星のオジサマ

七ノ瀬 弥生

星のオジサマ

今日が何月何日か。

今日が何曜日か。

そんなこと、どうでもいい。

錆びたトタンが囲むこの町は、希望も夢もない。

現場の屑っぽい臭いにくしゃみをすると、ルーカスはとぼとぼと夜道を帰っていく。

空気が冷たくなってきたこの頃。

薪代を稼ぐため、彼は13歳ながら、今日も一日工事現場にこもっていた。

凸凹して歩きにくい歩道を、彼は一人で歩いていく。街灯がさす弱い光が、ぽつ、ぽつ、とまばらに並んで見える。今にも消えそうに明滅しては、褪せた色の蛾を吸いこもうとしていた。

疲れた。

頭の中はぽっかりと空洞で、なにもない。彼の薄灰の目にも、何も映っていない。全てが夜の静寂と、疲労の中に溶け込んで消えていくのだ。

ふと視線を外すと、ルーカスのすぐ側に、痩せこけた老人が眠っていた。彼は服も着ないで、ゴミ袋の山に埋もれるようにして倒れている。

生きているのか、死んでいるのか。

どちらにせよ、「それ」はもう人の気配を醸してはいない。

ルーカスのくすんだ眼が、老人をちら、と捉えては、また興味もなさげに逸らされた。

それもそのはずで、ここでは人が道端で眠っているのは、日常のつまらない一片に過ぎないからだ。

もっとも、ルーカスとその妹───パーラが、あの老人のようになっていないのは、単に神の気まぐれにあやかれたからである。

ルーカスとパーラが家を追い出されて、幸運にも、追い出されたその日のうちに、安全そうな空き家を見つけることが出来た。それは人が住めるようなものでは無い、完全な荒屋だったが、それでもやはり幸運に違いなかった。

この荒屋がなければ、きっと幼いパーラは今頃凍え死んでいただろう。

白い息を吐き出しながら、ルーカスはそんなことを考える。

みすぼらしく、愛想のない自分を追い出すなら分かる。

どうしてあんなにも可愛らしく、無垢で、美しい女の子を捨てたんだ?

ルーカスの目は、怒りの中で鋭く光っていた。それは、眼前の冷たい暗闇を切り裂かんばかりに、じっと睨みつけるのだった。

彼の目の裏に、パーラを捨てた、あの残虐非道な大人たちの顔が思い出された。

彼の記憶は、決して消えることは無い。例えどれだけ酒を飲もうとも、頭を打ちつけようとも、ルーカスはあの大人たちの仕打ちを忘れるわけがなかった。

裸になった街路樹のすぐそばを曲がり、幾分か歩いて行くと、脇道に入り、小さな橋を越えていく。

そこからしばらく歩くと、荒屋がある。

それまでの道で、彼は過去のことを思い出していた。


ルーカスは、物心がついた頃から、煙草の煙に包まれて生きてきた。

娼婦をしている母と、次々に入れ替わっていく「ボーイフレンド」は、ルーカスやパーラの前でも、よく煙草を吸っていた。そのため、部屋の中はいつも紫煙でくすんでいて、むせ返るほどの甘い香りが充満していたのだ。

パーラが自分とは血が繋がっていないかもしれないことも容易に察することが出来た。

自分がくすんだ灰色の髪と目、血色の悪い肌しか持っていないのにも関わらず、パーラは、金色の美しい巻き毛と、大きなキラキラとした青い瞳を持っている。

彼女の笑顔は天使そのもので、固く凍りついたルーカスの心を、あたたかな春の陽射しで優しく溶かすようだった。

彼はパーラを愛してやまなかった。

貧民街の片隅にある、小さなスクールに通っていた頃も、ルーカスは妹が虐められないよう、意地の悪いクラスメイトがいれば直ぐに睨みをきかせに行く。

そしてルーカスの鋭い眼光を前に怯まない子供は誰もいなかった。彼は一切友達を作らず、常に妹のことばかり考えていた。それはスクールに通っていた時も然り、また家から追い出され、二人で生きている今も然りである。

パーラと自分が本当の兄妹では無いことなど、ルーカスにはどうでもよかった。ただそばにいられるだけで、十分な幸運であった。


しばらくして、かの荒屋にたどり着く。

「……ただいま」

玄関を開けると、ギイ、と不快な軋む音が聞こえた。

暗がりの奥の方で、モゾモゾと何かが動く気配がする。

「お兄ちゃん……?」

汚れたブランケットから顔を覗かせたのは、紛れもない、パーラだった。

「ただいま」

ルーカスは、濁った窓から差し込む、薄明かりに浮かび上がるパーラの姿を見つめて、僅かに微笑んだ。

「寒かっただろ。今火を灯すよ」

暖炉の傍に錆びた燭台を置き、工事現場の仲間からもらったマッチで火をつける。

小さな火ではあるが、ぽうっと優しい光が手元に灯される。

蝋燭は、恐らく1時間と経たないうちに燃え尽きてしまうだろう。

ルーカスは、隣で火を見つめる妹の肩を抱き寄せる。

こんな火じゃ、あたたかくならない。

だけど、何も無い板間で眠るよりは、まだましだろうと思う。

息を吐けば、すぐに揺らめいて掻き消えそうな光。

二人はそれを見つめるしかない。

お腹がすいた。何か食べないと。

「……明日からは、薪にしようか」

そう言うと、ルーカスはボロボロのスクールバックから今日買ってきたパンと一欠片のチーズを取り出し、それをパーラに差し出す。

「お腹、空いただろ。ほら」

パーラは大きな目でルーカスを見上げる。

「お兄ちゃん、無理しないで」

彼女の青い瞳が、蝋燭の明かりを静かに反射した。

「無理なんかしてない。兄ちゃんなら、他に食べるもんあるから、な?」

「じゃあ、半分こがいい」

パーラは、小さい手で硬くなったパンをふたつにちぎろうとする。

一生懸命にぷるぷる震えてルーカスと半分こにしようとするのが、なんとも愛らしくて、彼は思わずくすくす笑う。

「兄ちゃんがやってあげるから」

パーラからパンを受け取ると、ルーカスはいとも簡単にパンをふたつにちぎって、大きい方をパーラに渡す。

「食べようか」

妹の小さな頷きに、ルーカスはそっと微笑む。

二人は、仄かな明かりの前に並んで座り、硬いパンの一口目をかじった。



「お兄ちゃん……」

隣からパーラの声がする。

ルーカスは眠い目をゴシゴシと強く擦って、隣に顔を向ける。

「ん……どうした……」

時刻は分からないが、恐らく真夜中。

まだぼんやりしたまま、暗闇の中を探ってみると、小さな柔らかい手が指先に当たる。

「どうした……」

夜目が効いてきたのか、パーラの白い顔がぼんやりと見える。

「怖い夢、見たか?」

ルーカスはパーラの顔を覗き込む。

パーラはどこかソワソワしながら、金の巻き毛をふわふわと揺らして首を横に振った。

「違うの……」

彼女は躊躇いがちに何かを言おうとして、また口を閉じてしまう。

「……眠れないのか?」

ルーカスがそっと手を握り返すと、パーラは小さな頭をこくんと縦に振った。

「そっか、眠れないか」

彼が穏やかに言うと、パーラはより強くルーカスの手を握った。

「あの……」

何か言おうとする妹を前に、ルーカスは黙って彼女の言葉を待つ。

パーラは何か頼み事をするとき、いつもこんな風に申し訳なさそうにする。

それは彼女の優しさでもあり、「自分のことは自分でなんとかすべきなのに」という、ある種の責任感でもあった。

妹の殊勝な心がけを兄として嬉しく思う反面、いつも少しの寂しさをルーカスは抱いていた。

そのため、彼はパーラの頼み事を予感すると、彼女が自分から頼ってきてくれるのを待つようにしているのだ。

「お外……ちょっとだけ出たい」

パーラの小さい声は、ぽろりと床にこぼれ落ちた。

「夜は、怖いのいっぱいって分かってる。でも……」

ルーカスは考え込む。

こんな真夜中に妹を連れ出して、万に一つでも妹に危険が降りかかったら?

