『灰の庭に咲く花』―グレイ家遷移録・第一巻
あべかわきなこ
第1話 灰街(はいがい)の子どもたち
雨上がりの灰街は、いつも少しだけ臭いが増す。
石畳の隙間に溜まった水たまりには、煤と泥と、どこからか流れてきた油が浮かんで虹色の膜を張っている。その上を、馬車の車輪と人間の靴と野良犬の足がぐしゃりと踏みつぶしていくたび、ねっとりとしたものが路地に伸びた。
その路地のいちばん奥、壁と壁の隙間にむりやり押し込んだみたいに建てられた、傾いた小屋が一つある。
そこがトマスたち四人の家だった。
と言っても、ちゃんとした家ではない。
壁はあちこち割れていて、風が吹けば隙間から冷たい空気が入り込み、屋根は雨のたびに新しい染みを増やしていく。それでも四人で身体を寄せ合えば、凍えることはないし、風が鳴る夜もあまり怖くなかった。
「……トマス、起きてる?」
薄い毛布の端から、ぐい、と小さな手が顔を覗かせる。まだ夜の冷たさを残した早朝の空気の中で、リリィの声は、かすれているのに妙に明るかった。
「うん。起きてる。」
トマスはわざとらしく大げさにリリィを抱きしめて、小さな体を引き寄せた。毛布の中、彼の頬に彼女の淡い金髪がくすぐるのを感じながら、少しだけ体勢をずらした。
「リリィは重たくない?」
「大丈夫。ジェドの方が重たい。」
ぼさぼさの黒髪をかきむしりながら、ジェドが毛布の端から顔を出した。十三歳の少年にしては背も声もよく通るほうで、半分眠そうな目をしていても、路地ですれ違う大人たちからは一目置かれている。
「はあ? オレのどこがだよ。筋肉って言え、筋肉って」
「筋肉でも重いもんは重いんだよ」
トマスが肩をすくめ、ネルがくすくすと笑った。
「ジェドの筋肉はね、リリィを抱っこするための筋肉だから、いいの。ね?」
ネルは十一歳らしい素直な笑顔で言って、リリィの髪を撫でた。栗色の髪が、窓代わりの板の隙間から差し込む朝の光を受けて、淡く光る。
ここ数日、夜の雨が続いたせいで木の床はところどころ湿っていた。小屋の中の空気は冷たいが、小さな火鉢に残った炭のおかげで、かろうじて凍えるほどではない。
「……さて、と」
トマスは上体を起こし、毛布を跳ねのけた。薄いシャツと擦り切れたズボンだけの身体に、朝の冷気が容赦なくまとわりついてくる。
「今日は、賭場のほうに行こうと思う」
「今日も?」ネルが顔を上げる。「最近、ポーカーばっかりじゃない?」
「新聞売りより手っ取り早いし、外れたらジェドの懐から抜けばいい」
「おい」
ジェドが枕代わりの麻袋をどん、と床に叩きつける。
「オレの稼ぎは、オレと……ま、四人のものだろ? 勝手に『抜く』とか言うな。お前がやるのは抜くじゃなくて“勝つ”だ」
言葉とは裏腹に、ジェドの口元はどこか誇らしげだ。
トマスのカードさばきが、路地の小さな酒場でちょっとした噂になっていることを知っているからだ。
「わかってるよ。だから今日も行くんだ」
トマスは笑って、ひび割れたテーブルの上の缶から、丁寧に溜めた硬貨を数枚抜き取った。今日の軍資金だ。
「ネルは?」
「わたしは新聞売り。今日は競馬の記事が載ってるはずだから、いつもより売れるよ。ほら、雨上がりはみんな外に出たがるもの」
ネルは胸を張り、小さなかごを手に取った。そこには昨日の残りの新聞が二、三部丸めて入っている。残りは配達所で受け取る予定だ。
「リリィは……」
「リリィはね、歌うの」
まだ六歳のリリィは、嬉しそうに言って首を傾げた。
「おばあちゃんのところで歌ったら、パンくれた。今日も歌うの」
「うん。行く前に、パンはちゃんとオレかネルが確かめるからな。カビてたらお腹壊す」
「わかってるもん」
頬をふくらませるリリィの頭を、トマスはぎゅっと軽く抱きしめた。
