北溟の帝国 〜山縣有朋が超北進路線を歩む〜

@Amala

第0話 北溟の巨星

昭和二十五年、西暦一九五〇年の二月一日。東京小田原の古稀庵に、凍てつくような北風が吹き荒れていた。硝子戸の向こうには、相模湾の鉛色の海が広がっている。かつて明治の元勲と呼ばれた男たちの多くが、すでに歴史の彼方へと去って久しい。伊藤も、大久保も、木戸もいない。しかし、この寝台に横たわる干からびた巨木のような男だけが、ひとり世紀を超えて生き続けていた。


山縣有朋。享年百十二。


その皺深い瞼の裏には、今も鮮明な光景が焼き付いている。それは栄光に満ちた一世紀の記憶か、あるいは彼が独断で書き換えた、この国の在りようそのものか。枕元には、今朝届いたばかりの報告書が置かれている。アラスカ準州知事からの定時連絡、そしてオホーツク艦隊司令長官からの流氷観測報告である。それらはすべて、日本という国家が、大陸という底なしの泥沼に足を踏み入れず、ただひたすらに北へ、海へと活路を求めた証であった。


老元帥の呼吸は、北海の波のように静かで、しかし重い。彼は薄れゆく意識の中で、自らの原点へと遡行していった。すべてが始まった、あの硝煙と泥濘の時代へ。


時は慶応四年、越後長岡。

新政府軍の北陸道鎮撫総督府軍監として最前線にあった若き山縣狂介は、焦燥に駆られていた。長岡藩家老、河井継之助の巧みな用兵と、彼らが装備したガトリング砲の火力の前に、官軍は釘付けにされていたのである。

連日の雨が、越後の大地を底なしの沼に変えていた。兵たちは膝まで泥に浸かり、疫病と銃弾に倒れていく。前線視察に出た山縣は、泥水に伏した若き兵士の亡骸を見て、激しい眩暈に襲われた。

これが陸戦か。これが大陸での戦いか。

山縣の脳裏を掠めたのは、単なる敗北の予感ではない。それはより根源的な、生理的な嫌悪であった。もし日本が将来、海を越えて大陸へ進出したならば、待っているのはこの越後の泥濘が無限に続く地獄ではないか。補給は途絶え、兵は土に還り、国家の富は無限に吸い取られる。


否、断じて否である。


山縣は泥まみれの軍靴で参謀本部へと踏み込んだ。そこに居並ぶ諸隊長に向かい、彼は地図を卓上に叩きつけた。正面突破は愚策である。敵は陸に砦を築き、我らを待ち構えている。ならば、我らは陸を捨てる。


彼の策は奇想天外であった。当時、官軍の制海権は盤石とは言い難かったが、山縣は徴用した商船と小船を総動員し、信濃川河口および敵背後の海岸線への強襲上陸を提案したのである。陸軍による、史上初の大規模な海上機動作戦であった。

無謀だという批判に対し、山縣は言い放った。島国の軍隊が海を恐れてどうする。陸を這うのは亀の所業、龍は海を渡り空を駆けるものだと。

作戦は決行された。夜陰に乗じ、荒れる日本海を乗り越えた山縣率いる奇兵隊選抜部隊は、長岡城の背後、想定外の海岸へと上陸を敢行した。荒波に揉まれ、小船の幾つかは転覆し、多くの兵が北の海に消えた。しかし、ずぶ濡れになって砂浜に這い上がった山縣は、震える手で刀を抜き、叫んだ。

海を見よ。我らの背には海がある。退けば海に沈むのみ。なれば前へ、ただ前へ進むのみ。

その姿は、鬼神の如くであったと、後に古文書は記している。背後からの奇襲を受けた長岡藩兵は混乱し、堅固を誇った防衛線は一夜にして崩壊した。河井継之助もまた、この予期せぬ方向からの攻撃に対処しきれず、敗走を余儀なくされたのである。


この越後での勝利は、単なる一局地の戦勝ではなかった。それは、山縣有朋という男の中に、強烈な信念を植え付ける契機となったのである。

陸に執着するな。陸は兵を吞み込む墓場である。活路は常に海にあり、そして北にある。越後の冷たい海風が、彼の肌に教えていた。南の湿気た熱風ではなく、精神を引き締める北の冷気こそが、この国を強くするのだと。

