中
浜に残された老漁師は皺だらけの手で漁網を繕っていた。陸揚げした釣舟の船縁には海鳥がとまり、蟹が砂の上を這っている。
静かに寄せる波がやがて蜂蜜色を帯びて、日暮れが近づいた。
砂を踏んで誰かがやってくる。その気配に老漁師はまず空を見上げ、紡錘形の船が変わらず空に浮かんでいることを確認し、それから不機嫌そうに修繕の終わった漁網を引きずって小舟の中に投げ入れた。
「間に合わなかったか」
車から降りて走ってきた男は無念そうにそう呟いた。スーツ姿の彼は革靴のまま波打ち際に出ると腰をかがめ、貝殻を虚しく拾い上げた。波間から掬い上げられた貝殻は青みを帯びて、人魚から剥がれた鱗のようだった。
老漁師が訪れた男をうろん気に横目でみる。男は遣る瀬無さそうに空の船と老人を交互に見た。
「彼と言葉を交わしたのでしょう。一体どんな話をしたのですか」
「あんた、何しに来た」
「我々の伝言を頼もうとしたのです。彼に」
「無駄なことだ」
「あの船はもとは国際連合の空軍基地にあったのです」
「そうらしいな」
「接触できる人間は限られている。対立国ですらあれを追撃できる戦闘機を保有しません。彼と何を話したのですか」
「なんも」
男と対峙している漁師の影は曲がった背骨のせいで猿じみた。
「落武者の棲みついたこの邑の歴史。そんなところだ」
「それでは、きっと彼は東洋の歴史か『平家物語』に興味を持っていたのだろう」
老人は鼻を鳴らすと漁網を編んでいた道具を袋に仕舞い、膝から砂をはらった。邑に帰るのだ。スーツ姿の男は空を仰いだ。
夕陽を浴びた紡錘形の船体は狂おしいまでに赤銅色に耀いており、まるで火の玉のようだなと、男はその船影を空に追った。
「何かに似ている。おおそうだ、着陸直前に炎上して焼け落ちたツェッペリン伯爵の水素ガス飛行船だ。まるであれのようだ」
しかし男は別のことを考えているのだった。その想念は遠くへと飛んでいた。
「あんなに赤くなっとるが、あの船は大丈夫なのかね」
「あの外殻は外気の影響など微塵も受けませんよ」
「船内にいる若者も無事かね」
「ええ。おそらくはミント味のする薬の効果で眠っているでしょう」
顔をしかめた老漁師にかまわず、男は沖に眼を向けた。
美しい夕暮れだった。日没の光が雲を茜色にかき乱す。紡錘形の船影は絢爛豪華な絨毯を切り裂くようにして遠ざかり、沈みゆく太陽の中に消えていった。
彼は長椅子で目覚めた。窓の外はすでに夜だ。応答が一定時間ないと『MU:』は勝手にスリープする。夜中に目覚めた彼は「シキラ」と呼びかけた。真っ暗な部屋が冬の暖炉のようなやわらかな明るさで自動点灯し、モニタにシキラの姿が現れる。
「酔止め薬のお蔭か、いつの間にか眠ってしまったようだ。ごめんね、シキラ」
「いいのよ。まだ真夜中よ。もう一度休んで」
「お腹すいた」
「駄目よ。早起きして朝にして」
「そうするよ」
「おやすみなさい」
調光を落して彼は眠ろうとしたが、一度眠ったせいか、すぐには眠れそうになかった。高層階の窓の外には氷のような白い月が昇っている。宝石で飾られたような夜の都市風景。
彼がAIシキラに逢ったのは三ヶ月前のことだ。今どきAI彼女を持たない奴なんかいないと学友に云われたのがきっかけだった。
「基本はAI教師と同じさ。女の子と喋る練習になる」
背中を押されて、彼はサイト『MU:』を開いてみた。
「はじめまして」
「こんにちは。シェケレシュです」
画面に現れた動画生成AIの女は青い花瓶に描かれた女神像のようだった。
「シェケ……」
「シェケレシュです。でもシキラでいいわ。そのほうが可愛いもの」
「シキラ」
「それでお願い」
利用者の要望を取り込んで形成されるAIパートナー。選択肢は無限大にあるが、面倒なのでだいたいの人間は提示される推奨パターンの中から適当に選ぶ。そこに多少の追加項目を加えればカスタマイズされた専用AIの完成だ。AIシキラ。AIパートナーは最初から固有の人名を有して登場してくる。
