第2話 ヒトであるために

 ──ふわ、と意識が浮上する。

「……?」

 ふわりとしているのは私の方らしい。真白で柔らかな寝台には豪奢な天蓋があしらわれ、さぞ贅沢な暮らし向きの邸だろうと察するに造作なかった。私はずんとした重みを感じる身体をゆるりと起こした。少しだけくらりと眩暈を覚える。その原因なんてものは自分でもうんざりする程判っていた。

「我ながら難儀な性格に堕ちたものだな」

 呟いて自嘲気味な笑いの衝動に駆られる。ああ本当に、我ながら厄介な事だよ。そうは思わないか? 問い掛けても応える者はない。私は胸元に指を伸ばしかけて──止める。知らぬ間にこちらも真白の夜着に着替えさせられていたらしい。絹織物の上等な品である。けれど良質な夜着等より大切な。

 素早く身の回りに目を遣る。物盗りの手に掛かる程まで落ちぶれては居ないつもりなのだがと少々狼狽えた。盗みをはたらく無頼には『同調』の容易い私が察せぬ筈はない。案の定寝台脇の卓子に私の身に着けていた物が並べられていた。窓辺からの陽射しに煌めく水晶のヴロォチに、私は手を伸ばした。このヴロォチの中には。私は黙してその多面に研磨された冷たい石に唇を寄せる。この石に封じたお前はもういない。

 かちゃ。扉が開いた。

「ああ、お目覚めになられたんですね。良かった」

 年若い娘がそこにいた。小間使いらしき衣服を纏っている様を見るとこの邸の使用人だろう。紫水晶の瞳で明るい茶色の髪をきつめに結い上げている。

「二日間お眠りでいらしたんですよ。脈も呼吸も弱くて、お医者様もご心配してらして。今お嬢様をお呼びします」

 上流階級の御令嬢か。恐らくその娘が私を拾ったのだろう。小間使い如きがこのような邸に私を連れ込める筈がない。お嬢様の興味本位か。

「ああ、礼を述べねばならないようだな。そこいらで行き倒れたに過ぎない私をこうも鄭重に迎えて頂いたのだ。非常に有難く思う」

「好奇心の塊のようなお方でいらっしゃるものですから。お気になさらずご静養頂きたいと。お話なさりたいご様子ですので、お呼びしますね」

 明るく笑んで云う小間使いは溌剌とした娘で、令嬢付き小間使いとしても年若い様子から御令嬢にとっても友人のように気安い存在なのであろう。好奇心か。私のようなものを拾って来るとはなんとまあ軽はずみな、と失笑する。所詮は有閑貴族か。

「まあ、目を覚ましたのですって?」

 ハイトーンだが柔らかな響きの愛らしい声音でそんな言葉が聞こえる。社交界披露を漸く済ませたばかりの年頃と云った処でほんの幼い娘だ。冴え冴えとした月灯りに似た明るい白金の髪をゆったりと結い、海のように青い瞳は何処か既視感に近い懐かしさを覚えた。ほっそりとした身に初夏の蒼穹を思わせる蒼い衣を纏っている。小間使いが扉を開くのも待たない勢いで令嬢は部屋へと駆け込んで来た。

「お身体は大丈夫なのかしら、お客人? 突然意識を失われたので大層驚いたのよ?」

「君が私を救ってくれたのだね。感謝しよう」

 寝台から上体を起こした姿勢のままそう告げると、令嬢は寝台の脇に据えてあった椅子に掛けてきょとんとした目で私を見返し、それから不思議そうに問うてきた。

「助けられて嬉しい、ってお顔には見えませんわね。まるで野垂れ死にでもしたかったかのよう」

「──ああ」

 私は応えた。

「そうかも知れないな。私は生きている理由を見失っているのかも知れない。私にもよく判らぬのだよ」

「判らないならまず生きてみればよろしいのではなくて? ヒトは生きるものだわ」

 妙案を思いついたかのように彼女は云うが、私としては笑うしかない。

「はは……ヒトならばそうであろうな」

「まあ、まるでヒトならざる者であるかのような仰りようですのね。でも貴方ならヒトではないと云われても私驚かないと思いますわ。だって貴方、とてもおうつくしい眼差しをしていらっしゃるのですもの。まるで黄水晶のようなその瞳は、魔性が潜んでおられても不思議ではないようにみえます」

