第6話 スタイルブック編集部の折木 誉一

 工房の北棟にある編集室は、まるで夕立のあとの空気のように澄んでいた。


 余計な匂いがない。

 紙の乾ききった香りに、ランプの熱がわずかに混じるだけ。


 この部屋の主である折木 誉一は、その静謐さを何よりも大切にしている。


 彼はいつものように机に向かい、整然と並べられたスタイルブックの束を一つずつ確認していた。


 何度も読み返され、付箋で彩られた資料群――どれも、物語の“声”を守るために通り抜けてきた戦場だった。


 黒髪を短く切り揃え、薄い縁の眼鏡をかけた顔は非常に整っているのに、どこか疲れを帯びている。


 いや、疲労ではない。


“注意深さそのもの”が折木の顔に定着した結果だった。


 机の上に置かれた赤いペンを指先で軽く叩く。


 彼なりの『仕事開始』の合図だ。


「……さて。今日も一つ、文体の骨を確かめるか」


 低く呟いた瞬間、廊下の方であの軽い足音が響いた。


 工房内では誰もが知る――ソウの駆け足だ。


 そして案の定、勢いよく扉が開く。


「オリキのおじさーん! 今日ね、めっちゃワクワクするアイデアが――」


「おじさんではない。“主任”だ。まずそこから直しなさい」


 折木はため息をつきながらも、手を止めない。


 紙束を整え、まるで埃一つ許さないように寸分の狂いなく並べる。


「で、今日は何を持ってきたんだ?」


「これこれ! ヒーローの口癖、考えてほしくて!」


 ソウが紙を差し出す。


 折木はそれを受け取り、ざっと斜めに読む。


 その瞬間、眉がぴくりと動いた。


「……このセリフ。テンポが悪い。読者がつまずく。

それにキャラの性格と合っていない。

“強がる”タイプはこういう言い回しはしない」


「えっ!? でもカッコよくない?」


「カッコよさと“声”の一致は別問題だ。

キャラの言葉は、心臓が鳴らすリズムと同じだ。

聞こえるかどうかが問題なんだよ、ソウ」


 少年はぽかんとした。


「心臓の……リズム?」


「そう。キャラクターには“脈拍”がある。

 それを乱さず、作品全体の呼吸と合わせていくのが、この部門の仕事だ」


 折木は赤ペンを走らせ、数箇所を一気に整える。

 その線の修正は、まるで音楽の譜面を書き直すようだった。


「はい、これ。

 この言い回しなら、キャラの痛みと強がりが両立する」


「……すげえ……! なんで分かるの?」


「分かるんじゃない。聞こえるんだ。

文体の乱れは、ノイズみたいに耳に障るからね」


 ソウは感嘆の声を漏らし、勢いよく駆け出していった。


 静寂が戻る。


 折木は眼鏡の位置を直し、深く息を吐いた。


「……まったく。若い連中は奔放すぎる。

 だが、あいつの火花は悪くない」


 と、今度は静かなノック音。


 入ってきたのは企画部のサトリだった。


 涼やかな目元と、整った書類を抱えている姿が絵になる。


「折木さん。

 今回の作品、スタイルの方向性は見えました?」


「ええ。あなたの“箱”がしっかりしていたのでね。

 あとは文体の呼吸を整えれば、強固な作品になります」


「呼吸、ね。あなたらしい表現だわ」


サトリは微笑み、書類を手渡す。


「読者層は広め。テンポは中速。

 でも余韻を重視してほしい、というのが企画部の意向です」


「了解しました。

 では句読点の密度は少し落として、行間に感情を置くスタイルで――」


 折木はすぐにペンを取り、スタイルブックの試作ページを書き始めた。


 その姿を見て、サトリはどこか安心したように息をつく。


「やっぱりあなたに任せると、物語が“整う”わね」


「整理整頓は得意でしてね。文体の乱れも、机の乱れと同じです」


「ふふ、あなたらしい」


 サトリが去った後、次に現れたのは世界観設計部のレイナ。


「折木、これが新しい世界の文化設定。語彙の参考にして」


「助かります。

 あなたの資料は情報が正確だ。

 文体辞典に組み込むには最良の素材ですよ」


 レイナは少し微笑む。


「あなたの文章は、紙の上に“空気”を作るわね」


「世界観が呼吸していなければ、物語は死にますから」


 その言葉を聞き、レイナは静かにうなずいて去っていった。


 また静寂。


 折木はひとり机に向かい、ランプの光の下で赤ペンを走らせ続けた。


 外からの喧騒はほとんど届かない。


 ここは、世界の声を整えるためだけに存在する部屋だ。


「……さて。今日の作品も、そろそろ“声”が揃ってきたな」


 資料を閉じ、スタイルブックの最終ページに軽く手を当てる。


「文体が整えば、あとは物語が勝手に歩き出す。

 それがいい作品というものだ」


 疲れを感じさせる目元に、ふっと柔らかな光が宿る。


 折木 誉一は、言葉を編む者ではない。


 物語が迷わぬよう、道を照らす職人だ。


「さあ――今日も一つ、文章を整えようか」


 編集室の静かな空気の中で、赤ペンの音がリズムを刻む。


――それは、物語が生まれる前に必要な“最初の呼吸”だった。

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