彼は、パサついた唇をそっと噛み締めて思考する。

しかし、パーラのお願いを無視することも出来ない。

夜はパーラには危険だ。

だが、場所を選べばなんとか───

「分かった」

ルーカスはゆっくり目を伏せて、またパーラの顔を見つめる。

「でも、本当に少しだけだ。兄ちゃんから絶対に離れないこと、静かにおしゃべりすること……約束できるか?」

するとパーラはキラリと輝くような笑顔をうかべた。それは、どんな暗闇をもまっすぐに貫く、パーラだけの無垢な輝きであった。

「うん、できるよ」

彼女の「ひそひそ声」を合図に、ルーカスは起き上がり、パーラもそれに続く。

二人は荒屋の玄関からそっと抜け出すと、戸締りをして、家の前の小道に出る。

「ほら、手」

ルーカスが手を取ると、パーラもぎゅっと握り返す。

街灯の青白い光の中に、ふたつの影が伸びる。

長い影と、それよりも頭一つ分は短い影。ふたつの影はピタリと寄り添ったまま、ゆらゆらと揺れて、過ぎ去っていく。

「どこに行きたい?」

ルーカスが尋ねると、パーラはじっと考え込んでから、彼を見上げる。

「公園は?」

パーラの提案に、ルーカスは渋い顔をして唸る。

「公園は、怖い人いるかもしれないな……」

二人は歩きながら少しの間考え込む。

「ボトム湖はどうだ?」

ボトム湖。

この貧民街の近くにある湖だ。人は滅多にいない。

この湖のほとりが、二人のお気に入りの散歩道だ。

少し遠いが、いつも歩き慣れている道ではある。

「うん……!行く!」

いつもと同じ道なので、パーラは退屈かもしれないと思っていたが、意外と喜んでくれている。

「じゃあ行こうか」

こうして二人はボトム湖を目指して歩いていくのだった。



しばらくの間、パーラの編み物が上達した話や、それを買ってくれる人がいたことなどを聞きながら、ルーカスはゆっくりと道を歩いていた。

心がゆるり、ゆるりと解けては、見えないところへ溶けていく。

長いようで短い時間。

いつの間にか、ひやりとした風が肌を撫でる。

ボトム湖に着いたのだ。

「着いた……!」

パーラはぴょこりと飛び跳ねる。

真夜中のボトム湖は、一層静けさを増し、ゆったりと水が波打っていた。

今日は月が出ていないのか、空には星しか見えない。

しかし、冬が近いせいか、空気が澄んでいる。

雲は一つもなく、 広く開けた闇の中に、小さな星粒がキラキラと明滅する。

「綺麗……」

そう呟くパーラの隣で、ルーカスは黙って星空を見上げていた。

『星は願いを叶えてくれる』

いつのことだったか。そんな言葉を聞いたことがある。

彼は遠くに光る星々を、ぼんやりと眺め続ける。

彼らはいつもチラチラと瞬いている。

いつも、俺たちの手が届かない場所で。

ルーカスは暗黒の天井の遥か先で輝く星々たちを、何も言わずに、ただじっと見つめる。その灰に染った眼光を一層鋭くして。

星は、願いなんか叶えてくれない。

ルーカスは知っている。

いつか聞いたおとぎ話は、優しい嘘だったことを。

そして、そんな絵空事に甘えるのは愚かだということを。

「お兄ちゃん……?」

パーラの声を聞き、ルーカスはハッと我にかえる。

「……あぁ、考え事だよ」

彼は心配そうに瞳を揺らすパーラを見下ろす。

パーラの柔らかな掌が、ルーカスの指先を包み込む。

例え嘘偽りに塗れた世界でも───

ルーカスの目には、静かに妹が映っている。

「ちょっと歩くか」

しんみりとした気持ちを払おうとするかのように、ルーカスは顔を上げ、前を向いた。

湖畔に沿って歩き出す兄の後をパーラがトコトコと着いてくる。

冷たいはずの風も、不思議と心地よく肌に染まっていく。

二人は夜に揺れる水面その場を通った。

しかし、少しも行かないうちに、遠くの方から音が聞こえてくる。

「何か聞こえる」

ルーカスはピタリと止まって、耳を澄ませる。

よく聞いてみると……これは声?

しかも上から───

「……ぁぁああああ!!」

ルーカスは咄嗟に妹を抱き寄せ、上から落ちてくる「何か」を避ける。

それはドシャッと音を立てて、湿った地面に突っ込んだ。

反動で泥が飛び散り、ルーカスの顔や服を汚す。

「……」

ルーカスは地面に埋まったそれを見つめながら、頬に飛んだ泥を、親指でピッと拭った。

空から落ちてきたそれは、人のようだった。

なんで空から……?