――この腕からは、絶対に離さない。
心の中で、何度目か分からない誓いを繰り返しながら。
四人分の朝食は、昨日の残りのパンと、冷たくなったスープを火鉢で温め直したものだった。パンは固く、スープは薄い。けれど四人で囲めば、不思議と胸の奥が温かく満たされる。
「ねえ、トマス」
スープをすすりながら、ネルがふと思い出したように口を開いた。
「昨日、市場の近くで聞いたんだけど……このあたりを治めてるグレイ卿が、町に来るって。本当かな」
「グレイ卿?」
トマスが眉をひそめるより早く、ジェドが鼻で笑った。
「ああ、あの“灰街の上に座ってるやつ”だろ。馬車から降りもしないで、人の人生を決めてるつもりの貴族さまさ」
ジェドの声には、幼さに似合わない皮肉と怒りが滲んでいた。
「でも、本当に来るなら……」ネルは周囲を見回すように、小声になる。「わたしたち、追い出されたりしないかな」
「今さらだろ。ここ追い出されたところで、行くとこなんかどこにもない」
トマスは乾いた声で答えた。事実だった。
灰街の子どもたちは、誰一人として「帰る場所」を持っていない。
家族を失った者、親に捨てられた者、あるいは、家族そのものが灰街で野垂れ死んでしまった者。
トマスも、ジェドも、ネルも、リリィも、その中の一人だ。
「……でもさ」
リリィがスプーンをいじりながら、ぽつりと言った。
「偉い人が来たら、この町、少しは良くなるのかな。ごはんとか、増えたりする?」
その問いには、誰もすぐに答えられなかった。
トマスはわずかに目を伏せ、冷めかけたスープを飲み干す。
「さあな」
ようやく絞り出した言葉は、どうしようもなく頼りない。
「貴族なんて、こっちの顔なんか見ない。見なきゃ、何も変わらない」
「ふーん」
リリィはよくわからないといった表情で首を傾げると、すぐに笑顔を取り戻した。
「じゃあ、トマスが偉くなればいいんだよ」
「なんでそうなるんだ」
「だって、トマス、賭けポーカー強いもん」
「偉いの意味がちょっと違うぞ、リリィ」
ジェドが吹き出し、ネルが笑い、トマスもつられて笑った。
ひとしきり笑い合ってから、四人はそれぞれの「仕事」へ出かける支度を始める。
ボロボロのコートを羽織り、穴だらけの靴に紐を通し、ジェドはポケットの中のナイフと針金の感触を確かめた。
トマスは古いカードの束を上着の裏に隠し、ネルは籠を提げ、リリィは小さなマフラーを巻いた。
「行ってきます」
「行ってきな。ちゃんと昼には一度戻ってこいよ」
ジェドが子どもたちの頭を次々にぽん、と叩く。
その仕草は、年齢よりずっと大人びて見えた。
小屋の扉……というには心許ない板切れを押し開けると、灰街の喧騒が一気に流れ込んでくる。
匂い、怒号、笑い声、馬車の車輪の音。
それは、トマスたちにとっての「世界」そのものだった。
***
午前中、ネルとリリィをそれぞれの持ち場へ送り届けてから、トマスとジェドは市場近くの広場へ向かった。
すでに人でごった返したその場所の一角で、妙なざわつきが起こっている。
「なんだあれ」
ジェドが顎で示した先を、トマスは背伸びして覗き込んだ。
黒塗りの馬車が二台、並んで停まっている。その車体は泥一つついておらず、窓枠には銀の装飾が施されていた。
馬車の前後には、制服を着た男たちが立っている。
そして、馬車の扉の前には――
「あれが、グレイ卿か」
ジェドが低く呟く。
その視線の先には、上質なコートをまとった老人が立っていた。
髪は白く、しかし背筋はまっすぐ伸び、瞳だけは研ぎ澄まされた刃物のように鋭い。
その隣には、黒い燕尾服を纏った男が静かに控えている。動き一つ乱れず、主より半歩後ろに立つ、その姿は完璧な影のようだ。
