第一章 ある男の日常
男は気怠い微睡みから、徐々に頭を覚醒していった。換気していない部屋のむわっとした空気を肺に取り込む。壊れたエアコン代わりの古ぼけた扇風機が、昼の熱風を運んでくる。キッチンでは冷蔵庫が寿命近しい低音を上げていた。
アパートの一室、男は敷きっぱなしの煎餅布団から上体を起こした。まずはアラームもかけていないスマートフォンを確認する。通知は何も来ていなかった。部屋の壁掛け時計は止まったままであるから、時刻を確認するにはスマートフォンしかない。デジタルの表示が十一時四十二分を示していた。
男は七月上旬の生温い蒸し暑さを感じながら、端末を弄る。どうでもいいSNSの短文を頭に流し込んだ後、頭を使わずに出来るマージゲームをして時間を潰した。遠くで蝉がけたたましく鳴いている。外界は生命の光輝で充満しているのに対し、部屋の中は墓場のように死んでいた。
三十分後、ようやく男は布団から抜け出した。築四十年の古アパートであるが、内装だけは数年前にリフォームされている。壁も床も新しい。だが、ナチュラルウッドのフローリングには埃が積もっていた。男は構わず素足で床を踏みしめ、ユニットバスへと向かう。物憂い心情とは裏腹に足音だけは軽く軋んで、まるで自分が浮遊しているようだった。
「髭……はまあいいか」
鏡を見ながら呟く。歯磨きすら億劫で、洗顔と排尿だけ済ませた。男はそこから出ると、キッチンと六畳の部屋に視線を滑らせる。
部屋の内壁は不自然な程明るい均一な白である。その割に押入れはリフォーム前の黄ばんだ襖のままで、全体的にちぐはぐな印象を受ける。
部屋の片隅には何年も見ていないテレビがあり、その前を塞ぐように実家から持ってきた襤褸の一人掛けソファがある。その上には洗濯物が山積みになっていた。コインランドリーに行くのを忘れてだいぶ経つ。男はそれを一瞥したものの、何をするでもなく、部屋の真ん中にある卓袱台の前に座った。座布団は用を成さない程に潰れている。
卓袱台の上にはノートパソコンが昨日からつけっぱなしで置いてある。ブラウザのタブには求人サイトが数個と動画サイト、アダルトサイトが開かれており、男は惰性でそれらを巡回した。
「いい求人ないな……」
昨日も一昨日もその前も漏らした独り言を口にした。求人サイトにはここ数年応募すらしていない。
しばらくすると男は動画を見始めた。ずぼら飯の料理動画、心霊動画、購入品の開封動画――どの動画も興味はない。おすすめに表示された動画を一つずつ見ていく。
十三時五十五分、男はノートパソコンを閉じた。昼食を買いにコンビニエンスストアへ行く準備を始める。準備と言っても、服装は一昨日から着ているパジャマ代わりのTシャツのままである。どこか後ろめたく、マスクを深めに着用し、ソファの一番上に置かれた帽子を目深に被った。
梅雨とはいえ初夏である。今の時間は暑いだろうな、と閉口した。それでもコンビニへ行く。それが男の仕事代わりだった。男は外に出ると、アパートの外観を見上げた。
『ほたる荘』。それがこの四階建てアパートの名称である。阿佐ヶ谷駅南口から徒歩七分に位置し、室内はリフォームされているものの外観は古ぼけている。最近になって壁のモルタルの塗装をし直しただけで、外階段や手摺の鉄骨のペンキは剥げて錆びついている。同じく錆びた外廊下は雨天時には雨が吹き込んでくる。上階に行くほど夏場は暑く、お世辞にも住みやすいとは言えないが、駅から程近いので我慢している。
男の部屋は三階に位置している。当然エレベーターはないため、重い荷物を運ぶ時は汗だくになる。郵便ポストも玄関外にあり、郵便物を取りに行くのも一苦労だ。
男はアパートの外壁にある雨垂れの跡を数えた。――六本。昨日の雨で一本増えている。これを数えるのが男の日課である。