しばらく謎の人物はワタワタと手足をばたつかせていたが、一向に頭が抜ける気配は無い。

「手伝ってあげた方がいいかな……?」

ルーカスは妹をその場に押しとどめる。

「ここで待ってろ」

地面に頭を突っ込んだままのその人は、濡れた腐葉土に足を滑らせ、力が入らない様子だ。

放置して窒息死されても寝覚めが悪い。

ルーカスは仕方なく、ダボついたズボンを引っ張る。

すると、そいつの頭がずぽっと音を立てて抜けた。

男の顔は泥まみれだった。

「ふいぃ…!まさか落っこちるとはな……!」

小汚い髭に、泥が付着して更に汚らしいさを増している。

なんだこいつは。

ルーカスとパーラが警戒するのにも関わらず、今できたばかりの泥の穴から、ビトビトになった帽子を取り出そうと苦戦している。

男はホームレスのような、ボロ布を纏っていた。無駄にヒラヒラした、マントのような上着も、裾がほつれ、みっともなく垂れ下がっている。

「よっこら、しょっとォ」

ヒョロリと立ち上がった男は、見上げるほどの長身で、くすんだ赤っぽい瞳を、悲しげに歪める。

「おぉお……俺のハットちゃんがァ……」

二人は、目をパチクリとして、その男を見上げた。

「まァ……洗えばいいか」

男は落胆した様子で、帽子から目を離し、ようやくルーカスとパーラを見る。

「おっと、俺を泥んこから助けてくれたのはおめェらかい?」

ルーカスは、恐る恐る頷く。いつの間にか、彼はパーラを後ろに隠していた。

「や、あんがとよォ〜助かったぜ」

彼は人懐っこそうな顔をクシャッとして笑う。

「つーかボウズ。おめェ、ナイスタイミング……!よく避けたな!」

ルーカスの頭に泥だらけの手が伸ばされる。しかしルーカスは素早くその手を避けた。

「誰だよ、お前」

彼の目は、鋼のような冷たさを帯びていた。

「おぉ〜、手厳しいねェ」

そんなルーカスを前に、骨と皮ばかりの男はニヤニヤと笑う。

「いやァ、すまねェな、こんな泥だらけでよ?いつもはもっとイケおじなんだがな。ハハッ」

骨ばった手が、スッと引き下がる。

「誰だって聞いてんだよ」

飄々とした男の態度に、ルーカスはジリ、と後ろに下がる。

「いやいや、怪しいモンじゃねェよ!ただの……なんつうか、オッサンだよ、オッサン!」

怪しげな男は、辺りを見渡す。

何を探しているのかと思っていると、急に湖に向かって走り出した。

「お!水だ!」

湖に駆け寄ると、彼はバシャバシャと派手な音を立てて手や顔、そして自慢の帽子を洗い始める。

二人は、ただ呆気にとられて、遠巻きにそれを見つめるばかりだ。

おじさんの方は、そんな二人をよそに、無邪気に水に手を突っ込んでいる。

しばらく、彼の薄汚れたマントの背中を見つめていたが、やっと洗い終えたのか、びしょ濡れのおじさんが近づいてきた。

「やァ、待たせたな」

ルーカスはハッとして、距離を置く。

「おいおい、そんなに警戒すんなよなァ〜……オジサン泣いちゃうぞ?」

相変わらずヘラヘラした口調で細い方をすくめる。

ルーカスは何も言えずに、じっと目の前の不審者を観察している。パーラも、不安げにルーカスの服の裾をキュッと握っている。

「誰だ」

再びルーカスの声が、虚を割く。

「うーん……誰だって言われてもなァ。強いて言うなら、妖精サンのようなものさ」

男は腰に手を当て、片足に重心を傾ける。

「俺は星の国から来たのさ」

「……は?」

「星の国」

おじさんの青白い人差し指が上を指す。

「あそこにあんだよ。星の国がな。まァ、散歩中に力加減ミスって落っこちてきたんだ。やれやれ、昔はこんなミスしなかったのになァ。歳のせいってやつかね」

そう言って、彼は呆れたように額を押さえて首を振る。

ルーカスは、開いた口が塞がらなかった。

一体こいつは何を言っているんだ?

まったく話についていけない。

そんなのにもお構い無しに、おじさんはルーカスとパーラを珍しげに交互に見つめる。

「そういや、おめェらは何してんだ?こんな夜中にさ?」

「……ただの散歩だけど」

「お、散歩か。なら俺と一緒だな」

何が面白いのか、おじさんは口の中でくつくつと笑う。

「なあ、ガキども」

ルーカスとパーラは、さらに近づいてくる奇妙な男をじっと見上げる。

「こうして会えたのもなんかの縁だしさ……」

スッと滑るように男の長い指先が差し出される。

「来るか?星の国に」

ルーカスの喉を、冷たい唾が落ちていく。

「行かない」

彼は手を固く握る。その掌には、じんわりと汗が握られていた。

「行くわけがないだろう。この不審者が」

ルーカスはハッキリと強く否定する。

しかし男の方はピクリともせずに、余裕そうな表情でパーラの方に目を向ける。

「お嬢ちゃんはいかがかな?」

ルーカスはそれにつられて、パーラをふと見た。

するとどうだろう。彼女はあろうことか、その大きな瞳を輝かせておじさんを見つめていた。

「行きたい……!」

ルーカスは咄嗟にパーラの腕を強く掴んだ。

「ダメだ」

ルーカスの心臓は、バクバクと音を立てる。

「ダメだよ、パーラ」

彼の手には、さらに力が込められる。

「いたいよ、お兄ちゃん……っ」

彼女の優しい声が痛みに歪むのを聞いて、ルーカスは急いで手を離す。

「ごめん…っ、大丈夫か?」

ルーカスは青ざめて、妹の寝間着の袖をめくり、その白い腕を確認する。

その様子を終始見ていた男は、ふっと微笑む。

「ボウズ」

ルーカスはピタリと動きを止め、男を振り返る。

「お前が俺を警戒するのも分かる。なんたって、星の国だなんて突飛なことをほざくオッサンなんか、お前の言う通り不審者だからな。だが、俺の言うことは紛れもない事実だ」

そして男は続ける。

「証明が必要か?」

彼は答えを待たずに、ニヤリと笑った。そして───

男は淡く光り始めた。

「よォく見とけよ、ガキども」

言葉が終わるや否や、彼のシミだらけのマントがふわりと舞う。

そして次の瞬間には、目の前から消えていた。

消えた?

ひとつ遅れて、二人の前に強い風が巻き起こる。

「うわぁあ!」

パーラの叫び声が、風音のせいで遠くに聞こえる。

風が止むと、上の方から声がした。

「おうい、こっちだこっち」

見上げてみると、男は空を飛んでいた。

いや、正確には宙に立っていた。

何メートルかは分からないが、遥か上の方で、彼は二人を見下ろして、細長い腕をひょろひょろと大きく振っている。

信じられない。

ルーカスは、目の前の光景が信じられない。

自分は今、夢を見ているのか?

もしかして、これは自分の幻覚なのでは───

「すごい!!」

しかし、隣から上がる歓声によって、現実に引き戻される。

パーラの声だ。

もう一度上を見る。

そこにはやはり、男の姿があった。

「お兄ちゃん!あのおじさん、きっと本物の妖精さんだよ!!」

パーラは興奮しきっていて、ルーカスの服をグイグイと引っ張る。

ルーカスの方は、まだ上手く状況が呑み込めていないのか、瞬きすら忘れて、目の前の光景を見詰めていた。

そうしているうちに、男はゆっくりと空から降りてくる。そして、ルーカスの目の前に、そっと降り立つ。

「これで信じてくれるか?」

ルーカスはたじろいで、曖昧な母音を漏らす。

「お兄ちゃん」

指先が、ふわりと包まれる。

「パーラ……」

パーラは微笑んで、彼の顔を覗き込むように見上げていた。

「行ってみようよ、星の国」

パーラの手は優しく、それでいて力強く感じられた。

ルーカスは視線をキョロキョロと漂わせ、戸惑いを隠しきれていない。

すると、頭にぽすんと何かが乗せられる。

それは男の手だった。

「来いよ。いいもん見せてやる」

男のワインレッドの目が、月明かりに柔らかく映えていた。

ルーカスはその眼差しに、いつの間にか惹かれていた。心臓がドッドッと音を立てる。

「……ひとつ、約束しろ」

ルーカスのひび割れた唇から、声がこぼれる。

「妹を危険な目に合わせたら、ただじゃおかないからな」

男はゆったりと笑う。

「もちろんだ」

そしてルーカスの手を取る。

「お前たちを危険に晒したりしない」

男は、ヘラヘラ笑ったりしなかった。

「さァ、星の国へご招待だ」

そう言うと、彼はパーラを抱き上げ、ルーカスの手を握る。

次の瞬間には、男とルーカスはふわりと宙に浮いていた。足が次第に地面から遠ざかっていく。

そして、さっきおじさんがいたくらいの位置まで上がってくる。不思議なことに、宙に浮いているにもかかわらず、足元にちゃんと地面が敷かれているような感覚である。

これが、このおじさんの「妖精」の力なのだろうか……

「安心しろ、今度は力加減を間違えないからさ」

真っ黒のベールに、星々がキラキラと微笑むように輝く。

彼らは、星の国を目指して、その足を踏み出した。

ルーカスやおじさんが歩く度に、その足元には、青白い光が淡く波紋のように広がっては消える。

まるで、浅く水が敷かれた、硝子の床をひたひたと歩いているような感覚だ。

「これは……」

ルーカスは思わず声を漏らす。

自分は今、確かに「空を歩いて」いるのだ。

さっきまでルーカスたちがいた、ボトム湖は、豆粒の大きさに見える。

兄妹が住む、あのさびれた貧民街も、小さな塵のように見える。

「初めてだ……」

彼は呟く。

彼らの遥か下の方に、行ったこともない街の明かりや、白い肌をした山々、細い血管のように見える川の流れなど、ルーカスやパーラの知らない外の世界までもが、遠く小さく映る。

