第8話

 麗子はあらためて、男の姿を見た。

 暗がりでもわかる上質な直衣に、きちんとしたたたずまい。

 先ほど近づいたときに香ったたきものは、おそらく質のいい香木が使われた上等なものに違いなかった。

 どこからも品のよさがうかがえるのに、何故、こんな身代わりなどを押しつけられたのだろう。久綱も乙姫をだますことに気がとがめて、なるべくいい殿御を見繕ったのだろうか。そんな気遣いができる人物だという印象もなかったが。

「……わたし、あなたのお名前を、伺っておりませんでした」

「ああ、そうでしたね。あなたは名乗ってくださったのに、私はまだでした」

 男がすっと背筋を伸ばす。

ひようえのごんのすけ、藤原すえときといいます」

「兵衛……権佐?」

 意外だ。もっと高い官職かと思った。いや、兵衛佐とて五位の役職だ。決して低くはないし、まだ二十幾つと見えるので、年齢からしてもそのくらいなのかもしれないが。

「はい。御所の警固の役目を賜っていますが、管轄は内裏の外ですので、お目にかかったことはないかもしれません」

「そうですね。近衛府の方々は巡回でお見かけしますが」

 上背があり、きっと武官の姿は見栄えがするだろう。目にしていれば、何となくでもおぼえていたかもしれないが。

「え……と、では、兵衛佐様は……」

「季時で構いませんよ。権官の身で佐と呼んでいただくのも申し訳ないですし、堅苦しいのはやめましょう」

 男──季時が、穏やかに微笑んだ。笑うと途端に親しみやすさが出てくる。

「では、失礼して……季時様は、どちらの藤原の方でございますか」

 本人は五位の権官だとしても、このたたずまいは、それなりに格式のある家の出だと思われた。

 すると季時は、口元は笑みの形のまま、少し視線を上向かせる。

「私は──私の父は、さんの、藤原すえただといいまして」

「ああ、ま……っ、え、で、では、ろくじよう、六条宰相様のお家なのですね」

 ……危なかった。万年宰相と言ってしまうところだったわ……。

 麗子はそでぐちで顔の下半分を隠し、取り繕うようにうなずいた。だが季時は麗子に視線を戻すと、ふっと吹き出す。

「後宮においでなら、万年宰相のほうがなじみ深い呼び名でしょうに、よく六条が出てきましたね」

「……わ、わたしは、六条宰相様だと存じ上げておりますが?」

 言いかけてしまった呼び名に気づかれたとしても、身内の前でそれを認めるわけにはいかなかった。

 ──ことの始まりは、先々代のにさかのぼる。

 当時のみかどには四人の皇子と三人の皇女がいたが、第一皇子がようせつしてしまったため、つぎの皇子を第二皇子と第三皇子のどちらにするか、長年決めかねていた。

 第二皇子の生母は親王家の出身で血筋はよく、帝のちようあいも深かったが、政治的な後ろ盾が弱かった。

 第三皇子の生母は当時の大臣家、六条藤原家の姫君で、みやの誕生から一年遅れて第三皇子を産んでいた。

 帝は順番どおり第二皇子を東宮にしたいと望んでおり、同調する臣下も少なくなかったが、結局は政治権力がものを言い、帝は第三皇子を東宮にせざるをえなかった。

 この東宮が十五歳で元服すると、帝は譲位した。このときに第二皇子を推していた者たちの多くが政の本流から外れる憂き目に遭い、ほどなく第二皇子も病で身まかってしまった。

 六条藤原家の盤石の後ろ盾を得て即位した次の帝は、しかし、長らく皇子に恵まれなかった。数多あまたの女御、やすどころがいながら、なかなか懐妊する者は現れず、ようやく懐妊しても出産には至らなかったり、どうにか生まれても二歳を待たずにはかなくなってしまったりと、皇子どころか皇女でさえ、無事育つことがなかった。