「暑いな……」
男はさらに帽子を深くした。日差しが強い上、アスファルトからの照り返しも酷い。来たる本格的な夏が思いやられた。
駅前のコンビニへ足を向ける。もう少しすれば、パールセンターは七夕まつり一色になるだろう。男は喧騒に包まれる町を憂えた。程よく草臥れた、活気と寂れの共存したこの町の居心地のよさが気に入っているというのに。
汗をかきながらとぼとぼと歩き、コンビニに着いた。ペットボトルの緑茶とのり弁当を購入する。いつもこれしか買わない。他の弁当に浮気することもなかった。男にとって食とは生命の維持でしかない。彼にはこのコンビニにおけるのり弁の妥協の味が身の程に合っていた。
「六百五十六円になります」
ポニーテールの可愛らしい女の店員のはきはきした声に、男は無言でスマートフォンをかざし電子決済をする。これで今日の任務は終いである。
帰りもアパートの雨垂れの数を数えた。六本。変わりはない。だが男にはこの流れが染み付いていた。アパートの外では他の部屋の室外機が唸りを上げている。
土埃が薄く積もった、マットのない玄関でスニーカーを脱ぎ捨てる。いつ頃からか洗っていない食器と、コンビニで貰ってきた割り箸の袋が山積みになった流し台を横目で見ながら、ペットボトルを冷蔵庫に詰める。冷蔵庫にはそれしか入っていなかった。コンビニのビニール袋を収納の取っ手に結び、簡易的なゴミ入れにする。のり弁は冷蔵庫にも入れず流し台の横に放っておいた。
本日大層なことをしていないのにも関わらず、華胥に誘われた。布団に入り、寝ているのかいないのかすら曖昧なまま、再びマージゲームをして無益に過ごす。
「腹が減ったな……」
スマートフォンが十六時二分を表示した時、ようやくのり弁を食べることにした。電子レンジで温めることもしない。蓋を開けた瞬間、黒、茶、白の地味な三色が目に飛び込んだ。海苔を敷かれた米の上に、ちくわ天、白身フライ、きんぴらが無造作に並べられている。隅には沢庵がこじんまりと添えられていた。美味しそうだとか不味そうだとか、そういった感情を全く抱かなかった。
まずはちくわ天に手を付ける。衣はのっぺりしており萎びていた。口に持っていくと、魚介の匂いというより油の残り香が鼻を突いた。さくさくした衣は死んでおり、ぬめっとした触感が口に広がる。やや甘じょっぱい薄い味がした。
次に米に手を伸ばす。ふっくらはしていない。海苔とちくわ天の油を吸い、局所的にぬちっとした部分がある。米と共に海苔がべろりと剥がれた。
白身フライは、きつね色というより油で黒ずんだ小麦色をしていた。古い油の匂いがする。何の魚か判らない淡白な味を頬張る。塩気は薄かった。ソースをかけるのも面倒くさく、そのまま食す。ぼやけた味がした。揚げ物というより濡れた段ボールのようだ。
場繋ぎにきんぴらに手を伸ばす。草臥れた牛蒡と人参の細切りは殆ど茶色をしており、少量かけられた白ごまだけが彩りを添えている。口に入れると砂糖とみりんと醤油の甘じょっぱさが強く、牛蒡の風味が霞んでいた。機械が作った副菜といった感覚が舌を支配する。
沢庵は辛うじて爽やかなぽりぽりとした食感が残っていたが、それを楽しむ心が男にはなかった。
それぞれの具材をローテーションで食べ進む。男にとって、こののり弁の味だけがこの世を現実だと教示してくれるものだった。それ以外の全てが希薄だった。夢現の間を彷徨する生活にはもう慣れきっている。
のり弁を完食した後、再びノートパソコンでサイトを巡回する。ふと、アダルトサイトで一つの動画が目に留まった。ポニーテールの女優が喘いでいる。男は昼間のコンビニ店員を女優に重ね、ズボンを下ろした。それは洗顔や排尿と同じカテゴリにある『作業』だった。右手は慣れた動きで股間に触れる。左手は動かない。
