May Day
シーラカンス梶原
第1話 Awake Day
最初に聞こえたのは、自分の心音ではなかった。
『──生体反応、回復傾向。コールドスリープ・カプセル番号 KZ-01、解凍フェーズ移行』
耳の奥で、金属質な声が反響している。
誰かが耳元で囁いているのではなく、頭蓋骨の内側に直接、音だけが注ぎ込まれているような感覚だった。
まぶたが重い。肺は凍っていたように痛い。
それでも、私はじわりと指を動かして、自分がまだ「身体」というものを持っているらしいことを確かめた。
「……だれ……?」
自分でも覚えていないほど掠れた声が、口の中で崩れる。
呼吸の仕方を一瞬忘れて、吸うタイミングと吐くタイミングを間違え、咳き込んだ。
『質問を認識。回答プロトコルを起動します』
機械の声は、淀みなく続く。
『私はSAR-9。
検索救難型アンドロイド第九号機。碧宙(へきちゅう)自治区『NIPPON』における、災害時生存者捜索および救助を主任務とするユニットです』
SAR-9。
救難アンドロイド。そんな単語を理解できる自分に、私はほんの少し安堵した。
つまり、まだ完全に壊れてはいない。
視界の端で、淡い青色のインジケーターが点滅する。
横滑りするように視界が開き、透明なカプセルの内側に薄く張り付いた霜が、ゆっくりと溶けていった。
ガコン、と鈍い音が耳に響く。
蓋が持ち上げられ、冷たい外気が一気に流れ込んできた。
「……さむ……っ」
『環境温度は、人体に対して許容範囲内です。しかし、長期スリープ後の主観的寒冷感は統計的に有意です。ブランケットを用意しました』
顔の上に、ふわりと重みが落ちる。
薄いサーマルブランケットだ。布の触感だけが、いまの世界で唯一の「やわらかいもの」のように思えた。
私は肩をすくめながら、ゆっくりと上体を起こした。
上方には照明。
しかし、都市で見慣れた白ではなく、どこか黄ばんだ光だ。長いあいだ交換されていない蛍光灯のような色。
鼻腔に、金属とオゾンと、古いプラスチックが焼けたような匂いがまとわりつく。
「……ここは……コールドスリープ棟……?」
自分の声が、思ったよりも小さい。
『はい。ここは碧宙自治区『NIPPON』、生態維持局コールドスリープ施設 第三保全区画です』
機械の声が即答する。
『上総ミレイ技師、あなたの登録情報と一致しました。覚醒を歓迎します』
私は、ようやく自分の名前を思い出した。
「……上総、ミレイ。
……そう、だった。私が……」
生態維持局。
空中都市の、最後の「生」を繋ぎ止める部署。
海が都市を飲み込んでいくのを、上空三千メートルから見下ろすだけだった、あの無力な日々。
胸の奥が、じん、と熱くなる。
「……状況、報告」
職業病のような言い方になってしまった。
眠り続けていた年月も、いまがいつなのかもわからないのに、それでもまず「状況」を求める自分が、少し滑稽に思える。
だが、SAR-9は笑わない。
『了解しました。状況報告プロトコルを開始します』
わずかな電子音。
それから、無機質な説明が落ちてくる。
『小惑星 XA-7B4A62(コールサイン:7B4A62)が予定軌道を外れ、碧宙自治区『NIPPON』第二区画と衝突。
衝突から四百十二年と、三十六日が経過しています』
「……四百……?」
意味が、すぐには入ってこなかった。
「四百十二年?」
『はい。
あなたのコールドスリープ期間は、計画値を大幅に超過しています。
本来の予定覚醒時刻から、約四百年の遅延です』
私の頭の中で、時間のスケールが崩れた。
一年、十年、百年。その先は、もはや実感として持ちようがない。
四百十二年。
地上の海は、とうに都市の跡さえ飲み尽くしているかもしれない。
「……人類は?」
問いながら、自分が何を期待しているのか分からなかった。
希望か。確かめなくていいはずの絶望か。