アルジャーノン・グレイ。
そして、その傍らに立つ家令ジェームズ・ハワード。
灰街の住人たちは、遠巻きに彼らを眺めていた。誰も近づかない。
近づいても得はないし、遠ざかったところで逃げ切れる相手ではないと、全員が本能的に悟っているからだ。
「……見下ろしてやがるな」
ジェドの声には毒が含まれていた。
アルジャーノンは、広場をぐるりと見渡しただけで、灰街の住民一人一人を値踏みしたようだった。
視線の動きはゆっくりだが、決して何も見落としてはいない――そんな印象を与える。
その目が、一瞬だけトマスたちのほうをかすめた気がした。
トマスはぞくりと背筋を震わせる。
目が合ったわけではない。だが、自分という存在が、その老人に「認識」されてしまったような感覚があった。
「行こう」
ジェドがトマスの手首を軽く引いた。
「あいつらを見てても、腹はふくれない。オレはオレで仕事だ」
「ああ」
トマスは頷き、老人とその影――ジェームズから視線を外した。
その光景は、彼の心のどこか深い場所に、冷たい印を残していった。
***
昼過ぎ、四人は一度だけ小屋に戻り、それぞれの成果を持ち寄った。
ネルの新聞売りはそこそこ、リリィはパンを二切れと古いチーズを手に入れ、ジェドは財布を二つ抜いてきた。中身は思ったほどではなかったが、それでも数日はしのげる額だ。
「じゃあ、最後はトマスの稼ぎに期待かな」
ネルが笑う。トマスは肩をすくめた。
「運が悪ければ、全部すっちゃうさ。そのときはジェドが働く」
「人の財布あてにしてんじゃねえ」
軽口を交わしながら、トマスは小屋を出た。
夕暮れが近づくにつれて、空はどんよりとした灰色を濃くしていく。
風は冷たいが、雨は降りそうにない――賭場にはうってつけの夜だった。
目指すのは、灰街の外れにある小さな酒場だ。
表向きは酒を出すだけの店だが、奥の部屋では毎晩のようにカードやサイコロが転がっている。
トマスはすでに何度かそこでポーカーをしており、その腕は賭場の常連たちに少しずつ知られ始めていた。
ギイ、と重い扉を押し開けると、煙草の煙と酒の匂いがどっと押し寄せる。
薄暗い照明の下で、笑い声と怒声が入り混じっていた。
「お、ちび坊主」
カウンターの向こうから、店主がぶっきらぼうに手を振った。
大柄で、片目に傷のある男だが、トマスにとっては数少ない「顔見知り」だった。
「来たか。今日は暇つぶしか? それとも稼ぎに?」
「もちろん稼ぎに」
トマスはにやりと笑い、ポケットから二、三枚の硬貨を指の間で踊らせて見せる。
「負けたら、皿洗いでも何でもするよ」
「そうかい。……だが今日は、いつもと少し違うぞ」
店主の声の調子が変わった。
トマスが首を傾げると、男は顎をしゃくって奥のテーブルを示した。
「見ろ。お前、このあたりの噂、聞いてなかったのか?」
視線の先――奥まった場所に、一際静かなテーブルがあった。
そこに座っているのは、昼間広場で見た老人と、その隣に控える黒服の男だった。
「……グレイ卿」
トマスは思わず、息を止める。
アルジャーノン・グレイは、昼間と変わらぬ姿勢で椅子に腰掛けていた。
卓上にはカードの束と、整然と積まれたチップ。
その背後、半歩下がった位置には、ジェームズが控えている。酒場の薄闇の中でも、彼のシャツの白さと燕尾服の黒さはくっきりと際立っていた。
こんな場所にまで、あの老人と家令は連れ立って来ているのだ。
主と従者、という言葉だけでは表せない、何か固い鎖のようなものが二人を結んでいるように見えた。
「グレイ卿らしいな」
店主が肩をすくめる。
「この辺りの治安がどうのこうのって視察に来て、ついでに賭場も見てやろうって腹だろう。ありゃあ、どこへ行っても“遊び”を忘れねえ人間だからな」
