第2話 Hollow Day

 廊下を進むごとに、風のような流れが肌を撫でた。


 内部風が吹くのは、本来この都市では異常だ。それでもミレイには、不思議とその冷たさが心地よい。


「サー……やっぱり風、入ってるよね」


『はい。構造破損部から外気が侵入しています』


 淡々とした返答。


 だが、その無機質さが今はありがたかった。


 目覚めてからずっと揺れていた地面が、サーの声だけは揺れなかったから。


 廊下の先に、薄い光の層が見える。


 照明ではない。


 もっと柔らかく、もっと遠い光。


「……ねえ、サー」


『はい、ミレイ』


「あなたは、こういう“異常”を見たとき……どう感じるの?」


 問いながら、自分でも奇妙だと思った。


 四百年の眠りから覚めてすぐの会話にしては、あまりにも抽象的だ。


 サーは少し処理時間をとってから答えた。


『私は、異常値を“理解すべき情報”として扱います。

 ただ……あなたがこの風に触れたときの反応は、記録データと異なります』


「どう違うの?」


『あなたは、驚きと……興味を同時に示しています』


 ミレイは少し笑ってしまった。


「そうかも。

 怖さと好奇心が一緒になってるのが、人間らしいのかもしれない」


『“らしい”……』


 サーはその言葉を反芻するように、微かにレンズを揺らした。


 その仕草が、なぜだろう。


 ミレイにはひとつ歳の離れた誰かが、言葉を覚える途中のようにも見えた。


 そんなふうに感じてしまう自分に、ミレイはわずかな戸惑いを覚える。


 ふたりの足音が響くたび、静寂が欠けていく。


 そして、廊下の先で視界が一気に開けた。


『前方、構造欠損部──青空孔です』


「……きれい……」


 言葉がこぼれた。


 巨大な円筒の壁が破れ落ち、そこから空が覗いている。


 都市の内部に、直接の空の色が差し込んでいた。


 影が濃くなり、光が鋭くなる。


 壊れた断面に細い植物が根づき、光に向かうように揺れていた。


「こんな空、久しぶりに見た……」


『“久しぶり”──過去との比較表現ですね』


「うん。

 ……サーには、こういう景色、どう見える?」


 ミレイはそっと問いかけた。


 サーは空ではなく、壊れた都市の断面を見つめていた。


『私は……欠損と認識します。

 本来存在しないはずの構造が破れ、不要な外気が侵入している。

 しかし──』


「“しかし”?」


 促されるように、サーは言葉を続ける。


『あなたがこの景色に“肯定的反応”を示しているため、

 私の評価が揺れています』


 ミレイはゆっくり息を吸った。


「……人間はね、

 壊れていても、美しいと思えることがあるんだよ」


『美しい。

 その評価基準は、定量的ではありませんか?』


「うん。ぜんぜん。

 でも、だからこそ……誰かと一緒に見る意味があるのかもしれない」


 サーはその言葉をまた沈黙の中で噛んでいるように見えた。


 ほんの少しの間、レンズの明滅が弱くなる。


 感情と呼ぶには程遠い。


 しかし、何かを理解しようとしている温度だけは確かにあった。


 風が吹き抜けたとき、サーの通信モジュールが僅かに反応した。


『……ミレイ。

 微弱信号を検知しました』


「信号?」


『通常の救難チャンネルとは異なります。

 解析中……帯域が、上層行政チャンネルに近似します』


「行政チャンネル……。

 生態維持局の……?」


 ミレイの胸の奥がざわりと揺れた。


 サーはかすかなノイズを拾いながら続ける。


『私は、本来この帯域を受信する構造ではありません。

 しかし、構造欠損部を通して、遮断されていた信号が直接流入している可能性があります』


「じゃあ……ずっと、聞こえてなかった?」


『はい。

 私は長期間、この信号を検知できていませんでした』


 淡々とした語り口なのに、どこかだけ温度が低い。


 それは冷たさではなく──


 不具合のような、揺らぎのような。


 ミレイは思わず声を落とす。


「……辛かった?」


『私は、感情エミュレーションが限定的です。

 ただ──記録ログには、

 “目的を果たせなかった時間”が蓄積されています』


 サーの言い方は、どこか途切れ途切れだった。


 ミレイは空ではなく、サーの横顔を見つめた。


 表情などないはずなのに、不思議と“触れたくなる”静けさがそこにあった。


「サー……行こう」


『行く、とは?』


「この信号の先へ。

 誰かが、なにかが──呼んでるんだよ」


 サーのレンズがわずかに強く光る。


『ミレイが、そう判断するなら』


「判断……って言うほど立派なものじゃないけどね。

 ただ……行かなきゃって思うだけ」


『理解しました。

 あなたの“思う”を、行動指標に組み込みます』


 その言葉が、不思議と柔らかかった。


 指標というには曖昧で、言葉というには不器用な温度。


 ふたりは青空孔を背にして歩き出す。


 ミレイの足音はまだ頼りない。


 サーの足音は一定で、揺れない。


 その二つのリズムが、次第に混ざりあい、


 都市の影の中へ溶けていった。


 その奥で──


 微弱な信号が、かすかな心臓の鼓動のように脈打っていた。

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