維新が成り、明治の世となっても、山縣の変貌は止まらなかった。明治政府内では、西洋の衝撃を受け、新たな国家建設に向けた模索が続いていた。ペリー来航以来、開国を迫られた日本は、不平等条約の改正と富国強兵を急務としていた。


明治三年、山縣は欧州視察へと旅立った。普仏戦争の最中にあった欧州で、彼が目撃したのは、陸続きの国境を巡って血を流し合う大国たちの姿であった。パリ・コミューンの混乱、血で血を洗う市街戦。モルトケ参謀総長との会見すら、彼には大陸国家の悲哀に映った。地続きであるがゆえに、彼らは無限の軍備を国境に張り付けねばならない。

帰国した山縣は、陸軍卿として軍制改革に着手する。しかし、その方向性は周囲を驚愕させるものであった。徴兵令の制定にあたり、彼はこう説いた。


国民皆兵は、大陸へ攻め込むためにあらず。この長い海岸線を守り、北の海へ飛び出すためにこそ、強靭な足腰が必要なのだと。

史実においては、山縣は後に「主権線」と「利益線」という概念を提唱し、朝鮮半島を日本の安全保障上の生命線と位置づけることになる。しかし、この世界線の山縣は違っていた。


朝鮮半島か。あれは半島ではない。大陸から突き出た盲腸のようなものだ。触れれば腐る。ロシアも清国も、あの半島を巡って相争うがよい。我らは関知せず。

彼の視線は、対馬海峡から北へと向けられていた。北海道、樺太、千島。そしてその先にあるオホーツクの海と、遥かなる北米大陸。

明治六年、征韓論争が政府を二分した際も、山縣の態度は冷淡を極めた。西郷隆盛らが朝鮮への使節派遣や武力行使を主張したのに対し、大久保利通や木戸孝允は内治優先を掲げて対立した。史実では山縣も内治派に属しながらも軍備拡張を画策したが、ここではより過激な論陣を張った。


朝鮮になど関わっている暇はない。西郷どんが死にたいなら勝手に行けばよいが、国軍は一兵たりとも貸さぬ。我らが目指すべきは北の沃野、そして北洋の制海権である。

彼は内務省を創設し、警察制度を整える一方で、北海道開拓使に対して並々ならぬ情熱を注いだ。屯田兵制度は、単なる失業士族の救済や対ロシア警備ではなく、将来的な北進拠点への入植者育成として位置づけられた。


明治十年、西南戦争が勃発する。不平士族最後の反乱に対し、山縣は自ら指揮を執った。しかし、その戦い方もまた、かつての越後での経験を活かしたものであった。陸路からの進軍に加え、海軍と協同して九州各地の港湾を制圧し、海上からの補給と機動戦を展開したのである。西郷軍を城山に追い詰めたとき、山縣は涙を流したと言われるが、その心中には別の決意が固まっていた。


これで国内の憂いは消えた。士族という古き陸の戦士たちは滅びた。これより、日本軍は海を渡る水陸両用軍へと生まれ変わるのだ。

古稀庵の寝台で、山縣の喉が微かに鳴った。夢うつつの彼は、再び一八九〇年代、日清戦争前夜の閣議に身を置いていた。そこでの彼の発言こそが、日本の運命を決定的に変えることになる。


大陸には手を出すな。朝鮮は緩衝地帯として捨て置け。我らの利益線は、北緯五十度以北にある。


その言葉が、どれほどの反発を招いたか。しかし、彼は権謀術数の限りを尽くし、軍部を掌握し、政党を手懐け、ついにはその「北進」という狂気じみた国是を、この国の背骨に据えたのであった。


昭和二十五年の東京。空襲のサイレンも、焼夷弾の雨もなかったこの街。皇居の森は青々と茂り、人々は貧しいながらも平和な営みを続けている。

これでよかったのだ。

山縣は、最後の力を振り絞って、硝子戸の向こうの北の空を見上げた。そこには、彼が生涯をかけて追い求めた、冷たく、厳しく、そして無限の可能性を秘めた北溟の海が広がっているはずであった。


巨星、落つ。その報は、直ちにアラスカのアンカレッジにある日本軍北方総司令部へと打電された。

(第1話へ続く)



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