「おいおい、下ばっか見てないでこっちも見てみろよ」

おじさんの声に、ふと視線をあげると、辺り一面に、宝石のような星々が、バラバラと散らばっていた。

「わぁあ……綺麗……!」

おじさんの腕の中で、パーラが叫ぶ。

「そうだろ?これが俺の散歩道ってわけさ」

ルーカスは言葉を失って、一面にばら撒かれた星屑を見つめるしかない。

「あの」

ルーカスはおじさんを見あげずに、辺りの光景に見とれながら、尋ねる。

「星の国って、まだ先なのか?」

星の間を縫う風の流れが、軽やかに三人の傍を通り過ぎていく。

「ああ、星の国はな、月の国の近くにあるんだよ」

おじさんの節くれだった指が、上を指さす。

「もうちょい上に登らねェとな。今日は月が光ってねえから分かりづらいけどよ……オジサンには分かんだ」

おじさんの目が、得意げに笑む。

「まあ、ゆっくり歩こうぜ?人間は空を飛べないんだからさ」

気がつくと、星屑もだいぶ下の方になっていた。

もう一度周りを見渡してみると、そこは何も無い、真っ黒な深淵だった。

全身の毛が、一瞬にして逆立った。

深淵は、上の方までずっと続いている。

一点の光も存在しない。

あるのは、ポッカリと口を開けた、闇だけだ。

手のひらに冷たい汗をかく。

「おじさん、怖いよぉ……」

パーラもブルブルと震えて、おじさんの腕にしがみつく。

「ハハッ、まァ……怖いよな」

ルーカスは光の存在を感じたくて、下を見る。

しかし、もう星屑の光はひとつも見えない。完全な闇の中を、彼らは歩いているのだった。

「大丈夫だ」

その時、おじさんの声がそっと耳に転がり込んでくる。

「ほら見ろ。もう見えてきたぜ、星の国がよ」

もはやどこが上か下かも分からなくなってきたが、顔を上げると、遠くにポツンと丸い光が、淡く見える。

「あれが、星の国なのか?」

暗くてよく見えないが、淡い光で微弱に映るおじさんは、ゆっくりと縦に首を振る。

「あぁ、あれが星の国だ」

丸い光が徐々に近づいてくると、近くで大きな球体がゆっくりと回転しているのが見える。

「もしかして、あの大きい球体は……」

ルーカスが呟くと、おじさんはそうだ、と短く言う。

「あれが月の国だな。今日は月の国はおやすみだな」

「おやすみ?」

「そう、おやすみ。光ってないだろ?あれは、月の連中がみんな寝静まってるからだよ」

「へえ……」

「なんだ、反応悪ぃなァ」

おじさんはくつくつ笑う。

「いや……普通にびっくりして。そもそも月の国とか、星の国とかがあるなんて知らなかったし」

ルーカスは馬鹿にされたような気がして、少し口を尖らせる。それを見たパーラがくすくす笑う。

「ふふっ、お兄ちゃんぷっくぅしてる!」

星の国が近づいてきた。光で、おじさんとパーラの顔が見える。

二人とも、優しい笑顔を浮かべていた。

ルーカスは、何となく恥ずかしくなって、頬が熱くなる。

「なんだボウズ、照れてんのかおめェ?」

おじさんの喉が、また音を立てている。

「うるさいな……早く連れていけってば」

ルーカスがそっぽを向くと、おじさんはハハッと声を出して笑った。

「分かったよ。ほら、もう着くぞ」

おじさんの言葉を最後に、三人の小さな影が、柔らかな丸い光の中に吸い込まれていくのだった。



そこは黄色い空だった。

雲を払い、慎重に降りていくと、下の方に巨大な都市が広がっていた。

「ほら見ろよ。これが星の国だ」

星の国───見渡す限り、建物で埋め尽くされている。

ルーカスはキョロキョロと辺りを見渡してみる。

雲を抜けた所に、楕円の形をした、怪しげな物体がポツポツと点在している。

「あれはなんだ……」

彼の小さな呟き声に、おじさんはつまらなそうに答える。

「ああ、あれはエネルギー補給所さ」

それ以上の説明はなかった。

エネルギー補給所ということは、あそこで作られたエネルギーが、電気とかそういったものとしてこの巨大都市に供給されているということなのだろうか……

ルーカスにはよく分からない。

「ねえおじさん、あれは街?」

パーラが、くりくりとしたまん丸の目でおじさんを見上げる。小さな人差し指は、下の方を指していた。

「ああ、そうだ。星の国で一番デカイ街さ」

そう言うと、おじさんはピタリと歩みを止める。

「この辺かなァ……」

そう聞こえたかと思うと、突然足元がスーッと下がっていく。

ルーカスは思わずおじさんの腕にしがみつく。

しかし、おじさんの方はハハッと軽く笑い飛ばして、「絶対に落ちないから安心しろ」と彼の肩を抱き寄せるのだった。

それでもルーカスの心臓はドクドクと音を立てていた。彼は息をするのも忘れて、ゆっくりと地面に降りていく足元に、警戒を注いでいる。

しばらくして、ようやく足が地面に着地した。

「お疲れさん」

おじさんはそう言うと、腕に抱いていたパーラをそっと地面に降ろしてやる。

三人が着地したのは、薄暗い通りだった。

辺りには嗅ぎなれないエスニックな香りと、脂っぽい下水の匂いが混じった、何とも言えない空気が漂っていた。

通りに沿って、古びた建物がずらりと並んでいるが、その建物からは、下品な笑い声と話し声が漏れている。

それは、ルーカスとパーラの住む、あの貧民街を思わせた。

「なんだよ、ここは……」

ルーカスはおじさんを睨みつける。

「どういうつもりだ?」

しかし、おじさんの方はなんの気も無い様子でルーカスを見下ろしている。

「どういうつもりも何も、ここが俺の町だよ」

そう言うと、彼は勝手にスタスタと歩き出してしまった。

ルーカスはパーラの手を握って、慌ててその後を着いていく。

「なんだ、ここ……」

通りは薄汚れた白いレンガで舗装されているが、レンガはマチマチに飛び出たり割れたりしていて、とてもじゃないが歩きずらい。

空気もどこかざわついていて、ルーカスの心もそれに合わせて妙にソワソワしてしまう。

「なァ、おめェら」

おじさんは、もやしのような体を曲げて、ルーカスとパーラの位置まで顔を下げた。

「明日、一箇所だけおめェらの行きたい所に連れて行ってやるよ」

彼はニッとはにかむ。

ルーカスとパーラは戸惑いながら顔を見合わせた。

「ま、考えといてくれよ」

そう言うと、おじさんは屈んだ姿勢から元の姿勢に戻り、踵を返して歩き出す。

「今すぐ連れて行ってやりてェ気持ちも山々なんだが、ちと腹ごしらえが必要でなァ〜」

その言葉を聞いて、お腹がひとりでにぐぅ〜っと音を立ててしまう。

「お、ボウズも腹減ってんのか?」

おじさんのタレ目が、チラリとルーカスを振り返る。

「ああ、少しだけどな」

本当は、どれだけでも食べられそうなくらい空腹だった。

しかし、その事を馬鹿正直に言うのもなんだか間抜けな気がする。

「お腹空いた!」

ふと横を見ると、パーラがおじさんに向かって目を輝かせている。

さっきまで言葉を発していなかったので、パーラもこの町を警戒しているのかと思っていたが、そうではなかったようだ。

彼女の青い瞳は、このざわついた空気を興味津々といった様子で受け入れていた。

何故か、自分の手を握るパーラの力がいつもより弱いのが気になった。

心做しか、彼女が自分よりも半歩前を歩いているように見える。

「お嬢ちゃんもか…!ハッハ!ならちょうどいい」