「……あの人が、遊んでるように見える?」
トマスは、老人の横顔を盗み見る。
唇は薄く結ばれ、眼差しは静かにテーブルの上を行き来している。
その視線の先には、対面に座る男――汗をにじませながらカードを握りしめる、中年の賭博師の姿があった。
「ほら、あのテーブル。お前、ああいうの、得意だろ?」
店主は面白がるように笑う。
「あの男、さっきから小細工ばっかりやってやがる。カードの角を立てたり、袖に隠したりな。でもグレイ卿は気づいてない振りをしている。……こわい遊びだ」
トマスはもう一度、テーブルをじっと見つめた。
確かに、中年の賭博師の指先には不自然な動きがある。
カードの切り方、配り方、チップの置き方――目線の動き――
(やってる……)
トマスの中で、何かがかちりと噛み合った。
そして、そのすべてを、老人だけでなく、その後ろに立つジェームズもまた見逃していないことに、トマスは気づいてしまう。
ジェームズの瞳もまた、カードと男の手元、そして主の顔を交互に追っていた。
もしも男が一線を越えれば、次の瞬間には何かが起こる――そんな張り詰めた空気が、二人の周囲を包んでいた。
「なあ、坊主」
店主が、低く囁いた。
「にらめっこしてる暇があったら、さっさと帰りな。あのテーブルに近づくのは、得策じゃねえぞ」
トマスは唇を噛んだ。
その忠告が正しいことは分かっている。
あの老人と視線を交わしただけで、昼間、背筋が凍りついたのだ。
――それでも。
胸の奥が、ざわりと波立っている。
貧民街の誰もが、彼らを「雲の上の連中」と呼び、遠巻きに眺めるだけで終わってきた。
けれどトマスは、カードを握りしめてここまで生き延びてきた。
どんな大人も、どんなならず者も、テーブルの上では平等だ。
札の並びと賭け金の重さだけが、人の運と知恵を測る。
(あいつの“遊び”が、どれほどのものか――)
自分の喉が、からからに乾いていることに気づく。
怖い。けれど、それ以上に、見てみたいと思ってしまう。
試してみたいと思ってしまう。
「……ねえ、親父さん」
トマスは、かすかな震えを押し隠して言った。
「もし、あの男のいかさまを止めたら、怒るかな。グレイ卿」
「さあな」
店主は肩をすくめた。
「だが、あの老人は“つまらねえ嘘”が嫌いだぜ。お前も、何度か見ただろ?」
「……一度だけな」
以前、別の客が露骨ないかさまをした時、アルジャーノンがどうしたか――トマスはその光景を思い出す。静かな声で男の手元の癖を指摘し、笑ってテーブルから締め出したのだ。
そのときも、背後にはジェームズが立っていた。
主の一言で、店内の空気は一変した。
(だったら、今回は……)
トマスは軽く息を吸い込んだ。
足が自然とテーブルのほうへ向かう。
「おい、坊主!」
店主の制止が飛んだが、もう遅かった。
トマスは静かに、しかしはっきりとした足取りで、アルジャーノンたちのいるテーブルへ歩み寄った。
酒場の喧噪が、少しずつ遠ざかっていくように感じる。
耳に聞こえるのは、自分の心臓の鼓動と、カードが擦れ合う微かな音だけ。
「――そこまでにしておいたほうが、いいと思います」
テーブルのそばに立ち止まり、トマスはそう言った。
中年の賭博師がぎょっとして顔を上げる。
アルジャーノンの視線が、ゆっくりとトマスに向けられた。
その背後で、ジェームズの瞳がかすかに細められる。
「……なんだ、坊主」
賭博師が怒りを含んだ声を出す。
「子どもは黙ってろ。ここは大人の――」
「大人の遊びですよね」
トマスは遮った。
「だったら、ちゃんとしたルールでやるべきだと思います」
言いながら、トマスは男の袖口と指先をちらりと見る。