 なんという慧眼の御令嬢であろうか。そうとも。私はヒトならざる魔性の──この世界に生きる者どもの言葉で云う処の悪魔と呼ばれる種族だ。神の在り様を否定する者。

「私がヒトではなく魔性の者であったなら、君は私に何か望むのかね?」

 悪戯にそう訊ねると御令嬢は大真面目な顔で応じた。

「恋をしたお相手と結婚したいですわね。と申しましても、私は恋というものを物語の中でしか存じ上げないのですけれど。親の決めたお相手と神様に誓うのは何か違うのではないかと思いますの。可笑しいと思われますでしょうか」

「いや、それも悪くないのではないかな」

 くす、と小さく笑って私は応じる。この御令嬢はやはり上流階級の姫君だ。望むこともほんの少女が求むるに変わりない頑是なき願いで、私との取引に祈るにはあまりにも不似合いだ。このような娘には魂と引き換えに乞う希みもありはしないのであろう。

「ああ、そう云えばお客人、お名前を伺って宜しいですかしら。私はレディ・セラフィーナ・エルフィンストーン・アールス・オーゼロフと申します」

「クリスティアーノ・アマーティだ。二日も眠り続けたようで世話になったな」

 この御令嬢の大層な名前から、この辺りオーゼロフの村を治める旧い貴族の──アールスの称号とレディと呼ばれるのは恐らく伯爵家の──姫と知れた。その様な邸宅にしてみればどこの馬の骨とも知れぬ私など滞在して良いものでもなかろう。暇を告げる思いで礼を述べたが、セラフィーナは意に介さぬ様子で云う。

「あら、まだこの邸から出て行こうなんて思わないで頂けますかしら? お医者様は脈も体温も随分と低くて生きていらっしゃるのが不思議なくらいだと申していらしたのよ。この邸でご静養くださいな」

「いや私は」

「貴方が纏っていらした外套は兎の毛を織ったとても良いお品でいらしたもの。ご身分の低いお育ちではないので御座いましょう? この邸に不釣り合いだなんてお考えはお辞めくださいね。今は医師を呼びに行かせておりますの。目を覚まされたなら診察もお受け頂かないと」

「なんとまあ至れり尽くせりと云うか、抜け目のない御令嬢だな」

「用意周到と仰って頂いても構いませんのよ? その身おひとつでこの街にいらしたのなら旅のお方ですかしら。お名前もこの国のものではありませんわね。何処かの小国の、素晴らしい弦楽器を作ると評判の工房と同じアマーティのお名前だなんて珍しいですもの」

 ころころとよく笑う娘だ。そして無知な子供でもないらしい。弦楽器工房アマーティは私が作らせた楽器でこの近辺の国々へと広まる職人となった。ヒトを魅了する特別な音色の楽器を作ることが叶うようにと望んだから、私の名を与えその才を授けた。彼の一族は楽器を作り続ける限り永劫に私の糧として魂を喰らわれ消滅し、冥府への旅路につくこともなく──そう、本来ならば喰ろうていたであろう。私に彼との出逢いがなかったのならば。あの青年を看取ったあの日から私は。

