなど、人の道を外れている……!」
「魂とは、本来世界と深く繋がるもの。
カルラ様は 『異形』との接触により魂を欠き、人として不完全な存在となってしまわれた。
この『宝玉』に宿るヴィリドは魂の本質を司る神。
今こそカルラ様と世界の絆を取り戻し、あるべき人の姿へと戻す時なのです」
説明は理屈として通っている。
しかし目の前の異様な光景は、禁忌に触れた儀式のそれであった。
ガルドは剣に手をかけ、メドゥルの前へ歩み出た。
「メドゥル殿、これ以上は危険だ!」
「黙れ! これは娘を救うため、ヴァルスのためでもあるのだ!」
ガルドは友に目を向けた。膝をつきうなだれたその姿に、胸の奥に刺すような痛みを感じつつも、その意を決した。
「領主クレドの名において続けさせる訳にはいかない……!」
ガルドが剣を抜き放つと、メドゥルもまた背の大剣を振りかざした。
二振りの魔剣が打ち合わされ、衝撃が走った。
ギリギリと鈍い音を立てる。
メドゥルは鬼気迫る視線をヴァルスに向け、絞り出すように訴えた。
「ヴァルス! 姉を取り戻したくはないのか!
今この時しか無いのだぞ……!」
ガルドの背後で、ヴァルスが呻くような声を漏らす。
「姉さんを……今、止めたら……」
立ち上がる気配を感じた。
ガルドがメドゥルの剣を擦り落とし、その気配に振り返るよりも早く、硬質な衝撃が後頭部を襲った。
友の剣の
視界が歪み、最後に見たのは苦痛に歪んだヴァルスの青緑の瞳。
剣が石畳に転がり乾いた音をたて、ガルドは倒れた。
「ああ……ガルド、許してくれ……」
ヴァルスは膝から崩れ落ち、苦悶の表情を浮かべてその手を覆った。
メドゥルは決意を固めたようにナルバに向かい、言った。
「この娘の瞳に、かつての光を戻せるのなら……
私は、いかなる神意でも受け入れよう」
彼の声を聞きとどけたナルバが両手を組み、最後の呪文を唱えたその時。
『宝玉』がカルラの胸に吸い込まれるように消え、そして地を揺るがすような恐ろしい轟音が響き渡り、城全体が震え、カルラを中心に、紅の光が爆ぜるように広がった。
魔力の奔流が渦巻き、カルラにそれが収束する。
全ての波が彼女に収まると、部屋に静けさが戻った。
ぴくり、とカルラの細く白い指先が動いた。
その瞼がゆっくりと、薄く開く。
そこには血のごとく紅い瞳があった。
明かりが消え、暗い部屋が冷たい空気に包まれた。
「……儀式は完了しました、メドゥル殿。
彼女の魂は補われました。いずれ自我を取り戻すでしょう。
そして、古き神の神意が示されます————」
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