第2話『喰刃、肉の深淵を覗く』

 『喰刃、肉の深淵を覗く』



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 二丁目商店街の夕方は、いつも少しだけ熱っぽい。


 焼き鳥屋の煙が白く路地にたなびき、

 揚げ物屋の油がぱちぱちと弾け、

 ラーメン屋からはスープとニンニクの匂いが漂ってくる。


 八百屋の店頭にはピーマンやナスが山積みにされ、

 魚屋の氷の上では銀色の魚がまだかすかに跳ねていた。


 その真ん中を、エプロン姿の青年――赤間コウタが、

 黒い長袋を肩に担いで歩いていた。


 中身は妖刀だなんて、

 この街の人間の何人が気づくだろうか。


「お、赤間くん、それ新しい包丁?」

「今日も魔物肉かい? 今度ウチにも分けてよ」

「夜、店開けるなら寄るからさ」


 いつものように声をかけられ、

 コウタは笑って手を挙げて返す。


 袋の中――黒い刀身が、わずかに震えた。


『……ニンゲン……ニオイ……ウルサイ……』


「そりゃあ、夕方だしな。腹減った奴らの匂いだ」


 コウタがぼそりと返すと、

 刀は不満そうに、しかし大人しくなる。


 “魔剣”は、まだこの街を知らない。

 この下町が、怪異と日常の境目みたいな場所だということも――。



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 アカマ精肉店の裏口を開けると、

 ひんやりとした空気と、肉と香辛料の混ざった匂いが一気に押し寄せた。


「ただいまっと」


 照明をつけると、

 ステンレスの調理台、白いまな板、整然と並ぶ包丁、

 そして大型冷蔵庫が静かに唸り声を上げている。


 コウタは袋から黒い刀を取り出し、

 まな板の横にそっと置いた。


 黒い刀身は、店の蛍光灯を受けて鈍く光る。

 そこからじわりと、冷たい妖気が滲み出た。


『……フン ココハ……センジョウデモ……ジゴクデモ……ナイ……』


「精肉店の厨房だ。俺の戦場って言い方もできるけどな」


 コウタは白衣に袖を通し、頭にバンダナを巻く。

 たったそれだけの動作なのに、

 さっきまで商店街を歩いていた“若い兄ちゃん”から、

 “職人”の顔へと切り替わる。


 その変化に、黒い刀が小さく揺れた。


『……ソウイウ……キガ……センノウ……ブシ……ヲ……オモイダサセル……』


「なんか言ったか?」


『ナンデモナイ……ツヅケロ……ニンゲン』


「はいよ」


 コウタは冷蔵庫を開けた。


 銀色の冷気の中で、

 ラップに包まれた肉の塊が整列している。


「今日の主役は……黒毛和牛の肩ロース。

 さっきの客に出す分と、明日の仕込みと……」


 どさり、とまな板の上に置かれた瞬間、

 黒い刀身がビクリと震えた。


『……コノ……アツミ……ナンダ……コノ……イキオイ……』


「良い肉はな、立ってるんだ。

 脂も、水分も、まだ生きてる」


 コウタは、黒い刀を手に取った。


 指が柄を握ると同時に、

 刃の中で何かがカチリと噛み合うような感覚が走る。


『……オマエノテ……キライジャナイ……』


「そりゃ光栄だね、魔剣さん」


 軽口を叩きながらも、

 コウタの目は真剣だった。


 まな板の上の肉と、手にした刃と、

 自分の呼吸だけを世界の中心に置く。


「いくぞ」


 ひと息、吸って。

 吐きながら、刃を滑らせる。


 ――スッ。


 圧倒的な“通り”の良さだった。

 皮も脂も筋も、まるで空気のように何の抵抗もなく裂けていく。


 肉塊は、呼吸するみたいに静かに割れ、

 断面が照明を受けて艶めいた。


 脂が淡く光り、

 赤身との境目に細い白いラインが走る。


『……ッ……ナンダ……コレハ……』


 刀身の奥で、何かがざわついた。


 冷たい妖気が、

 切り口から立ち上る“肉の匂い”に触れ、

 予想外の反応を見せる。


『アマイ……アマミ……?

 コレハ……チデハナイ……タマシイデモナイ……

 ナノニ……ウマミ……?』


「お前、味がわかるのか?」


 コウタが興味深そうに聞くと、

 黒い刃は震えながら、低く答えた。


『……ワカラナイ……ハズ……ダ……

 ダガ……ココロ……ノ……ドコカガ……

 コノ……アブラノ……ヒロガリヲ……“ウマイ”ト……サケンデル……』


「だったら、それでいいじゃねぇか」


 コウタは肩をすくめ、肉を次々と切り分けていく。


 脂の入り方、筋の流れ、肉の張り。

 それを指先で確かめながら、

 最適な厚さ、形に整えて積み上げる。


 喰うための形へと“整えていく”動き。


 それは、戦場で人を斬る剣とは違う、

 “命を別の形に繋ぐための斬撃”だった。



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「さて……焼くか」


 鉄板を熱し、

 コウタは切り終えた肉の一枚を、そっと乗せた。


 ジュゥゥゥ――ッ!!


 脂が弾け、

 香りが一気に空気の表面を塗り替える。


 肉の表面がわずかに色づき、

 溶け出した脂が端へと流れていく。


 その瞬間、黒い刀が大きく震えた。


『ッッ……!?

