第6話「銀色の髪に触れる指」
陽向が作る温かい食事は、涯狼の心を確実に溶かしていった。彼は相変わらず口数が少なく、表情も険しいままだったが、陽向に向ける視線には、明らかに以前とは違う種類の熱が宿るようになっていた。
食事の時、陽向が自分の隣に座るのが当たり前になった。陽向が差し出す器を黙って受け取り、陽向が「美味しいですか?」と尋ねると、ぶっきらぼうに「ああ」と返す。その短いやり取りが、二人にとってかけがえのない時間になっていた。
ある晴れた日の午後、陽向は薬草畑の手入れをしていた。すると、不意に背後から声をかけられる。
「…手伝う」
振り返ると、そこに涯狼が立っていた。彼は陽向の返事を待たずに畑に入ると、その大きな手で雑草を抜き始めた。その手つきは、見た目に反してとても丁寧だ。陽向が育てている薬草を傷つけないよう、慎重に作業を進めているのがわかる。
「ありがとうございます、涯狼さん」
陽向がお礼を言うと、涯狼はちらりとこちらを見ただけで、何も答えなかった。けれど、彼の銀色の耳が、少しだけ嬉しそうにぴくぴくと動いているのを陽向は見逃さなかった。
二人で並んで黙々と作業をする。時折、手が触れ合いそうになり、そのたびに互いを意識して、ぎこちない空気が流れた。陽向は、涯狼の横顔を盗み見る。陽の光を浴びてきらきらと輝く銀色の髪。すっと通った鼻筋。固く結ばれた唇。恐ろしいと思っていたその顔が、今はとても頼もしく、そして何故か切なく見えた。
『この人は、ずっと一人で戦ってきたんだ』
呪いの苦しみと、周囲からの畏怖。誰も彼のそばに寄ろうとはしなかった。この広い屋敷で、彼はたった一人、孤独に耐えてきたのだ。そう思うと、陽向の胸がきゅっと締め付けられるようだった。
作業を終え、縁側で並んでお茶を飲んでいる時だった。涯狼の髪に、畑の土が少しついているのに陽向は気づいた。
「涯狼さん、髪に土が…」
陽向は無意識のうちに手を伸ばし、その銀色の髪にそっと触れた。指先が髪に触れた瞬間、涯狼の体がびくりと大きく震える。その反応に、陽向もはっとして慌てて手を引っ込めた。
「ご、ごめんなさい!なれなれしいことを…」
「…いや」
涯狼は、陽向から顔を背けたまま、低い声で呟いた。
「…人に、髪を触られたのは、初めてだ」
その声は、少しだけ震えているように聞こえた。陽向は何も言えなくなってしまう。涯狼はゆっくりと陽向の方を振り返った。その赤い瞳が、まっすぐに陽向を捉える。
「陽向。お前がここへ来てから、俺の世界は変わった。お前の作る香りは俺の苦しみを和らげ、お前の作る飯は冷え切っていた腹を温める。お前の声は、俺の心を穏やかにする」
それは、涯狼が初めて陽向に伝えた、素直な気持ちだった。
「俺は、呪われている。いつまた理性を失い、お前を傷つけるか分からない。…それでも、お前に、そばにいてほしいと思ってしまう」
涯狼は、苦しげに顔を歪めた。その瞳に浮かぶのは、陽向への渇望と、彼を危険に晒すことへの罪悪感。その葛藤が、陽向にも痛いほど伝わってきた。
陽向は、もう一度、そっと涯狼の手に自分の手を重ねた。
「僕は、どこへも行きません。あなたのそばにいます。あなたが、僕を必要としてくれる限り」
陽向の温かい手が、涯狼の冷えた指を包み込む。涯狼は、驚いたように目を見開いた後、ゆっくりとその手を握り返した。それは、初めて交わす、心と心の触れ合いだった。
この日を境に、涯狼は陽向への独占欲を隠さなくなっていった。他の獣人が陽向と親しく話していると、不機嫌そうに唸り声を上げて間に割って入ってくる。陽向が少しでも体調を崩せば、鬼の形相でつきっきりで看病する。
その過保護で独占欲の強い愛情表現は、どこか子供じみていて、陽向にはそれがたまらなく愛おしく感じられた。
孤独な狼は、ようやく自分の番を見つけ、その温もりを手放すまいと必死になっている。その一途な想いが、陽向の心をますます強く惹きつけていくのだった。
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