「どうかなさいまして? まだお加減がよろしくないのかしら。お医者様がいらっしゃるまでおやすみくださいな。エイダ、お願いね」

 セラフィーナ嬢は不安そうな眼差しで私を覗き込み、気遣うように云うと客室なのであろうこの部屋を出て行った。

「ヒトの医者に何が判るものか。……いや、ある意味ではヒトの栄養失調に似ているのやも知れぬが」

 私は自嘲気味に独り言ちた。ヒトではない私はそれでも人界に潜むがための擬態をしている。体温や鼓動のあるふりをする。けれどそれは意識のない状態では疎かになりがちだ。さきに私を診た医師はその状態から健康に疑問を持ったのだろう。だが私にとっての『生きる』とはそういうものではない。ヒトの姿を形作って言葉を話すには、仕組みとして発声が適わないので呼吸だけは概ね同じだが、心拍も体温も本来の私には不要な構造だ。ヒトならざる者としてそれは当たり前の事。魔力などさして必要とはしない。私が不調なのは──。

(どれだけの間、私はヒトを喰らっていないのだ)

 もう数百年の刻の中で私は、ヒトの魂をまともに喰うていない。アマーティの一族とて、下級の魔性に分け与え自分で喰うてはいないのだ。ヒトを喰らうことなく生きることが魔族にとってどれほどの無茶であるかは、今己の身をもって理解している。著しく肉体が摩耗するのだ。それこそ今回のように野垂れ死にしかけるほどに。

 身を削りながらもヒトを喰らわないで、死することもなく生き永らえている理由。それは。

「アマーティ様。お医者様がいらっしゃいましたよ」

 エイダの声に思考が止まる。

「ああ、入ってくれて構わない」

 応えると、細身の老紳士然とした白衣の男がエイダの案内で入室してきた。この邸に住まう侍医のリンメルと名乗った老医師は私の脈を取り、喉、下眼瞼の裏側を覗き込んで一人満足そうに首肯するとゆったりとした笑みを見せた。豊かだが真白の短髪は丁寧に撫でつけられ、細く整えた白髭は好々爺の趣がある。

「お嬢様が貴方を連れて来たときは停まってしまうのではと云うほど弱々しい心拍で、どうなることかと思いましたが、随分と眠られてよくお休みになられたようだ。些か血が足りない気配はありますが脈拍は乱れなく強くなられた。まずは薄い麦粥やスゥプから少しずつ食事をお摂りなさい。大丈夫、セラフィーナ様も御主人様も行き倒れられたようなお方を簡単に放り出すようなお人柄ではありませぬ。私もこの邸の世話になっております故、ご安心なされませ」

 白髭に指を遊ばせほほと笑いながらリンメル医師は云った。

「リンメル医師、この邸は長いのかね」

「気になりますかな? 代々エルフィンストーン伯にお仕えする医者の家系ですぞ。こう見えて診立ての評判は悪くありませぬ」

「いや、医師の仰せは聞こう。疑うわけではないのだ。ただこの部屋の調度も旧く上等なものをしつらえていると見受けたものでな。由緒ある家柄であろうかと訊ねたくなったのだよ」

「お客人こそ身なりのよろしい方ですな。あのような道すがらに彷徨われておられたとは、仔細ありのご様子だが……何、爺の詮索もお見苦しいでしょう。伺いはしませぬ。お嬢様はそうは行きませぬがね。あの方は好奇心の塊で少々お転婆姫ですぞ」

 孫娘を語るように邸の令嬢を話すリンメル医師は人の好さそうな微笑みを浮かべる。愛されたお嬢様だ。

「小間使いからも聞かされたよ。あの御令嬢に誰しもそれを云うならば、これは覚悟するとしよう」

 そう応じるとリンメル医師は愉快そうにそうですな、と云って暇を告げた。私ももう一度礼を述べて医師を見送る。

 ──と。

「リンメル先生の診察、終わりましたのね」

 扉からひょっこりと御令嬢が顔を覗かせる。待っていたのか。その奔放な人柄に私は苦笑する。

「退屈かね、セラフィーナ嬢? だが姫君が隙見など感心しないな」

「お行儀悪いと思いましてよ。ごめんなさいね。でももう一人いるのよ」

「……申し訳御座いません、お客様」

 セラフィーナ嬢の背後からエイダまでもが現れて、呆れながらも可愛らしい幼さにほのかな安らぎを感じた。年若い娘の素直な好奇とは然程不愉快でもない。私のようなものが闖入するなど日常にない大きな刺激なのであろう。

