第9話

 すると麗子の困惑するさまを見て、季時がくすりと笑った。

「つい今朝のことでしたが、私が左兵衛府の者たちとけんしゆんもんのあたりを巡回していましたら、突然、源少将に呼び止められましてね。そこの一番背の高い者、と」

 振り向いた季時を、久綱は上から下までじろじろ眺めまわし、ようやく私と同じ背丈の者を見つけた──と言ったのだという。

「源少将にもんの者かと問われたため、私は兵衛府だと答えました。すると源少将は私を仲間たちから離れたところへ引っぱっていき、こう言ったのです。おまえ、その顔ではどうせ結婚などしておるまい、私が良縁を譲ってやるから、私のふりをして北駒の中の君のもとへ通え、と」

「……何ですって?」

 思わず険のある声が出てしまった。

「何て失礼な……。その顔ではどうせ? どの口がそんなことを言うのです。源少将の顔など、あなたにまったく及びはしないでしょうに」

「は?」

 今度は季時が、ぽかんと口を開ける。

「いや、しかし、私がこの顔で結婚もできないのは、まぁ、事実ではありますから」

「面の優劣などしいて言いたくはありませんが、あなた、源少将よりよほどきれいですよ。わたしは源少将の顔は好みません」

 うっかり源少将の様付けをやめてしまったが、このさい構わないだろう。

「……もしかして、暗くてこの傷が見えていませんか?」

「傷?」

「私の顔には、大きな傷があるのですよ。わかりますか?──ここに」

 季時は上体を乗り出し、首をひねって麗子に顔の左半分を向けた。

「…………」

 左目の下、頰骨の出ているあたりだろうか。たしかに一寸ほど、白く線を引いたように見えるところがある。

 先ほど初めて季時の顔を見たとき、これが目に入っていなかったわけではなかった。暗くても、左目の下に何かあると、たぶん認識していたのだ。それなのに何故か、いま言われるまで、まったく気にしていなかった。

「見えていないわけではないです。傷だったのですね」

「はい。どうしても目立ちますので、源少将の言うことも的外れではなくて」

 そう言って、季時は姿勢を戻す。

「それ、痛むのですか?」

「痛みはないです。もう十年近く前の怪我ですので」

「そうですか。でも、やっぱり源少将は失礼だと思います」

 麗子が口をとがらせると、季時は少し目を細めて微笑んだ。

「……あちらは太政大臣の孫で右大臣の息子、こちらは出世頭打ちの参議の息子とあっては、命令をきくしかありません。こちらにしのんでいくにあたっては、源久綱を名乗れとも言われましたので、何とも恐ろしいことだとは思ったのですが」

 それはそうだろう。いくら命令されたとはいえ、だます相手も世間的には右京源氏と同等の権力を持っている家なのだ。

「では、こちらも身代わりでしたこと、季時様には御安心でしたわね?」

「そうですね。実はいま、とてもあんしています」

 笑ってそう言ってから、季時はすぐ真顔になった。

「しかし、あなたも災難でしたね。主家の命令では、逃げることもかなわなかったでしょう」

「いえ、知っていれば、さっさと桐壺に逃げ戻ったのですが」

 麗子は季時に、今日呼び出されて桐壺からこの家に来て、いかにして夜まで引き止められたかを説明する。

「……というわけで、やけに引き止めてくるのを、もっとあやしまなければいけなかったのですけれど」

「それは……」

 話の途中から、季時のけんにはくっきりとしわが刻まれていた。

「何ともひどい。そこはだましたりせず、せめてあるじの身代わりとなることに納得している女房を選べばいいものを。しかもじゆだいした姉君の女房をわざわざ呼びつけるなど」

「あ、それは、わたしでなければ、あとで源氏の家に言い訳ができないからなのです」

 本気で憤ってくれている様子の季時に、かえって心がなごみ、麗子は笑顔で告げる。

「わたし、母は女房でしたが、父は藤原為栄でして」

「え?」

「つまり、左府様の召人めしうどの娘なのです。立場は女房ですが、一応、桐壺の大姫様とこの家の中の君にとっては、母違いの姉妹になります」

「……全然似ていませんね」

 季時の口から真っ先に出てきた言葉がそれで、麗子はつい、声を立てて笑ってしまった。季時が大姫や乙姫、あるいは亡き麗子の母の顔を知るはずもないので、要するに、北駒の左府とはまるで似ていないと言っているわけだ。

「よくそう言われます。わたしも左府様を父だとはあまり思っていませんし、この家で娘らしい扱いもされたことはないのですが、こういうときだけは、娘として頭数に入るらしくて」

「……と言いますと」

「今日だけは、わたしが『北駒の中の君』だということです」

 言いながら、麗子は片手の指を三本立てる。

「北駒の大君といえば、桐壺の大姫様。中の君といえば、この家では乙姫と呼ばれていますが、今回の縁談の当人です。でも、わたしも娘の中に含めますと、年の順ではわたしが二番目になりますので、わたしを『中の君』と呼べてしまうのです」

 立てた三本の真ん中の指をもう片方の手で指し、麗子は皮肉めいた笑みを浮かべた。

「では、北駒の家では、初めからあなたを……」

「そのつもりで呼んだはずです」

 為栄か三位の方か、あるいは乙姫か、誰の発案か知らないが、女房全員を巻きこんで仕組んでいるのだから、思惑は一致しているのだろう。

 手を下ろし、麗子は周囲を見まわす。

「わたしは昔から、ここのきたかたや乙姫には疎まれておりますので、わたしのほうにも乙姫に、これといった情はありません。乙姫のために我が身を差し出そうなどという、殊勝な考えなどちりほども持っておりませんし、わたしが不忠で生意気な女房だと、乙姫たちも、百も承知です。だからわたしを身代わりに仕立てるためには、だましてここに留め置くしかなかったわけです」

「……そして、やって来た源少将には、あなたこそが妻となる『中の君』だと紹介するつもりだったのですね」

「ええ。もっともその紹介は、ことが成されたあとだったと思いますが」

 真っ暗な中で、互いの顔もよく見えないまま、それでもねやさえともにしてしまえば、どうにか「源少将と北駒の中の君との結婚」は成立したと、言える状況にはなってしまう。

 季時はまゆをひそめ、視線を下げた。

「……左府は、それで源相国が納得すると思っているのでしょうかね」

「相国様はたばかられたとお怒りになるかもしれませんが、左府様のほうは、右京源氏を出し抜いた自分が一枚上手だと、得意になっていると思います」

 きっと為栄はあとで久胤に、自分は中の君と久綱を結婚させると言われたので、「中の君」のもとへ久綱を案内させた、何もたばかってはいないと言い張るに違いない。

「なるほど……。しかし実際には、自分の孫も勝手をしているので、源相国としては、左府ばかりを責められないでしょうが」

「そうですね。互いに身代わりを立てていたなんて、世間に知られたら──」

 麗子はふと、言葉を切った。そして目の前の季時を、じっと見つめる。

 そうか。……そうしてしまえばいいのか。

「どうかしましたか?」

「あの、わたしも誠に勝手ながら、お願いがございます」

「何ですか?」

「今夜、その、わたしと契ったことにしていただけませんか」

「…………」

 季時は一度大きく目を見開き──少しのあいだ何か考える素振りをしたあと、麗子を見つめ返してきた。

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