おじさんは目尻によりたくさんのシワを刻んで笑う。

「行きつけの店があんだ。そこで何か食おうぜ」

ルーカスは乗り気がしなかったが、どこかパーラが楽しそうにしているので、自分も後を着いていくことにした。

しばらく歩いていくと、十字窓が二つついた、小さなバーに到着する。

壁の木材は古く、色ムラの激しい、あせたペンキの外壁が目立つ。

暗い紫の壁に、どぎついピンクや青緑のスプレーで、意味不明な落書きがされている。

ドアには廃材を打ち合せたような小さな看板がかかっていて、黒いマジックのようなもので、文字のようなものが書いてある。恐らく「OPEN」と書かれているのだろう。

ルーカスが少しだけ顔をしかめて店を見ていると、おじさんは慣れた様子でドアを開ける。

カラカラとまばらな音がして、溶けていった。

店に入ると、奥のカウンターが一番に目についた。その向こうには、グラスやボトルがずらりと並んでいて、オレンジ色の照明を受けてツヤツヤして見える。

意外にも、店の中は快適そうだが、客はまだ1人もいない。微かにラジオの音と機械音が聞こえるだけだ。

「マリィ!!」

突然、おじさんが奥の方に向かって声を張り上げる。

しかし、店は僅かな音以外何も無く、沈黙の中に三人は突っ立ったままだ。

しばらく待っていると、不意に店の奥から聞こえていたラジオの音がピタリと鳴り止む。

「あぁ、あんたかい?」

奥から現れたのは、背の高い女性だった。

年齢は50か60代に見えるが、スラリと長く伸びた足と、赤いドレスにくびれた腰が妖艶だ。

「腹減ったんだよ、なんかいいのあるか?」

おじさんがカウンターに腰掛けるのに続いて、ルーカスとパーラもビロードの丸い座面によじ登る。

「あら」

女性のウェーブした長い茶髪が、ふわっと揺れる。

「何よこの子達。もしかしてあんた……隠し子?」

女性は大きな輪っかのイヤリングと、鳶の羽のような切れ長の目をキラリと光らせて、兄妹とおじさんを交互に見る。

「ちげェよ。こいつらは人間さ」

おじさんが手をブラブラ振って否定すると、女性はアハッと短く笑う。

「なによ〜?ついに人攫いでも始めたってわけ?」

女性はからかうようにケラケラと笑う。

「おい、言いがかりはやめてくれよなァ?俺はただ、つまんなそうにしている坊っちゃん嬢ちゃんを楽しませに連れてきてやっただけなのにさ」

おじさんは冗談か本気か分からない口調でペラペラと話す。

女性は相変わらずクスクス笑っては、「そういうことにしとくよ」と、おじさんの言葉を受け流しているようだ。

「それでまぁ、腹ごしらえと……今日の寝床を探してんだよ」

寝床と聞いて、ルーカスは内心ハッとする。

星の国の空は明るい黄色をしているから、てっきり昼間かと思っていたけど、どうやら今は夜らしい。

「今日は銀曜日だから、 ポルトーんとこがやってるだろうね」

女性は話しながら、グラスにお冷を注いで渡してくれる。

「あー……そこだけだったか?」

「まあ、あたしの知る限りではそこだけだね」

ルーカスは注意深く二人の会話を聞きながら、おじさんに続いてお冷を飲む。

ひんやりとした水が、身体に広がって気持ちいい。

「まじかァ……俺、あいつにまだ金返してなくてさァ。ちょっときまじィんだよなァ〜……」

マリィと呼ばれたその女性は、呆れたように片眉を上げる。

「んなこたあたしは知らないよ。借りた金はさっさと返すもんだろ」

おじさんは、ちぇーっと下唇を突き出していじける。なんだか幼い少年のようだ。

「それより、なんか食べる?今ちょうど、チーズが届いたんだ」

マリィはカウンターに肘をついて、チラっとルーカスとパーラを見る。

「子猫ちゃんたちのためなら、今日は割り引いてもいいけど。どうする?」

マリィの目が、いたずらっぽく笑う。

「全く……ずる賢い女だよ。まァ……いいか。じゃあチーズディプチャーを、こいつらに」

「ふふっ、毎度〜」

マリィが店の奥に消えていくと、おじさんはこちらに視線を寄越す。

「そういや、なんでおめェらは散歩してたんだ?しかもお前たちのところはあんなに真っ暗な夜じゃんか」

彼の赤い目が興味ありげにこちらを覗いている。

「別に、ただ妹が……パーラが眠れないって言うから、外の空気を一緒に吸ってただけだよ」

ルーカスが、お冷の入ったグラスをクルクル回しながら言うと、おじさんはへェ、と声を漏らした。

「お嬢ちゃんの名前はパーラっていうのか」

「そうだよ!パーラ!」

パーラはもう既におじさんに心を開いているのか、無邪気に自分の名前を教えている。

おじさんはその様子を見て、優しく笑う。

「ボウズはなんて名前なんだ?」

ルーカスは一瞬たじろぐ。自分の名前をよく分からないおじさんに教えていいものだろうか。

しかしここで教えないというのも、違っている気がする。

少し躊躇ったあと、彼は口を開いた。

「俺はルーカス」

するとおじさんはまた優しく笑って、「そうかルーカスか」と頷く。

「おじさんは?」

パーラがそう尋ねると、おじさんは「あー」と何か考え込むような声を出して視線を外す。

「オジサンは……オジサンさ」

すると、パーラは白い頬を餅みたいに膨らませて言った。

「なにそれ!答えになってないよー!」

不満気な妹に、彼は曖昧な笑みを浮かべる。

「ごめんな〜、オジサンはちょっと自分の名前をなんて名乗ればいいか、まだよく分かってなくてさァ」

そういうおじさんは、どこか遠くを見るような目をしていた。

「お待たせ〜」

その時ちょうど、カウンターの奥からマリィが出てくる。手には何やら奇怪な道具を持っていた。

「おォ……思ってた以上のデカさだな、こいつァ!」

その機械は、上から順に小、中、大の山が重なったような形をしていて、それが深い鍋の中に取り付けられている。

スイッチを入れると、山がゆっくりと回転し始める。

「これ何!?」

パーラがマリィに尋ねると、マリィはにっこりと笑う。

「これはね、チーズディプチャーには必須のアイテムなんだよ、お嬢ちゃん。上からチーズを流してやると……」

一度言葉を切って、マリィは大きなボウルをもって、山にかけるようにチーズを流し込む。

すると、山から鍋へとチーズが伝い、また山のてっぺんからチーズがむくむくと湧いてくる。

「ほら、面白いだろ?」

マリィがそう言うと、パーラは身を乗り出してその様子を見つめる。

「わぁあ……不思議だね……!」

ルーカスも、その機械がチーズを溢れさせる無限ループを興味津々に見つめる。

そうしているうちに、いつの間にかカウンターにはパンやソーセージ、ニンジンやじゃがいもなどが並ぶ。

「ここに、好きなのを浸して食べんのさ」

2人の目はチーズディプチャーに釘付けだ。

「食べていいのか……?」

ルーカスはおじさんとマリィをきょろきょろと見上げる。

「いいぜ〜、好きに食えよ」

おじさんは頬ずえをカウンターについて、二人を見つめながらふっと微笑む。

微笑んでいるのはマリィも同じだった。

ルーカスは、胸の中に、変な温度が広がっていくのを感じた。

こんなの、知らない。

横でパーラがソーセージを浸して食べているのを見て、ルーカスもフォークでじゃがいもを刺し、チーズに浸す。

「美味しい……」