 世の人々は、これは呪いなのではないかと噂した。

 失意のうちに亡くなった第二皇子、その第二皇子の死に気落ちして退位後にさびしく世を去った先の帝、そして出世を阻まれた者たちのおんねんが、帝に世継ぎを作らせまいとしているのではないか──

 そうして月日が経ち、帝が御年三十五歳の折に、体調を崩して寝ついたことがあった。幸いひと月ほどで快癒したが、このとき臣下のあいだで突如わき起こったのが、帝に譲位を申し入れるべきではないかという意見だった。

 帝──かつての第三皇子が元服直後に即位したとき、次の東宮に立てられたのは、末の弟、第四皇子だった。立太子のときはまだ七歳であり、帝に皇子ができれば東宮位はすぐにもそちらへ譲られるはずだったが、帝がなかなか皇子に恵まれずにいるうち、東宮は健康に育っていた。

 そして帝がひと月病床にあったこの年、東宮はすでに二十七歳の立派な大人になっていた。そうめいで壮健、すでに東宮妃を迎え、男子も生まれており、いつ代替わりしても問題ない状況にあった。ちなみにこの東宮妃が右京源氏の出身、現在は弘徽殿の后と呼ばれている、当時右大臣だった源久胤の娘である。

 ここで再び対立が起きた。

 一方は、まだ皇子誕生に望みをつなぎたい帝と、当時の左大臣、六条藤原家を筆頭とするその側近たち。もう一方は、すでに子もある成人の現東宮にこのまま即位してほしい臣下たち──主に東宮妃の実家、右京源氏とその一派である。

 この対立は、皇子のいない帝に分が悪すぎた。帝は譲位を余儀なくされ、東宮が即位。右京源氏の東宮妃が産んだ、そのとき四歳の男子が、立太子された。

 そしてこのときもまた、帝の側近たちが失脚した。主たるは六条藤原家の家長とその息子たちだった。かつて第三皇子の後ろ盾として第二皇子を排した名門一族が、今度は排される側になってしまったのだ。

 とってかわったのは、東宮妃の実家である右京源氏の家と、その右京源氏とえんせき関係にあった北駒藤原家。

 北駒藤原家も家格は申し分なく、為栄の父、高栄は先々帝の妹であるおんなみやちやくさいに迎えてもいたが、政治的にはこれまで六条藤原家のこうじんを拝していた。それが、縁戚にある右京源氏の家が六条藤原家を排して権力の頂点に立ったおかげで、あれよあれよというまに藤原家のうじのちようじやとなり、出世していった。

 こうして権力が六条藤原家から右京源氏と北駒藤原家に移って、十三年──

 六条藤原家の長だった当時の左大臣はすでに亡くなり、その息子で現当主の季忠は、十五年前に任じられた参議の職のまま、この十三年をすごしている。

 いや、正確には十三年のあいだに、参議と兼任していたおおくらきようの職を奪われ、その後に二度ほどとうごくこくしゆを務め、都に戻ってから再び参議に任じられたものの、参議以外に何の職も兼任していない。

 そうして何年経ってもただの一度も昇進することなく参議の職にあり続ける季忠に、ついたあだ名が──

「お気遣い痛み入ります。万年宰相は、父自身、しことして使っているぐらいですので、本当に気にしないでください」

「……はぁ」

 あまりに長く同じ職にありすぎて、もはや自虐の域に達しているのかもしれない。

「ですが、ますますわかりません。わたしから見れば、参議は充分に御立派なお役目です。そんなお役目にある方の御子息に、このような身代わりをさせるなど……」

 少なくとも北駒の家は、他家の女人を身代わりにはしていない。だが久綱が身代わりにしたのは、右京源氏とは無関係の家の者だ。しかも自分の祖父が追い落とした家の。いくら何でも嫌みが過ぎるのではないか。

「ああ、それは──おそらく源少将は、私が何者なのか知らないのでしょう」

「えっ?」

「私に声をかけたのは、背格好が似ているというだけの理由だと思います。名もかれませんでしたから」

「……そんな」

 ますますわからない。素性も知らない相手に、こんな役目を担わせるとは。

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