動きは単調で、リズムすら感情を伴わない。早めすぎず遅すぎず、どのタイミングで終わるかを知悉した動きで事を終える。誤作動した機械の液漏れのような射精があっても、脳は無反応だった。白濁した液体が出たことと、それを片付けなければならないという思考だけが残っている。遮光性のない灰色のカーテンが音もなく揺れていた。部屋は段々薄暗くなってきている。
「…………」
ティッシュを数枚取り、精液を拭く。その一連の動作にすら、快楽も虚無もなかった。キッチンのゴミ袋にティッシュを捨てに行くのも気怠く、床に放り投げる。そうして溜まったティッシュのゴミと、ポケットに突っ込んで後から取り出したレシートが床に散乱していた。
男は再びサイトの巡回を始めながら、今夜の夕食を考え始める。コンビニにもう一度行くべきか迷ったが、結局カップ麺に決めた。だがまだ空腹は感じておらず、食べることはない。
男はただただぼうっとした。何か考えなければならない気がする。だが何も思いつくことはなかった。次第に微睡み始め、気がつくと二十一時四分になっていた。
ふと思い立ち、AIチャットに「今日も何もしなかった」とだけ投げる。
「それも一つの選択ですね! 休むのもたまには必要です。何もしなかった日も、心や身体を休める大切な時間ですよ。無理せず、自分のペースで大丈夫です。今日という日は、あなたが生きたという証です。それだけで、十分価値があります」
チャットサービスからの回答に男は何も感じなかった。ただ、スマートフォンを床に投げた。
しばらくして風呂に入る。男の風呂のペースは約週に二回のみである。今日は気が向いたので湯浴みをすることにした。
風呂にある鏡で全裸になった身体を見る。
「これ……僕か?」
どこか別人のような感覚がした。だが他の誰でもない。自分であるのに間違いないのに、自分でないような気がした。
落ち着かない心持ちのまま風呂を出る。ドライヤーはしなかった。今日何かをした訳ではないが、身体は疲れ切っていた。スマートフォンでSNSのトレンドを意味もなくチェックしながら、ぼんやり過ごす。
二十二時になり、カップ麺を食べ始める。ぐにぐにのゴムを食べているような感覚がした。
食後、男はベランダへ出た。一日一本と決めている煙草を吸うためである。慣れた手つきで煙草に火を付け、肺に煙を送り込む。脳が喜んでいるように感じられたが、一瞬のうちに消えた。半分程吸い終えると携帯灰皿に吸い殻を入れ、部屋に戻った。
布団に入り動画サイトのショート動画を垂れ流す。女が踊っている。男が雑学を述べている。動物が喋っている。それらは目には入ったが、何一つ心を通過していかなかった。何の感情も男に与えなかった。
二十三時、そろそろ寝ようと電気を消す。暗闇の中、淡々とマージゲームをする。ただ同じものを揃えて合成していくだけ。楽しいとも思わなかった。
零時三十一分、就寝。浅い眠りのなか、不穏な夢に埋没していく。
――これがこの男の日常である。
三十二歳、独身。二十五歳の時両親を事故で亡くし、遺産を食い潰して生活している。幼い頃から夢を持たない人間であった。なりたいものも、なりたくないものもなかった。流されるまま生き延びて、今はこのアパート『ほたる荘』に住みついている。
男はいつ死んでもいいと思っている。だが、死ぬほどの理由もなかった。感情もない。感動もない。思想もない。才能もない。やる気もない。人付き合いもない。
男には何もなかった。
無論、男の部屋にも。
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