ルーカスは夢中で食べ始める。

二人の小さな子供が目を輝かせてチーズディプチャーを頬張るのを、二人の大人はそっと見守る。

彼らは何も言わずに目を見合せて、得意げに笑みをかわし合った。



しばらくして、気づいたらチーズディプチャーの鍋が底を尽きていた。

「おめェら……よく食うな……」

おじさんは、ルーカスたちが最後まで食べ切るとは思っていなかったらしく、大きく目を見開いている。

「お腹減ってたから」

ルーカスが事もなげにそう言うと、マリィは嬉しそうな歓声を上げ、手を胸の前で組む。

 「なかなかガッツあんじゃないの、坊や」

 あまり褒められたことがないので、ルーカスは口をもごもごして俯いてしまう。頬が熱くなるのが感じられて、なんだか一層気恥ずかしくなってくる。

 「ハハッ!なんだルーカス、おめェまた照れてんのか?」

 ルーカスは真っ赤になった顔でおじさんを睨みつける。

 やはりおじさんはへらへら笑って、ルーカスよりも高い位置から見下ろしてくる。

 ルーカスは余裕そうなおじさんが憎らしい。

 しかし、ほかの大人とは違って、なんだか憎み切れない。でもそれ自体を憎たらしくも思う。

 「うるさい……いいからもう」

 カウンターには、空になったチーズディプチャーの鍋と、具材が乗っていた皿、おじさんの前には木製のサラダボールのようなものが空になっている。ルーカスとパーラが料理に夢中になっていたときに、おじさんも別の料理を注文していたらしい。

 「ありがとね。またおいでよ」 

 店を後にすると、相変わらず黄色い空が広がっていた。

 腹を満たしたこともあり、ルーカスは穏やかな気分になっている。

 「さっきマリィとも話してた通り、今からポルトーの野郎がやってる宿屋に向かうぞ」

 おじさんは歩き出す。ルーカスは眠そうにしているパーラの手を取ってそっと引く。

 「眠いか?」

 パーラは目をごしごしこすりながら頷いた。

 ルーカスは妹を負ぶって、おじさんについていく。

 しばらく薄汚れた通りを行き、狭い路地を曲がると、壁にツタがのぼる古いビルがある。

 「ここだ。入るぞ」

 おじさんの後に続いて、ガタガタいう自動ドアをくぐると、モノクロのロビーが広がっていた。

 「おや、こんばん───」

 白いフロントに立っていたちょび髭の男性は、おじさんを見るや否や、そのギョロっとした目をさらにギョロリと見開いた。

 「君!!」

 彼が恐らくポルトーなのだろう。ピッチリとなでつけた七三の額に筋を立てて赤くなる。

 「よくやって来たね!ああ本当によくやって来たものだよ!これが歓迎の言葉ではないことはお分かりだろうね?この、ホラ吹きのボンボンが!今度こそ逃がしやしないぞ……!」

 前のめりに喚きたてるポルトーとは反対に、おじさんは体を後ろに反らす。

 「もうボンボンじゃねェよ。金なら今払うから勘弁してくれよ、なァ?」

おじさんが苦笑い死ながら財布を取り出すと、ポルトーは不服そうに口をへの字にして、引き下がる。

「ほらよ。確か50だったよな?」

そう言うと、おじさんは紙幣のようなものをポルトーに渡す。

ポルトーは疑わしげにおじさんを見てから紙幣を数えだしたが、数えていくにつれ、眉間のシワが薄くなっていく。

「……ふん、一応あるね。いいよ」

ポルトーはチョッキのポケットにしまう。

「今晩一部屋借りたいんだが……」

おじさんが、ルーカスとパーラを見やってから、ポルトーに向き直ると、彼は訝しげに二人を見つつ、パソコンに向かって空き部屋を調べた。

「いくつかあるけど……じゃあ805にしなよ」

おじさんは、805号室の鍵を受け取って、短くお礼を言うと、エレベーターに向かって歩き出す。

ルーカスは例のごとく、黙って着いていく。

ホテルは背が高く、やはり内装は白黒写真のような配色だ。

8階につき、部屋に入ると、ベッドが2つと、その間に窓がひとつある。

おじさんは部屋に入り、カーテンを閉めると、直ぐに片方のベッドに倒れ込んだ。

「ふいぃ〜疲れたなァ」

ルーカスはもう片方のベッドにパーラを寝かせ、自分はおじさんに向かって腰を下ろす。

「あの」

ルーカスが口を開くと、おじさんは起き上がった。

「なんだ、ルーカス」

ルーカスはおじさんの赤い目をじっと見つめて、一呼吸置いた。それから慎重に尋ねる。

「……おじさんは何者?」

彼の赤い瞳が、僅かに揺らいだ。

「俺たちは……ただの貧乏な子供だよ」

ルーカスは後ろを振り返る。

そこには、妹のパーラが小さな寝息を立てていた。

彼はパーラの金色の紙をそっと撫でてから、再びおじさんに向かう。

「おじさんは何者?そして……この街は何」

しばらくおじさんは目を伏せて黙っていた。

しかし、ルーカスが根気強く言葉を待つので、観念したかのように、「やれやれ参ったな」と話しだす。

「オジサンのことなんかどうだっていいだろ?ただの……ほら、ダメな大人さ」

困ったように眉を下げて、頭を搔く。

ルーカスはその答えを気に入っていない。

じっとおじさんを見つめ続ける。

「あぁ…その……はぁ」

しばらく決まりが悪そうに言葉を探していたおじさんは、軽くため息をついてから目を閉じる。

「オジサンは……本当は偉い人だったんだよ」

彼の目がゆっくり開く。また遠くを見つめるような、悲しげな目だった。

「人間の世界と同じでさ、星の国にも偉い人ってのがいんだよな。オジサンは……その偉い人の息子なんだ」

ルーカスは黙ってオジサンの話を聞く。

彼がぽつぽつと呟く言葉は、対話というより独白に近かった。

「だけどな、オジサンは家の考え方がやだったんだよなァ……勉強も頑張ったし、父上や母上には迷惑かけたし……身勝手かもしれないけどさ。やっぱり従いきれなくて」

おじさんは顔を上げて、自嘲気味に笑った。

「流石後継者だなとか、いい人だなとか、みんないうけど……結局俺が家を出るってなったら、みんな離れてくんだよな。親戚のガキ共も、小さい頃は『オジサマオジサマ〜』なんて抱きついてきたのによォ……やっぱ変わっちまうもんだな」

おじさんは寂しそうだった。

背が高くて、のらりくらりしてるおじさんが、今はとても小さく見える。

おじさんは、きっと失ったものが大きかったんだな。

ルーカスはパーラを振り返る。

彼女は金の髪を白い枕に垂れ、その大きな両目を閉じて眠っていた。

パーラも、変わってしまうのだろうか。

不意にそんなことが頭をよぎる。

部屋が、冷たい水底のように、暗く沈む。

ルーカスは妹の手に触れようと手を伸ばした。

伸ばした自分の手は……パーラとは似ても似つかない。

痩せて、薄汚れた色をしている。

ルーカスは、伸ばしかけた手を静かに下ろした。

「たださ、悪いことばっかでもないんだよなァ」

「え?」

ルーカスはキョトンとしておじさんを振り返る。

彼はにっこりと、幸せそうに笑っていた。

どうして笑っているのか分からずに戸惑うルーカスだったが、おじさんはそれを眺めながら続ける。

「俺は幸せになりたかった。だから、自分の信じる道を選んだんだ。周りからしたら、俺は落ちこぼれかもしれない。失敗作なのかもしれない。だけどな、誰かにとっての『成功者』じゃなきゃ幸せになれないなんて、そんなの全部嘘っぱちなんだぜ」

