こわいけどコワくない話

蒼井とか

音がする

 夜中に壁の向こうからカリカリと音が聞こえるようになった。壁になにかが擦れてしまったのだろうと、思った。

 大学に通うために一人暮らしをはじめて数か月が経とうとしていたある肌寒い日のことだ。

 おはよう、とすれ違う知り合いに声を掛けていく。梅雨入りしそうな五月の終わり、夜中にあったことなどとうに忘れていた。

 講義室は朝も早いというのにガヤガヤと賑やかな声が響いている。配信サイトのドラマの話やら最近話題らしいマンガの話やら、会話が途切れることなく延々と続く。真ん中辺りの席に座ると前の田中が振り向いた。

「藤川ぁ、お前どう思う?」

「うんー、いいんじゃないー」

「話聞く前に返事すんなよぉ」

 べたりと頬を机に預けて尤もなセリフを吐く。頬杖をつき田中の頭を見下ろしながら「では、本編をお願いしまーす」と話を促す。

 田中はしばらく考え込んでいたが、腹を決めたのかバンッと机を叩いて立ち上がり講義室の入口から教授が来てお預けになった。また後で話すわぁ、と席に座り手をひらひらさせた。

 昼を迎えたからか学食も声を張らないと会話ができないほど賑やかだ。

「どっか空いてっかなぁ」

 トレーを持ったまま、ふらふらと奥のほうへ歩いていく。人が減ると同時に心なしか薄暗く感じる。

「ここでいいかぁ?」

 田中が選んだのは高窓の明かりも届かない、隅の席だった。他人に聞かせたくない話なのだろうか。それを、自分が聞いてもいいのか――。

 ギィ、と音を立てて椅子に腰を掛けると同時に田中が口を開いた。

「最近、夜中に目が覚めるんだ。気温の変化とか腹減ったとかだったらまだよかったんだけど、違うんだ」

 水を一口飲んで少しの沈黙の後、音がするんだとこぼした。

「音ってのは……、蛇口から水が垂れてるとか時計の音が大きく聞こえるとか、そういうことか?」

 そんなことでわざわざ誰かに相談しようとはしないだろう。分かっている、自分にも心当たりがあることに。だから聞きたくはなかった。

「違うんだ、そんなことじゃないんだ。隣の部屋から聞こえるんだよ、カリカリって何かで壁を引っ搔く音が」

「家具とかが引っかかってたまたまそう聞こえてるだけじゃないのか? 片付けとか、掃除してるとか――」

「ほんとに、そんなんじゃないんだよ。なんか固い、例えば爪みたいな……」

 カラン、とコップの氷が揺れる。ピクッと自分の体が震えたことに驚いた。

 次の講義始まっちまうから食べてしまおう、と田中を急かした。田中の話に動揺したことを気づかれたくなかったし、気づきたくなかった。

 おう、と不審そうにチキン南蛮定食をかきこんだ。もうすっかり冷めて味の濃くなったソースが、現実を見ろと言わんばかりに舌を刺激する。

 気がついたら夕陽が傾き、夜が降りてこようとしていた。講義が終わり田中の部屋に行こうと話していた気がしたが、……なぜ自分は自分の部屋にいるのだろう。 

 カリカリと音がしていた。スマホを確認すると23時を回っていた。自分の部屋にいることを確認してから時間が飛んでいる。空腹を思い出して最小限の貴重品を持ち、部屋を後にした。後ろではまだ音がしていた。心なしか、この間より音が大きくなっている気がした。

 その夜は24時間経営のカフェで朝を迎えることにした。マンガ喫茶も頭にあったのだが、隣からの生活音すら部屋での怪音に変換されそうで候補から外した。

 ウインナーコーヒーを飲みながらネットサーフィンで時間をつぶす。「隣室からの怪音」「隣人問題」など、無意識に調べてしまっていた。大概は管理会社に連絡するか、警察の専用ダイヤルに電話するかしか解決策が提示されていなかった。

