第5章 描かれた未来の地図
夜のルッカは、静かに光っていた。
塔の上のオリーブの葉が風に擦れ、
どこか遠くで鐘がひとつ鳴る。
わたし――ピッコロは、もう声を持たない。
風の奥で、ただ街の呼吸を聴いている。
その音を、少年が代わりに描いている。
机の上では、キアーラとロレンツォが紙を広げていた。
そこには、リーヴォが描いたスケッチ。
青と赤が交わる線が、円を描いている。
塔、川、広場――街全体がひとつの旋律のようにつながっていた。
「……これが今日、あの子が描いたもの?」
ロレンツォが光に透かす。
キアーラが頷いた。
「ええ。でも見て。この部分。」
指先でなぞると、青の線が途中で白に変わっていた。
「これは、描いている途中で光が変わった跡よ。
つまり、この紙は“時間の動き”を記録しているの。」
ロレンツォが息をのむ。
「時間が……地図になっている?」
「ええ。鐘の影の動きを、光で写してるの。
リーヴォは“時間の形”を描いたのよ。」
ロレンツォは小さく笑った。
「音を聴く者が、今度は光を描いた。
街が、記憶を見せてるんだ。」
その言葉に、風がそっと窓を撫でた。
外で鐘が二度鳴る。
その響きに呼応して、机の上の紙が微かに震えた。
キアーラの声が静かに落ちる。
「ねえ、ロレンツォ。この中央の空白……見える?」
紙の真ん中、何も描かれていない一点。
「そこは、まだ描かれていない“音”の場所。」
ロレンツォは頷いた。
「未来だ。」
部屋の灯りが揺れ、影が壁に踊る。
キアーラが青い瓶を取り出した。
“返された青”――封を切られないまま、旅を続けてきた色。
瓶の中の粉が、まるで眠るように光を返した。
「もう、“赦し”の色じゃないわね。」
ロレンツォが問う。
「じゃあ、なんだ?」
キアーラは少し微笑んだ。
「“約束”の色。」
その瞬間、風が強く吹き込み、瓶の口がかすかに開いた。
青い粉がふわりと浮かび上がり、紙の上に降りる。
音もなく、空白の中央を染めた。
ロレンツォが呟く。
「街が、未来の地図を書き足してる。」
◆
その夜、風が街を渡った。
塔から塔へ、鐘から鐘へ。
音は光になり、光は影を連れて走る。
リーヴォは屋根の上でそれを聴いていた。
スケッチ帳を胸に抱き、
風の流れを確かめるように目を閉じている。
「ピッコロ……。」
声は風に消えた。
けれど、答えが返る気がした。
羽音のような微かな震え――
“ここにいるよ。”
彼は目を開き、青い鉛筆を取り出した。
霧のかかる街の上で、光の筋が重なり合う。
その形を追って、彼は線を引いた。
線が鐘の間をつなぎ、屋根を結び、
街の呼吸が紙の上に現れる。
一度、二度、三度――鐘が鳴る。
音が重なり、紙が震える。
六度目の音で、リーヴォの手が止まる。
彼は小さく息をつき、鉛筆を置いた。
「七つめの音は……まだ鳴らない。」
それでも彼は笑った。
「いいんだ。きっと、その音は未来の誰かが描く。」
風が再び吹く。
塔の影が丘を越え、街の端まで伸びる。
その先に――
青と白が混ざる、かすかな光の道。
リーヴォはそれを見て呟いた。
「これが、街の心臓なんだね。」
鐘が鳴り終えると、夜の静けさが戻る。
風の中で、わたしの声がかすかに響いた。
――描くことは、祈ること。
聴くことは、受け継ぐこと。
リーヴォの瞳に、塔の光が宿った。
その瞳は、もう“観察者”のものだった。
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