おじさんのワインレッドの瞳が、ガーネットの原石のように、奥の方で煌めいた。

「例え父上……オヤジやオフクロ、その他の大人たちやガキどもにとって、俺が『間違えた奴』だったとしても、俺は今ものすっっごく幸せだ。マリィんとこではうめぇ酒が飲めるし、ポルトーともなんやかんやで馬鹿やってる。他のダサイ連中ともウマが合う。金がなくても、名誉がなくても、俺たちはこの街で泣き笑いしてんだ。自分の道を信じた結果、失ったものも沢山ある。それを思い出すと、やっぱブルーになっちまうしな。だけど……俺にとって、家を出るっていう選択をしたことは、誰がなんと言おうと『正解』でしかないんだよなァ」

そう言うと、おじさんは鼻をすすって「へへっ」と笑う。

「なんか熱くなっちまったな!悪ィ悪ィ!」

ルーカスは呆気に取られておじさんを見ていた。

なんでこの人は───こんなに輝いているのだろう。

おじさんは、ゴロンっとベッドに寝転がった。

「だからではないけどさ?ルーカスが何か目指すもんがあるってんなら、俺はいつでもここから……星の国の、七夕通りから応援するぜ。ま!叶うかどうかは、お前の努力次第だけどな!ハハッ!」