「怒っているのではない。構わぬよ」

 云うと、二人は悪戯な子供のように楽し気な様子でこっそりと入室して来た。当主や夫人などはこのような無頼者を拒まずとも歓迎はしないだろう。こうして訪ねるのも秘密なのやも知れなかった。

「アマーティ様は何処からいらしたんですの? お倒れになった場所には何も御座いませんでしたし、殆どお身体ひとつのご様子でしたけれど。だってお名前も異国の響きをしておられますもの」

「ずっと旅をして定住はしておらぬのだよ。暫し滞在する街が出来る事もあるが、そんな場合は酒場で見知った者の処に身を寄せたりして過ごしていた。様々な国を往来して海も渡った。何処から、と問われた処でどう答えたものか判らぬな。名は──真実の名を持たぬ暮らしをしていたので、たまたまこの国とは異なる響きとなっただけだよ」

 そう、私の名は真実を偽るために持つものだ。神の子をもじった、ヒトから見れば神聖ですらあるこの名は、寧ろ神を穢す為に選んだ。

「クリスティアーノ様と仰るのは本当のお名前ではありませんの? 私と同じ、祝福されたとても素敵なお名前でいらっしゃるのに、違いますの?」

 セラフィーナ嬢の眼差しが悲し気に揺れる。そうか、この娘の名は神の使いを意味している。ならば私の名を近しく感じられたのかも知れない。

「私には親も家族も何もなかったのだ。だから名も持ち得なかった。それでは不自由であったから今この名前を名乗っている。真実の名とも云えぬが全くの出鱈目だとも云わぬよ。そんな目をせずとも良い。君の名はその姿と同じく美しいよ、セラフィーナ嬢」

 慰めにもならないであろう言葉を掛けるとセラフィーナ嬢は少し俯き、それからふわりと微笑んだ。

「セフィとお呼びくださいな、アマーティ様。呼び難く御座いましょう?」

「そうだな、では私の事もクリスと呼んでくれたまえ。様、などつけることもない」

「いけませんわ、お客人にそんなこと」

「爵位のある御令嬢に『クリス様』など、呼ばせる程でもないのだが?」

「淑女としての作法ですもの、クリス様はクリス様です」

「柄にもないのだが……そう云われては引き下がるしかあるまいな」

 これでは私も困惑するしかない。すると傍らで聞いていたエイダは小さく笑った。

「お嬢様は云い出したら聞きませんから、お諦めになってください、アマーティ様」

「エイダ、君もクリスと呼んでくれていいのだよ? 呼び難いだろう。実は私も余り慣れておらぬのさ。家との関わりのない生き方で過ごしたものだからね」

「お客様がお望みということでしたら、失礼ですがそうお呼び致します」

 呼び名ひとつに拘る事もないのだが、どうやら暫く滞在する事になるようでは呼称も必要だ。使用人如きならば遠慮も要らぬであろう。なんとかその決着をつけたところでセフィは云った。

「クリス様、お元気があるようでしたら邸をご案内しますわ。少し運動なさった方が宜しいんじゃなくて?」

 明るく輝かせた瞳がくるりと私を見る。やはりこの海の色をした瞳は知っている気がした。けれど何故そう思うのかは判らない。永く生きている私が巡り会った人間は少なくはないのだ。そのいつしかにこのような眼の者もあったのだろうか。

「はは……そうだな、確かに眠り過ぎて身体が軋む。しかしこのような夜着で邸内をうろつくのは見苦しいだろう」

「勿論こちらにお連れした時のお召し物は用意して御座いますわ。きちんとお洗濯もさせてありますしご安心なさいませね」

「……」

 やれやれ。本当に随分と奔放なお嬢様だ。とんだ者に拾われてしまったらしい。笑いを堪えるエイダと視線を交わし、私は小さく肩を竦めた。

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