第2話 懐中時計の代償

 酒場の奥で、アルジャーノンとトマスが向かい合った瞬間、空気は一変した。

 酒と煙草の匂いが渦巻くこの薄暗い部屋に、妙な静寂が広がる。それは決して“静か”ではなく、むしろ張り詰めた、切れば血が滲むような緊張だった。


 ジェームズは主の背後にぴたりと立ち、まるで影が人の形を取ったように動かない。

 視線だけが、テーブルとトマス、そしてアルジャーノンの手元を鋭く追っていた。


 ――この家令は危険だ。

 トマスはそれを本能で感じ取っていた。

 だが同時に、そんな男が背後に控える人物とこうしてカードを交えるという事実に、奇妙な興奮を覚えていた。


 アルジャーノンの指がカードを切る。

 その動きは、子どもの目には信じられないほど滑らかで、淀みない。


「トマス。お前はこの勝負に、何を賭けている?」


 老人の声は低く、まるで試すようだった。


「……俺の人生の一部です」


 トマスは答えた。震えている自覚はあったが、それを押し殺した。


「いい返答だ。ならば私は――」


 懐中時計が、老人の手の中で淡く光った。


「私の“興味”を賭けよう」


 興味。

 それがこの男にとってどれほど重い意味を持つのか、トマスはまだ知らなかった。


 カードが配られる。

 一枚、二枚。

 お互いに伏せられたカードを確認し、チップを置く。


 トマスは相手の癖、視線、呼吸のわずかな動きを読むことに集中した。

 路地裏で培ってきた生存の技術が、ここで初めて“ゲーム”として使われている。


 老人の目は微動だにしない。

 しかし、その口元のわずかな曲線は

「私の化けの皮を剥がしてみろ」

 とでも言っているようだった。


 ラウンドが進むにつれ、酒場の客たちは固唾を呑んで見守るようになった。

 誰もが知っている。この老人の前でイカサマなどしたらどうなるかを。

 だがこの少年は違う。

 真正面から、正攻法で勝負を挑んでいる。


「……なるほどな」


 アルジャーノンがふっと笑った。


「面白い。躊躇がない」


「負けたくありませんから」


「そうではない。お前は“生きるため”に賭けている。

 それは……私が若い頃の誰かを思い出す」


 ジェームズの視線が一瞬だけ揺れた。

 老人の“昔話”など、めったに聞けるものではないのだろう。


 最後のカードがめくられる。

 酒場にいる誰もが、息を止めた。


 アルジャーノンの手札は――強い。

 だが、トマスのほうがわずかに上回っている。


 勝った。


 自分の脈が大きく跳ねる。


 その瞬間――


「ふぅ……」


 老人は、深い溜息とも感嘆ともつかぬ息を吐き、ゆっくりと背もたれにもたれかかった。


「見事だ」


 アルジャーノンは懐中時計を持ち上げ、トマスの前にぶら下げた。


「これは、お前のものだ。

 取るがいい」


 トマスの心臓は激しく打ち、その手は震えていた。

 手を伸ばせば届く。

 路地の子どもが、貴族から大切なものを勝ち取るなんて、夢のような──いや、悪夢のような出来事だ。


(取っていいのか……?)


 一瞬、迷いが生まれた。

 その瞬間、


 ――ぱちん。


 乾いた音がして、世界が跳ねた。


 老人の杖の先が、静かに床を叩いたのだと気づいたときには遅かった。

 トマスの頭の奥に、重い衝撃が走り、視界が揺れる。


「ッ……!」


 足元が崩れ落ちるように感じ、体に力が入らなくなる。


(な、に……?)