 待ち受けの電子時計が1時近くを知らせている。パソコンを持って来るんだったと後悔したが、スマホのモバイルバッテリーだけは持って来ていた。まだ初日だというのにいつまで続くのか、先を考えて天井を仰いだ。交代の時間なのだろう、カウンターにいた店員が制服から着替えて店内を後にしていく。

 特大サイズを頼んだからか、カップの減りは思わしくない。それと比例して時間が経てばいいのだがどこぞの転生系のように思った能力を使えるわけではないので、お手洗いと席とを反復横跳びしている。

 ウインナーコーヒーがカップから半分ほど消えた頃、朝の早い人たちが少しずつ入店してきた。目で追っていると眠ってしまいそうだ。モバイルバッテリーを仕舞いこみ、カップを片手に店を後にした。夜風から変わりはしたが、まだ冷たい空気が眠気をさらっていく。

 重たい足を半ば引きずりながら帰る。着の身着のままなこの状態では講義を受けようにも何をしに来たのかと思われかねない。服も着替えなくては田中になんと言われるか……。などと適当な理由を頭の中で捏ねくり回しては、帰るのを拒絶している身体に鞭を打つ。

 例の音がする部屋の前を通る。まだ寝ているのか人の気配は感じなかった。

 自分の部屋の鍵を開け、リビングの扉に手を掛けた。あの音が頭の中で反響している。あれは夜だけだ、明るくなった今はしないはずだと息を止めゆっくりと開ける。

 カリカリという音はしていなかった。昨日出たそのままの状態で視界にリビングが認識されていく。着替えを手早くかき集めてシャワールームに駆け込んだ。手足が震える。ノズルから出る温水がビシャビシャとルームの床を濡らしていく。

 身体を拭くのもそこそこに服を着て部屋を飛び出す。

 大学に着くまでに髪は乾いた。整えもせずに講義室に飛び込んでいく。田中の姿を探したが、時間が早かったのかまだ来ていないようだった。出入り口から数席前の端に座る。少し、突っ伏して目をつぶることにした。

 予鈴が鳴った。と思ったら講義は終わったようだった。学生も教授も講義室から出ていく。田中を探してみたが見当たらなかった。今日は休みだろうか――。まさか、昨日言っていたあの話が関係しているのでは。

 スマホでメッセージを送った。『大丈夫か、何か、あったのか』。既読はつかなかったが近いうちに返信があるだろう。

 その日1日は田中と会わなかったし、会った奴もいなかった。

 夕方、部屋に戻るとシャワーを済ませあるもので腹を満たしパソコンとその周辺機器を持って音が始まる前に鍵を閉めた。

 カフェが行きつけになり、店員と仲良くなった猛暑の始まる7月の終わり。アパートの前はアスファルトからの照り返しに負けじと黒山の人だかりが出来ていた。遠くの方でパトカーのランプが光っている気がした。

「あの、何かあったんですか? ここの一室を借りているのですが……」

 振り向いた一人がかいつまんで話してくれたのは、アパートのどこかから異臭がして管理会社に電話が殺到したらしい。警備の人が臭いの元を探して鍵を開けたところ、リビングに遺体を発見したようで、警察が今捜査かなにかをしていると。

 それは、どこですか。と聞いた気がするが、あまり声にできていなかったのか数人が心配そうに何かを話しかけてくる。

 そこからの記憶がない。気がつけば実家に帰って来ていて、大学も休学か中退かしたのだろう。自室で一日中ダラダラごろごろしている。

 例の部屋は、やはり自分の隣だった。そして自分の部屋と隣り合っている方の壁だけに血文字がびっしりと書かれていたらしい。「だまれ」「しね」「きえろ」など、恨みつらみが切々と。何か知らないかと警察が来たが、隣から音がした以外のことは知らないと答えておいた。

 スマホがメッセージを受け取った。田中からだった。あいつは、今もあの街にいるのだろうか、もう、あの部屋がどうなっていても自分には関係がない。また、他の誰かを標的にしていたとしても。

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