第8章 鐘のあと、光の街

朝のルッカは、音を失っていた。

鐘も風も鳩の羽ばたきも、すべてが止まり、

ただ光だけが街を満たしていた。


リーヴォは目を覚まし、静かな空気の中で息をした。

耳を澄ましても、何も聴こえない。

それなのに、不思議と恐ろしくはなかった。

胸の奥で、何かが脈を打っていたからだ。


机の上には昨夜の紙。

七つの線が重なり、その中央に“白い空白”が残っている。

彼は指先でその白をなぞった。

光が触れ、指先に微かな温度が宿る。


「……音の代わりに、光が動いてる。」


窓を開けると、街全体が白く揺れていた。

屋根も塔も、すべてが透明な膜に覆われているようだった。

石畳の間を光が滑り、

壁の隙間から小さな花が咲いている。

その花びらの縁は青く、朝日を受けて淡く透けていた。


“灰の花”――

かつてヴェネツィアで生まれた赦しの形。

それが、ここでは音を返す花になっていた。


リーヴォはゆっくりと街を歩く。

通りの奥で、キアーラとロレンツォが立ち止まっている。

二人とも言葉を失い、ただ光の街を見つめていた。


「音が、全部光になったのね。」

キアーラの声はかすれていた。

ロレンツォが頷く。

「鐘の余韻が……姿を変えたんだ。

 これは、街そのものの祈りだ。」


リーヴォは足元を見た。

水たまりが光を映し、

その表面に微かな波紋が広がっている。

風もないのに、波紋が絶えず生まれていた。


「街が呼吸してる。」


彼はしゃがみ込み、指で水面をなぞる。

その動きに合わせて、波紋が形を変え、

七つの輪が現れた。


リーヴォは小さく笑う。

「七つの音が……まだここにある。」


キアーラが肩越しに囁く。

「音は消えないわ。

 形を変えて、誰かの目に宿るの。」


リーヴォは顔を上げ、空を見た。

雲の間から光が差し込み、

塔の上で何かがきらめいた。

それは、風に乗った羽のようだった。


“ピッコロ……”


声は出なかったが、

風が一瞬だけ頬を撫でた。

その感触が、確かに“返事”だった。



昼。

街の光が柔らかくなり、

屋根の上に新しい影が生まれ始めた。

影は鐘楼から延びて、広場の端まで続いている。

その先には、リーヴォのスケッチ帳が置かれていた。


彼はその影の上に紙を広げ、鉛筆を取る。

音の代わりに、光の形を写す。

塔の影の揺れ、石畳に映る波紋、

そして花びらの輪郭。


すべてが、静かな声を持っていた。


線を引くたびに、光が紙に溶ける。

それは音ではない。

でも、確かに“世界の呼吸”を記していた。


最後の線を描き終えると、

リーヴォは鉛筆を置き、静かに言った。


「これが、光の鐘。」


キアーラとロレンツォが顔を見合わせた。

鐘の音が戻らない代わりに、

街のどこかで窓の反射がきらりと光った。


その一瞬、

ルッカ全体が“音”になったように見えた。



夕方、風が戻ってきた。

光がゆっくりと色を変え、

白から金、金から青へと移り変わる。

リーヴォは塔を見上げて笑った。


「また聴こえるようになるよね。」

風が答えるように鳴った。


――光が言葉を持ち、

 言葉が沈黙を赦す。


ルッカの街が、再び呼吸を始めた。

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