 コノ……カグワシサ……ハ……ナンダ……!』


「焼きの香りだよ。

 脂が溶けて、たんぱく質が反応して、

 人間を笑顔にする悪魔みたいな匂いになる」


 コウタは、片面だけ焼き目をつけてから裏返す。

 中はまだほんのり赤い。


 肉汁が、鉄板の上で小さな泡になって踊った。


「よし、こんなもんだな」


 火から外した肉を、

 コウタは喰刃の切っ先にそっと触れさせた。


「ほら、“味見”してみろ」


 黒い刃が、その情報を“吸い込む”。


 次の瞬間――


『――――ッッッ!!』


 叫びとも呻きともつかない声が、

 刃から漏れた。


『アマイ……アマイ……

 シオ……スコシ……コウソ……トケ……

 アブラ……ヒロガリ……ナンナンダコレハ……

 コレガ……ニク……?』


「そうだ。

 これが“焼いた肉”だ。

 今まで血と魂しか知らなかったんだろ?」


『チノアジハ……カラカッタ……

 ニクノアジハ……アマカッタ……

 タマシイノアジハ……ニガカッタ……

 コレハ……ナンダ……コレハ……』


 喰刃は、震えを止められなかった。


 血と魂を啜ってきた長い年月。

 そのどちらとも違う“第三の快楽”が、

 刀の奥に直接流れ込んでくる感覚。


 それに、抗えない。



---


「次、ランプいくぞ。赤身寄りだ」


 コウタは別の部位を取り出し、

 また喰刃を使って切っていく。


 断面から立つ匂いがさっきとは違うことに、

 喰刃はすぐ気づいた。


『サキホドノモノト……カオリガ……チガウ……?

 アッサリ……ダガ……ミガツマッテイル……』


「肩ロースより赤身が多いからな。

 脂ばかりが旨いわけじゃないんだ。

 肉の世界は広い」


『……ヒロイ……?

 コノ……セカイ……

 チトタマシイダケデハ……ナカッタ……?』


「当たり前だろ。

 世界には肉も魚も、野菜も香草も調味料も、

 山ほど“旨いもの”がある」


 喰刃の妖気が、わずかに揺らいだ。


 今まで“奪うこと”しか知らなかった存在が、

 初めて“味わう”という概念に触れた瞬間だった。



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 一通り、仕込みを終えたあと。

 コウタは喰刃をまな板の上に寝かせ、じっと見つめた。


「お前さ」


『……ナンダ……』


「名前、あるのか?」


 一拍。


 空気が、変わった。


 さっきまでの慌ただしい調理場の空気が、

 急に深い水の底みたいな静けさに変わる。


 黒い刀身から、ゆっくりと妖気が立ちのぼった。


『……アッタ……

 トオイ……ムカシニ……』


 低く、くぐもった声。

 けれどその奥に、誇りの残滓のようなものが確かにあった。


『センジョウデ……タマシイヲクイ……

 ニクヲ……キリ……

 アラユルモノノ……“ホンシツ”ヲ……アジワッタ……』


「……“肉も”か」


 コウタの口元がニヤリと歪む。


 黒い刃が、かすかに笑ったように見えた。


**『ワレノナハ――』


 ――妖断刀喰刃(クイバ)


 ソレガ……ワタシダ』**


 刀身が、ぼうっと一瞬だけ淡く光る。

 威圧ではなく、“名乗り”の光。


 コウタはそれを真正面から受け止めた。


「喰刃、ね。

 よく似合ってるじゃねぇか」


『……フン……

 オマエ……ソノナヲ……オソレ……ナイノカ……?』


「恐れる理由がない。

 さっきからお前の斬れ味と感想聞いてたら、

 どう見ても“食いしん坊な刃物”だしな」


『……タワケガ……』


 喰刃は小さく音を立てて揺れた。

 それは不快というより、

 どこかむず痒そうな反応だった。


「喰刃。

 これからうちの“仕事用”の刃物として付き合ってもらう。

 人は斬らせない。

 けど、肉はたっぷり斬らせてやるよ」


『……ニク……

 サキホドノ……アジ……マタ……アジワエル……?』


「いくらでもだ。

 俺が生きてる限り、な」


 喰刃の妖気がふるりと震えた。


『……ヨカロウ……

 ワレ……喰刃……

 コノニンゲンノテニ……シバラク……オサマロウ……』


「よろしくな、相棒」


 コウタがそう言ったとき――

 冷蔵庫の上の箱から、野菜の束が少し転げ落ちた。


 ピーマンと、香草が数本。


 その一瞬。

 喰刃が“ビクッ”と目に見えるほど跳ねたのを、

 コウタは見逃した。


「……? どうした、喰刃」


『ナンデモナイ……

 ソノミドリノ……ヤツラヲ……コッチニチカヅケルナ……』


「いや、今なんか言ったろ」


『キノセイダ!!』


 やけに強い否定に、

 コウタは首をひねりながらピーマンと香草を拾い上げた。


 このとき、

 “喰刃の天敵”が野菜であることを知る者は、

 まだ誰もいない。



---


「……ま、いいか」


 コウタは喰刃を丁寧に拭き、専用の掛け台に乗せた。


「ようこそ、二丁目。

 ようこそ、アカマ精肉店。

 妖断刀喰刃


 黒い刀身は、静かにそこに在る。


 血を求める妖刀は――

 肉の香りに包まれたこの小さな店で、

 ゆっくりと、違う“飢え”に目覚め始めていた。


 それがやがて、

 世界の“食の在り方”すら揺るがすことになるとは、

 このときの誰も想像していない。


 喰刃自身ですら、まだ――。

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肉屋で買った魔剣、なぜかグルメになる ジード @j33d

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