私、バリキャリ、着ぐるみ、被ってます!
松本章太郎
第1話 ムーミン
入社してすぐに配属された秘書課で、一番びっくりしたのは、まず聞いたことのない“特別なお仕事”があったことです。
社長が大の着ぐるみ好きで、毎朝、就業前に秘書課の女性社員が交代で着ぐるみに入って、社長をお迎えしてお茶をお出しし、しばらく談笑する、というのが、その仕事でした。
最初に聞いたときは「えっ? 本当に?」と耳を疑いました。大学時代に就職活動で想像していた“秘書業務”といえば、スケジュール管理や電話対応、来客応対といったきりっとしたイメージだったからです。でも先輩たちは当たり前の顔で「まあ、最初は驚くけどすぐ慣れるわよ」と笑っていて、なんだか妙に温かい雰囲気さえ漂っていました。
私も新入社員ながら数回、その担当にあたりました。正直、最初は足がガクガク。でも着ぐるみを被って鏡に映った自分を見ると、緊張よりむしろおかしさが込み上げてきて、「よし、もうどうにでもなれ!」と開き直れたのを覚えています。
社長はというと、子どものように嬉しそうに目を細めて、「今日のキャラは元気だなあ」と声をかけてくださいます。厚い着ぐるみの中で汗をかきながらも、その笑顔を見るとなんだか誇らしくて、「秘書課って不思議な職場だけど、あったかいな」と思うのでした。
少し変わった習慣ではあるけれど、朝一番に社長がご機嫌でいてくれると会社全体の空気も明るくなるんです。そんな“着ぐるみのお迎えタイム”は、私にとっても今ではちょっとした楽しみになっています。
先日、私の担当はムーミンでした。
大きな頭をすっぽりかぶると、あの愛嬌のある口の下に小さな白いメッシュがあって、そこからかろうじて前が見える仕組みになっています。けれど、正直ほとんど視界がなく、廊下を歩くときは心細いことこの上なし。お盆にのせたお茶だけは、奇跡的にちょうど視野に入る高さだったので、なんとか社長のデスクまで運ぶことができました。
「お、今日はムーミンか!」
社長はいつものように嬉しそうに声をかけてくれます。
実はこの会社の“慣例”で、着ぐるみに入った秘書は積極的に声を出して会話をしなければならないのです。最初に聞いたときはびっくりしました。「え、ムーミンがしゃべっていいんですか?」と。でも社長にとっては、キャラクターと会話するのがなによりの楽しみだそうで…。
「おはようございます、社長。今日もご機嫌いかがですか?」
私はムーミンの声を意識して、ちょっと低めで柔らかいトーンを心がけます。
社長は満足げにうなずいて、
「いやあ、絶好調だよ。ムーミンに迎えられたら元気が出るな。そういえば君、ムーミン谷で誰が好きなんだい?」
「私はリトルミイが好きですね。小さいけどすごく元気で、言いたいことをはっきり言うのが憧れです」
「おお、いいねえ! 私はスナフキン派なんだ。ほら、自由気ままに旅をするだろう? でも現実は毎日会議と書類に追われてる。だからこうしてムーミンとおしゃべりできるのが救いなんだよ」
私はつい笑ってしまいます。
「じゃあ、今度は会議もムーミンが出席しましょうか。『それはおやめなさい』なんて言ったら和みますよ」
社長は大笑いして、
「それはいいなあ! でも議事録に『ムーミン発言』って残ったら大騒ぎになるぞ」
と冗談を返してくれました。
厚い着ぐるみの中で汗をかきながらも、社長の楽しそうな笑顔を見ていると、視界の狭さも息苦しさも不思議と気にならなくなります。
――“しゃべるムーミン”という慣例のおかげで、ただのお迎えが、社長と心が通じるひとときになっているのだなあと感じました。
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