リチャードX世
朝吹
前
波が網目模様を拡げている。雲の切れた沖合は陽光を跳ね返して魚群の背びれのように揺れ動き、黄金郷の在処を眺める者にそっと告げるようだった。
臨海に照りつける太陽。海の底にあると伝わる都を捜し求めて、海鳥が円舞しながら啼いている。
砂を蹴って走り出した彼は全身に潮風を浴びた。自然とこぼれてくる笑みを抑えることなく、幼子のように彼は水と戯れた。
「東洋の海だ」
「薬が売れんようになったらもうどうしようもないで」
老いた漁師が顔を上げもせずに彼に応える。長いあいだ人々がそこを故里とした海沿いの集落は廃村となって久しい。
濡れた砂が踏みこむ端から崩れ落ちて片時も跡を残さぬのを愉快がり、服が濡れるのも構わず彼は波打ち際を歩いた。魚の背に乗せられるようにして次々と盛り上がっては崩れ落ちてくる青い波。巨大な生物のひれが陸に触れるような複雑な波の満ち引きは変化に富んで、西洋の海とは色味が違う。
彼は老人にふたたび訊ねた。
「それでも、漁師としてこの土地に残ることを選んだ者もいるのでしょう。あなたの祖先のように」
同時通訳機があるので会話に障りはない。老人の言葉はすぐに彼の言語に、そして彼の言葉はすぐに老人の分かるものとなって、機械から流れる。
背後の樹林帯を老人は指す。
「あの向こうに、昔は鎌倉造りの大きな屋敷があってな。薬を練る場だったそうだ。雪に閉ざされる冬場は邑中総出で内職をした」
「廃屋の屋根裏から、今もまだ、丸薬の鋳型が見つかることがあるそうですね」
「門外不出の製薬方法があったというな。それがどんなものかは、ちいとも伝わっとらんが。男はこの地から動かんで、畠や漁をやる。女は薬を入れた
年季の入った漁網は草臥れた布のように嵩が減っている。邑に残ることを選んだ老漁師は今日も古びた網の手入れをする。
警戒を告げる電子音が風に混じった。片耳に入れた通信機を通して女の聲が彼にそれを伝える。
時間よ、リチャード。
「何人くらい邑に残っておられますか」
彼は両手で海砂をすくう。浜辺の端には石を積み上げた素朴な墓があった。海浜植物に半ば呑まれたそれらの近くには同じ形状の比較的新しい積石墓が数基あり、原型を留めたそれが目立って濃い影を曳いている。
「
「この浜が墓所ですか」
「元々邑の墓地は山の中にあったんだが寺も無人になっとるで、わざわざ山に棺を担いでいかんでも馴れた海の近くに埋めてもらうほうがええと、残ったわしら皆で決めたのさ」
女の聲が彼をせかす。戻って。
彼は耳に入れた通信機を鬱陶しそうに触り、「わかった」と応えた。
「平家の落武者が流れ着いたのがこの集落の始まりとか」
「そんな古いことは分からんな。そんな話らしいが。貴人のものと伝わる墓もあるにはあるが、粗末なもので誰の墓かも伝わっとらんからたいした人ではないのやろう。まあこんな過疎地、邑としての寿命はとうに終わっとるよ。あとは儂が死ぬだけさ」
戻って、リチャード。
彼に呼びかける声がいよいよ強くなる。
「来たばかりなのにな」
リチャードと呼ばれた彼は独り言を洩らすと、砂を踏みしめて歩き、岩陰に隠れた。手を休めずに漁網を繕いながら若者の姿を追っていた老いた漁師が、天空に別のものを見つけて顔を上げた。
単座の飛行
このままこの場にいたらどうなるのだろう。
波が崩れる音をはるか下界にして、彼は地上から飛び立った。
雲の上に停泊している紡錘形の船体の基底部格納庫に小型舟艇を停めると、両翼つきの小舟から降りた彼は飛行用ゴーグルを頭から外して髪をかきあげた。まだ波の音が耳底に残っている。女の聲が船内に響いた。彼に帰投を促していた女の聲だ。
「遅いわ、リチャード」
「心配かけたね、シキラ。乗降口を閉じていいよ」
しきりに片腕をあげて髪に触れていた彼だったが、すぐに
「潮風で髪がべたついているような気がしたんだ」
「分かるわ」
モニタの女が頷いた。映像旅行から戻ってきた人間はしばし、あちらとこちらの落差に戸惑う。その境目はどこなのだろうとギアを取り外しながら彼はいつも考え込む。まだ半分眠りの中にいる朝の目覚めのように境界がはっきりとは分からない。おそらくそれは飛行用ゴーグルを脱いだ時なのだろう。それとも、壁のモニタにシキラの姿を認めた時なのか。
「あなたは海には行っていないわ」
「分かってる」
彼はただ高層階にある自分の室でギアを装着してゴーグル越しに海の映像を見ていただけだ。
余韻の残るふわついた気分のまま、彼は壁のモニタに映るフィメール型AI相手に照れ笑いをしてみせた。
「映像の中の仮想世界であっても飛ぶのは好きだ。実際には飛んでいなくてもね」
彼は空を飛んでおらず、海の水に触れておらず、小型舟艇で飛行船に帰投もしていない。しかしその感覚は生々しく彼の肉体と意識にまだ残っていた。
「悪酔いしてない?」
「少しだけしてる。風に揺られている蓑虫があるだろう」
「眩暈がするのね」
「くるくるとね」
「酔止めを呑むといいわ」
青い眸をしたAIシキラは、すぐに服用すべき薬の名を画面の下部に流してきた。
「海はどうだった。リチャード」
「寂しい海岸だったよ」
AIシキラからリチャードと呼ばれている彼は、見てきたものをモニタの中のシキラに伝えた。太陽に照らされた遠くの沖が小島のように浮きあがって見えるんだ。まるで黄金の旗を城壁に並べた異国のようにね。
「海崖に囲まれた秘境だ。大昔は全国を行脚して薬売りをやっていたそうだ」
薬箱から取り出した瓶のラベルをシキラに向かって読み上げた彼は、シキラが頷くのを確認すると薬を口に放り込んだ。
「東洋の歴史に興味があるとはいえ、平家の末裔が暮らす海辺だなんて、おかしなリクエストだったわ、リチャード」
「捜し出して叶えてくれてありがとう、シキラ」
「それはどんな味がするの」
「どれ」
「今あなたが呑んだ酔止めの薬よ」
「すぐに呑み込んでしまったよ。強いて云うなら少しだけミントが香るかな」
「羨ましいわ。わたしには分からないことだから」
ミントの味を様々に喩えて表現することはシキラにも出来るが、その味を味わうことは彼女には出来ないのだ。AIの彼女がいま学習したことは、その酔止めは水がなくても服用しやすく、ミント味だということ。
「あと数年も経てばあの邑は完全に無人となり、浜辺にある漁師たちの墓も砂に埋もれて、落武者の隠れ里があったことなどすっかり忘れ去られてしまうだろう」
「残念ね」
「君ならば全てのことを忘れないのにね」
「ええ、忘れないわ」
AIシキラは感情をこめずにそう応えた。
》中
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