 酒場の灯りが滲み、世界がぐるりと回った。

 視界の端に、ジェームズの黒い影がすっと動くのが見えた。


 アルジャーノンは、眠る前の子どもに語りかけるような声で呟いた。


「お前は良い手駒になる。

 そして……私を退屈させない」


 笑っている。

 この老人は、本当に“楽しんでいる”のだ。

 自分の人生を、手で遊ぶかのように。


 トマスは最後の力で、懐中時計の金色を目に焼き付けた。


(ジェド……ネル……リリィ……)


 名前を思い浮かべたところで、感覚が黒く沈んでいった。


 こうして“勝利”は、彼を牢獄へ突き落とす鍵となった。


 ***


 トマスが目を覚ましたとき、そこは見たことのない部屋だった。


 天井は高く、壁には大きな絵画が並び、窓辺には重厚なカーテンが垂れている。

 シーツは柔らかく、体にかけられた毛布はふかふかで、灰街のどんな冬でも耐えられるほど暖かかった。


「……ここどこだ……?」


 上半身を起こそうとした瞬間、扉がノックもなく開いた。


「お目覚めですか、トマス」


 淡い金髪に冷静な表情。

 家令ジェームズ・ハワードが、静かな足取りで入室した。


 トマスは身構え、掛け布団を握りしめた。


「なんで……俺……」


「旦那様がお連れしました」


 淡々とした声。

 怒りも、憎しみも、情もない。

 ただ業務として必要なことだけを告げるような、乾いた声音。


「勝負に勝ちましたね。おめでとうございます」


 なのに、その言葉がまるで皮肉のように聞こえるのはなぜだろう。


「……連れてくる必要、なかっただろ……!」


 トマスが掠れた声で言うと、ジェームズは首をわずかに傾げる。


「必要かどうかを決めるのは、旦那様です」


 そして、扉の隙間からまた一つ影が入る。

 アルジャーノン・グレイだった。

 昼間、酒場で見た老貴族よりも、家の中の彼はさらに威圧感を纏っていた。


「逃げてもよかったんだぞ?」


 老人は開口一番、そう言った。


「……なんだよ、それ」


「目を覚ましたお前が“逃げる”という選択をするなら、その姿をどこまでも楽しんで追ってやった。

 だが――」


 老人は窓辺へ歩き、カーテンの隙間から外を見下ろした。

 その背中は、城を治める王のように揺るぎない。


「逃げたところで、路地の子らが無事でいられる保証は、どこにもないがね」


 トマスの心臓が止まった。


「……ッ!」


 老人は振り返らないまま、静かに続ける。


「お前がどこへ逃げようが、彼らはこの街にいる。

 そして私は、この街を“治めて”いる。

 理解できるな?」


(ジェド……ネル……リリィ……!)


 胸の奥が痛む。

 怒りと恐怖が混ざり、喉が焼けるようだった。


「……卑怯だ」


 震えた声で言うと、アルジャーノンは肩越しにこちらを一瞥した。


「その通りだ。

 だが、卑怯さを理解できる者でなければ、生き残れん」


 老人は優雅な所作で椅子に腰を下ろした。


「さて、トマス。

 これからお前には――私の“影”として働いてもらう」


 それは、契約のような、宣告のような響きを持っていた。


「そんなの……嫌だ」


「嫌だろうとも。

 だが選択肢は、先に提示した通りだ」


 ジェームズが無言で一歩横に動き、トマスの表情を読み取った。


「……あいつら……ジェドたちには……手を出すな」


 トマスは搾り出すように言った。


「それは、お前次第だ」


 アルジャーノンの答えは簡潔だった。

 そして残酷だった。


 ***


 その後、トマスは屋敷の使用人部屋に移され、最低限の荷物を与えられた。

 寝る場所はある。

 食事も、灰街のどんな豪勢な日より温かい。


 けれど――胸の奥の空白は埋まらない。


 初日の夜、トマスは一睡もできなかった。

 暖かい毛布が逆に気味悪くて、身体のどこにも落ち着きがなく、目を閉じると仲間の顔ばかり浮かんだ。


 ジェドの怒った顔。

 ネルの心配そうな声。

 リリィの小さな手。


(俺……勝ったはずなのに……なんで……)


 手に入れたはずの懐中時計は、今はアルジャーノンの部屋にある。

「持つ資格ができたら渡してやる」

 そう言われた。


 勝利は、ただの餌に過ぎなかったのだ。


(俺は……ここから逃げられない)


 それどころか――

 逃げたら、もっと大切なものを失う。


 こうして、

 トマスは“勝った直後に人生で最も大きな敗北”を味わった。


 そしてその敗北は、アルジャーノンの思惑どおり彼の人生を絡め取り、二度と逃げられない枷となっていく。


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