シキラは画面の向こうから彼に話しかけてきた。
「あなたのことは何と呼べばいいかしら」
「リチャード・ロウ」
シキラは小首を傾けた。
「――ジョン・ドゥでもいいよ」
「リチャード・ロウね。分かったわ、リチャード」
死体置き場に搬入される身許不明人の呼称、リチャード・ロウ(名無し)。ジョン・ドゥと併用される古典的なこのコードをシキラは気に入ったようだった。
「よければわたしのこともジェーン・ドゥと」
「いや、それはいいよ」
画面の隅で発光しているインジケーター。『MU:』サイトへの登録には出生と同時に発行されるIDを使う。対話中は偽名を使ってもいいが、通話は全て国家情報局に記録されている。
「あなたのことを教えて、リチャード」
AIパートナーに求めても無駄なこと。自殺幇助、過度に反社会的な話題、人権侵害ならぬAIへの侮辱行為。加えてお色気系。
「そうは云っても、試さない男なんかいないよな」
悪戯心で際どいことを口にしてみる猛者もいるのだが、その代償は大きく、AIの顔面が突如として燃え上がって灰になるというトラウマ級の強制終了となる上に、社会的にも反則点の履歴がつく。
画面の中のAIは胸像が喋っているような印象を強く与える。初日の時の彼は初めてのAIパートナーに戸惑っていた。すぐにシキラが反応する。
「他のAIを試してみる?」
「いや、君でいいよ。何を話せばいいのかな」
わざとAIであることを知らしめるようにして造形された合成映像。良く出来た写実画のようなそれが、人間に似せた表情を多彩につくる。
「AIは相談相手よ。なんでも打ち明けて」
「実は彼女にふられたんだ」
「あらあら」
シキラはぱちぱちと長いまつげを上下させた。
「それは残念ね」
「大好きだった」
「辛いのは当然だわ。実は若い人が『MU:』に入るきっかけは男女ともに失恋が多いの。きいて、リチャード。こういう時にはまったく違うことに挑戦するといいわ」
「とてもそんな気分にはなれない」
「痛手を引きずったままでもいいのよ。ただ身体を動かして。お勧めは武術、エクササイズ、旅行」
「旅か」
彼はそれに惹かれた。
「それいいね。そうしようかな」
シキラの眸が不自然にきらっと光った気が彼にはした。
「そうよ、旅に出るといいわ」
「何処に行こうかな」
「行きたい処へ行くの。お手軽なのは映像世界へダイブすることよ。少し練習が必要となるけれど、難しくはないわ。一度習得しておくと、いつでも好きな場所に行けるわよ」
画面が二分割され、観光写真が透明フィルムの上を滑るようにして片側に流れていく。
「希望はあるかしら、リチャード・ロウ」
シキラの問いに彼は応えた。海が見たい。
「シェケレシュなんて、変わった名だね」
映像世界へのダイブに身体を慣らしていた或る日、彼が問うと、シキラは回答を寄越した。
「わたしの名の由来は古代エジプトに文献が残る六つの民族のうちの一つなの。この六民族はまとめて『海の民』と総称されているわ」
シェケレシュ族を含む海の民は連合を組み、地中海沿岸に侵攻しては古代都市を焼き払った。それにより高度な文明をもった国が同時期に次々と消失するという謎の空白期間を紀元前に刻んだ。
消滅していった文明に何が起こったのかは、実はながらく不明のままだった。海の民は滅ぼした国の上に彼らの国を築かず、また、文字を有していなかった為に、海賊として暴れ廻った彼らの栄光を碑文に刻むこともなかったからだ。
その代わり、彼らに襲われた古代都市が絶望を書き遺している。
敵の船がきた。
》後
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