そこに隠された印――カードの角に刻まれた、ほんの僅かな傷。
そして、配り方の癖。
「さっきから、同じ癖、出てますよ」
沈黙が落ちた。
酒場の喧噪すら、いつもより遠く感じられる。
「へえ」
最初に声を発したのは、アルジャーノンだった。
老人はゆっくりと背もたれにもたれ、トマスを眺める。
その瞳には、怒りよりも、むしろ愉悦に近い光が浮かんでいた。
「お前は、ここで何をしている?」
「ポーカーをしに来ました」
トマスは一歩、テーブルに近づく。
「それと――あなたの“遊び相手”を、少しはマシなやつに替えたほうがいいんじゃないかと思いまして」
酒場のどこかで、くつくつと押し殺した笑いが漏れた。
賭博師の顔が真っ赤になる。
「このガキが……!」
「落ち着け」
アルジャーノンが、カードを置く音も静かに言った。
賭博師は椅子の上でびくりと身じろぎし、それ以上は何も言えなくなった。
「面白い」
老人はふっと笑う。
「名は?」
「トマスです」
「トマス。お前、カードはどれくらいできる?」
「この町で食っていけるくらいには」
トマスは言いながら、自分の喉が渇いていることを意識した。
恐ろしい。
だが、引き下がるという選択肢は、不思議なほど頭に浮かばなかった。
アルジャーノンは、背後のジェームズに一瞥を送る。
ジェームズはほんのわずかに頷いた。
それだけで、何が合図なのか分からないのに、テーブルの空気が変わる。
「いいだろう」
老人は懐から、ひとつの小箱を取り出した。
艶のある木目の箱。蓋には細かな金の装飾が施されている。
カチリ、と留め金を外し、蓋が開く。
中から現れたのは、細工の入った、美しい懐中時計だった。
純金の鎖が、酒場の薄い灯りを受けて、ちらりと光る。
「これを賭けよう」
アルジャーノンは懐中時計を指先でつまみ上げ、トマスの目の前にぶら下げてみせる。
「お前が私に勝ったら、これをやる。負けたら――」
一拍、言葉を置く。
ジェームズが静かにトマスを見つめている。
その視線は冷静で、しかしどこか測るようでもあった。
「負けたら、お前は私の“好きに”させろ」
酒場の奥で、再び小さなどよめきが起こる。
トマスの背骨を、冷たいものが駆け上がった。
それがどれほど危険な賭けであるか、幼い彼にも分かる。
だが――
(勝てば、あの時計はオレのものだ)
金そのものの価値ももちろんだが、それ以上に、その時計を今ここで奪い取れるという事実が、彼の胸を震わせた。
雲の上の人間から、何かを引きずり下ろす。
それは、灰街の子どもが生まれて初めて手にする「勝利」かもしれなかった。
「どうする?」
アルジャーノンが問う。
トマスは喉の奥で唾を飲み込み、指を握りしめた。
「……やります」
そう言って、テーブルの前の空いた椅子を引く。
足が震えていないふりをしながら腰を下ろすと、目の前に座る老人の瞳が、ほんの少しだけ細められた。
その背後で、ジェームズが静かに位置を変える。
主と賭場のテーブルを、一歩離れた場所から見渡せる地点へと移動し、そこでぴたりと止まる。
まるで、これから始まる勝負そのものを監視し、必要とあらば即座に介入できるような――そんな立ち位置だった。
「では、始めようか。トマス」
アルジャーノンの手が、カードの束に触れる。
老人の長い指がカードを滑らせる音が、やけに鮮明に耳に届いた。
灰街の片隅の小さな酒場で、
一人の路地の子どもと、一人の老貴族と、その影のような家令が、同じテーブルに向かい合う。
それが、この先の人生を狂わせる一枚目のカードになることを、
この時のトマスは、まだ知らなかった。
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