ルーカスはしばらくぼんやりとおじさんを見つめていたが、いつしかふっと口角を緩めていた。

「おじさん」

ルーカスの声が、優しい暗闇に沁みていく。

「俺とパーラが、あんたのことを『オジサマ』って呼んでやろうか?」

ルーカスはクスクス笑う。

おじさんは、ルーカスを驚いた顔で見ていた。

しかし直ぐにルーカスと同じ調子で返す。

「冷やかしかァ〜?全く。ガキはいっつも大人を弄ぶんだから……はァ、困っちまうぜ」

おじさんは嬉しそうに笑いながら目を閉じた。

ルーカスも、パーラが眠る隣に横になって目を閉じる。

「……おやすみ、オジサマ」

おじさん───いや、オジサマは、フンッと鼻を鳴らしてから言う。

「はいはい。早く寝ろよ、ルーカス」

少しも経たないうちに、部屋には三人の穏やかな寝息が満ちたのだった。



「おーい、起きろー」

声がする。

これはオジサマの声だ。

「起きろールーカスー、もう朝だぞー」

身体が揺さぶられる。

「う、んん……」

重い瞼を押し上げると、見慣れない天井がある。

「まァだ寝ぼけてんのかー?いい加減起きろってー」

目を横に向けると、ベッドサイドにオジサマがしゃがんでこちらを見ていた。

「もう朝……?」

ルーカスは大きく伸びをする。

「もう朝だよ!」

突然、元気な声がしたかと思うと、オジサマの隣にパーラがぴょこっと飛び出した。

「パーラ……早いな……」

ルーカスはベッドから起き上がり、あくびをする。

「今日はオジサマが好きなところに連れていってくれるんだって!」

パーラはルーカスの服の裾をグイグイ引っ張って小さく飛び跳ねる。

「ただし一箇所だけだぞ〜?」

オジサマはルーカスとパーラの頭を撫でた。

「なんで一箇所だけなんだよ?」

ルーカスが顔をしかめて尋ねると、オジサマはハハッと笑う。

「そりゃァ子供は早く家に帰んないとだからな!」

オジサマは頭を撫でる手を止めて、優しい顔で二人を見下ろす。

「おめェらにはおめェらの、相応しい場所があるんだろうからよ」

パーラもふふっと笑って頷く。

「帰り道、忘れちゃ怖いもんね?オジサマ」

妹の言葉を聞いて、ルーカスはあれ、と思う。

「あれ、パーラも『オジサマ』って……」

ルーカスが不思議そうにパーラに尋ねようとすると、パーラとオジサマは目を合わせて、クスッと笑う。

「おい……なんだよ」

ルーカスがブスッとするのを見て、二人は一層可笑しそうに笑う。

「あははっ!お兄ちゃんブウブウしてる!」

パーラの白い指が、ルーカスの頬をツンツンとつつく。

ルーカスの方は、ブスッとした顔のままつつかれていた。

「私もオジサマって呼ぶの!」

恐らく、オジサマから「ルーカスが俺の事をオジサマって呼ぶんだよォ〜」と聞いたのだろう。

「そうかそうか、分かったからプスプスはやめろ」

ルーカスはパーラの手を掴んで止めさせる。

「おいおいおめェらよォ、結局どこに行きたいんだよ?」

二人の会話をきいていたオジサマは、ホテルの椅子の背もたれに顎を乗せて、脚をブラブラしながら尋ねる。

「パーラはどこ行きたい?」

ルーカスが尋ねると、パーラーは首を横に振る。

「お兄ちゃん、いつも私の事ばっかり。もっと自分の気持ちを大事にして……ね?」

彼女はルーカスをまっすぐに見つめた。

「兄ちゃんが、決めていいのか……?」

パーラは、当たり前だと言わんばかりに力強く頷く。

「じゃあ……じゃあ、海に行きたい」

ルーカスが答えると、オジサマは椅子から立ち上がった。

「ようし、じゃあとっておきの海に連れてってやるよ」

三人はホテルをチェックアウトして、外に出た。

チェックアウトの時に、ポルトーは少し笑顔を見せていた。彼の中でも問題は解決したらしい。

「じゃ、行くぞ」

オジサマは、右手にルーカスの、左手にパーラの手をそれぞれ握って空中に浮き始める。

「わぁああ!浮いてる!!」

パーラは初めての空中散歩にはしゃぐ。

「あぁ、こらこら、あんま暴れるなよ。間違えて落っことしちまうかもしんないし?」

パーラは怖くなったのか、体を固くしている。

「大丈夫だよ、パーラ。普通に歩いてる分には問題ないから。そうだろ、オジサマ?」

ルーカスが少し睨むと、オジサマはギクッとする。

「い、いやァ、相変わらず手厳しいねェ……」

オジサマは掌に少しだけ汗をかいている。

「ま!でも俺の魔力をあなどんなよなァ?さ、三人くらい余裕だっつうのっ!」

……なんとなく信用ならない。

空中に浮かび上がってからしばらくの間、オジサマは力加減を間違えないように慎重に歩いていた。

しかし、やはり元王子なだけある。彼は直ぐに力のコントロールに慣れて、普段通りの足取りで歩き始めた。

朝の空は白く、雲の近くにある「エネルギー補給所」もまだ稼働していない様子見である。

かなり高くまで上がったのに、どこまでもビル群が続いて見える。

「ねぇねぇオジサマ。とっておきの海ってどんなの?」

歩きながらパーラが尋ねると、オジサマはくつくつ笑った。

「ま、行ってからのお楽しみさ」

しばらくして、ようやく地平線からビルが消える。

街のゾーンを抜けると、森や川、農園などの自然豊かな場所に来た。

パーラも興味津々で下方に広がる金色の自然を見つめる。

星の国は不思議だ。

森の葉っぱや草が、全部金色で、時々光って見える。

「綺麗だな……」

「キラキラ……」

ルーカスとパーラが口々に言うと、おじさんは少し呆れた声で言う。

「おめェら、下ばっか見ててよく飽きねェよな〜」

オジサマの声を聞きながら、ルーカスは思う。

オジサマは、この美しい風景を見慣れているのだろうか。こんな綺麗な景色を当たり前に思えるって……

突然、ルーカスはオジサマが羨ましくなった。

「飽きない」

ルーカスは呟いた。

「ハハッ、そうかい?」

オジサマは、彼の気持ちを察してか、柔らかな声でそう言った。

「俺はお前らんとこの方が綺麗だと思うぞ」

ふと見ると、オジサマは少し肩をすくめている。

「お前らの所は……色んな色で溢れてる。ま、良くも悪くもだがなァ」

ルーカスは、オジサマの含みのある言い方に少し引っ掛かりを感じるが、どうしてかはよく分からない。

「ほら、お前らが下ばっか見てる間に着いたぞ」

前を見ると、そこには海が広がっていた。

しかしそれは……別に綺麗でもない。

呆然としているうちに、足元がゆっくりと下降して、地面に着地した。

「……」

ルーカスはてっきり、とっておきの海ということは、ターコイズブルーの透き通った海を見せてくれるのかと期待していた。

しかし今目の前にあるのは───

「ほら、とっておきの海だよ」

ルーカスとパーラはきょろきょろと見渡す。

「……あのさ、オジサマ」

「ん?」

オジサマは、ドヤ顔を浮かべている。

「どこがとっておきなの?」

オジサマは、うーん、と唸った。

「ま、星の国は海が少ないんだよ。お前らんとこ…チキュウ?は海だらけだけど」

ルーカスは、目の前の、「ごく普通」の海を眺めてため息をつく。

なんだ。

普通の海じゃないか。

期待外れの光景に、ルーカスは苛立ちを増す。

「なんでだよ。せっかく一箇所だけだっていうのに、なんでこんな普通のところに───」

いいかけた時、指先がそっと柔らかいもので包まれる。

「お兄ちゃん」

振り返ると、悲しげな顔をしたパーラが立っていた。

「お兄ちゃん、なんで怒ってるの?」

怒ってる……?

ルーカスの心臓がドキンと音を立てた。

「いや、怒ってなんか……」

「私はね、お兄ちゃん」

ルーカスがいい切る前に、パーラは静かに言葉を被せる。

「私は、お兄ちゃんとオジサマと……海にこられてよかった」

ルーカスの胸がじくりと痛む。

「それは……兄ちゃんも同じだよ。だけど……」

ルーカスが言葉を濁すと、パーラはオジサマを見上げる。

「オジサマ」

オジサマは、パーラを見下ろして、満足気に微笑んでいる。

ルーカスにはその意味が分からない。

ひとりで戸惑っていると、パーラはオジサマに向かって言う。

「オジサマは、伝えたいことがあって、ここに連れてきたんでしょ?」

伝えたいこと……?

ルーカスが混乱を深めるのに対し、オジサマはゆっくりと頷いて言う。

「あぁそうだ」

オジサマは、ルーカスに近づいてくる。

「ルーカス。海に行きたいと言ったのはおめェだったけどよ……どうして海に行きたいと思ったんだ?」

その言葉を聞いて、ルーカスはドキリと心臓が落ちるのを聞く。

「どうしてって……そんなの、見てみたかったからだよ」

すると、オジサマは続ける。

「なんで見てみたかったんだ?」

「それは……」

ルーカスは俯く。

「海は美しい場所だと、教えてくれた人がいたから」

波が寄せては返す音が聞こえる。

潮風が、ルーカスの青白い頬を撫でた。

「なのに、なんだよ。いつも行ってる湖と、たいして変わらないじゃないか……」

やっぱり、これも嘘だったんだ。

ルーカスの胸に、自然と色々な言葉が浮かぶ。

星が願いを叶えてくれるなんて嘘。夢や希望があるだなんて嘘。海が美しいだなんて……嘘。

「結局全部嘘じゃないか」

ルーカスは、オジサマの顔も、パーラの顔も見られなかった。

自分がわがままを言っているような気がして、情けなくて。

「なァ、ルーカス」

頭にポスンと手が乗せられる。

「世の中嘘だらけだよ」

オジサマの声が、低く響いて、ゴトリと胸の底に沈殿した。

「嘘ばっかり。誰も信用なんねェ。綺麗事ばっかりで中身なんかひとつもねェんだ」

彼の骨ばった長い指が、そっとルーカスの頬を撫でる。

「だけどな、ルーカス」

オジサマは、ルーカスの顎をそっと掴んで顔を上げさせる。

「お前がしたいと思う気持ち。やりたいこと、求めることって、本物じゃねェのか?」

オジサマは、赤い目でルーカスの目をのぞき込む。

「お前が見たかった海は、星の国にはない」

遠くでカモメのような鳴き声が聞こえた。

オジサマの声は続く。

「だけど、お前の世界にはあるだろう。チキュウには……お前の求めてるものがある」

ルーカスの、灰色の目が大きく見開かれる。彼は目の前の男を見上げた。

「お兄ちゃん」

オジサマの後ろから、パーラがにっこりと微笑んで出てくる。

「お兄ちゃんはどんな海がみたい?」

俺が見たいのは───

ルーカスは、目の前の海を見つめる。

なんのことはない、ただの水の塊。

だけどこの一瞬が、何故か瞼に焼き付くようだった。

「お兄ちゃんが見たい海を見るには……帰らないとね」

そうか……

俺は、したいことがあるはずだったんだ。

そう思った次の瞬間、ルーカスは妹を抱きしめた。

「帰ろう」

パーラは、ルーカスをそっと抱きしめ返す。

「うん、帰ろう」

ルーカスは、妹を離さなかった。



「さァ、着いたぞ」

星の国から降りてきて、あっという間に元の世界───地球に戻ってきた。

「あーあ、なんだかんだ、お前らと離れんのも寂しーねェ……」

オジサマは嘘泣きをする。

「本当かよ、それ」

ルーカスは呆れながらオジサマを見る。

「ほんとだって!!オジサマ泣いちゃうぜ?年甲斐もなく咽び泣くぜ?」

そんなオジサマを見て、パーラはクスクス笑う。

「泣かないでよ、オジサマ?それに、また会えるかもしれないでしょ?」

パーラはいたずらっぽくニッと笑う。

「オジサマ」

ルーカスは、少しだけ笑う。

短い時間だったのに、何故かずっと長い間旅をしていたような気がする。

「ありがとな」

ルーカスの灰色の目は、夕陽を浴びて、光を映していた。

「いいってことよ」

そう言うと、オジサマはふわっと浮かび上がる。

「いい顔するようになったな、ルーカス。それに……」

彼はルーカスの隣に立つ、小さな少女を見つめる。

「ふっ……お前、妹には感謝しろよ」

ルーカスはキョトンとした顔でオジサマを見上げる。

「え?」

パーラを見ると、彼女はどこか得意気に胸を張っていた。

「じゃァな!また会おうぜ、お前ら」

そう言うと、オジサマは高く飛び上がって行った。

遅れて、風が巻き起こり、二人は顔の前を腕で覆う。

少しして、風が止んだ。

空を見上げても、もうそこにオジサマはいなかった。

「帰ろっか」

パーラがルーカスの手をギュッと握って歩きだす。

「あ……待てよ」

辺りは赤い夕暮れの光に包まれていた。

その光は、二人小さな背中の影を、以前よりも大きく映し出しているのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

星のオジサマ 七ノ瀬 弥生 @Shichinose0307

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