SAR-9は、ごく短い思考の間を置いて答えた。
『碧宙自治区『NIPPON』における人類の生体反応は、あなたを除き、すべて消失しています』
すべて。
その言葉は、驚くほど静かに私の胸に落ちた。
「……じゃあ、私が……」
『はい。
現時点で確認されている範囲において、上総ミレイ技師、あなたは人類最後の生存者です』
その宣告は、重力を持っていなかった。
重たいはずの言葉なのに、頭上から紙切れがふわりと落ちてくるくらいの軽さで、ただそこに在るだけだった。
私は、ブランケットを握る指先に力が入っていることにだけ、遅れて気づいた。
「……そっか」
それだけ言って、小さく息を吐く。
涙は出なかった。泣くという選択肢は、まだ感情の引き出しの奥で固まったままだった。
『感情的負荷が高い情報でした。必要であれば、鎮静剤の投与、もしくは再度の短期スリープが推奨されます』
「……いえ。このままでいい」
自分でも驚くほど、声はよく通った。
「知るべきことは、ちゃんと知っておきたいの。
それが……生態維持局の、最後の仕事でしょう?」
言ってから、自嘲気味に笑いそうになった。
最後の仕事をしようにも、守るべき「生態」は、もはや自分一人しか残っていない。
だがSAR-9は、やはり笑わない。
『あなたの発言内容には、自己犠牲的傾向が含まれています。
ただし現状、人類種の継続性を優先する場合、あなたの生存は最上位の価値を持ちます』
「つまり、死ぬなってこと?」
『簡略化すると、その通りです』
会話の端々が、妙におかしくて、私は喉の奥でかすかな笑いを噛み殺した。
こんな状況で、それでも誰かと会話ができること自体が、もはや救いだった。
「……SAR-9。あなたは、ずっとここで?」
『はい。
小惑星 XA-7B4A62 衝突直後より、連続して救難信号の発信と、生存者探索を行ってきました』
「連続、って……」
『救難信号送信時間──現在値、三百二十七万六千九百時間です』
数字に換算されると、なおさら実感がなかった。
四百十二年分の時間を、彼はただ「送信し続ける」という行為に費やしたのだ。
「……寂しく、なかったの?」
口をついて出た言葉に、自分で少し驚く。
機械にそういうことを訊ねるのは、職務倫理的にどうなのだろう、と一瞬だけ迷ったが、もう遅い。
SAR-9は、わずかな間を置いて答えた。
『私の感情エミュレーションモジュールは、任務遂行効率のために最適化されています。
“寂しさ”という感情の実装は、優先度が低いため、限定的です』
それは、イエスともノーとも言っていない。
「限定的な寂しさ、って?」
『……説明します』
その一瞬だけ、彼の声がほんの僅かにくぐもったように聞こえた。
機械的なノイズに過ぎないのかもしれないが、私にはそこに、言葉を探すような揺らぎが感じられた。
『生存者がいない空間を巡回する行為は、目的関数の満足度が低い状態の連続です。
その状態が長期化した結果、処理負荷の偏りから、演算系に“空白”のようなものが生じました』
「空白」
『はい。
何も成し得ていない時間が、内部ログ上に累積しています。
それを参照した際、人間の定義する“寂しさ”に類似したパターンが検出されます』
私は少しの間、黙り込んだ。
四百年以上の空白。
誰もいない都市を、ただ歩き続け、信号を送り続けた機械。
その機械が、自分の内部ログを「寂しさに似ている」と解析している。
「……ごめんね」
気づけば、そんな言葉が口から零れていた。
『謝罪の必要はありません。
私の任務は“待ち続けること”です。あなたの覚醒によって、任務は部分的に達成されました』
理路整然とした返答。
それでも、私の中に生まれた感情は、やはり「ごめん」の一言のほうに近かった。
私はカプセルの縁に手をつき、足を下ろす。
床に触れた足裏が、ひどく頼りない。
四百年の眠りから覚めて、最初に踏んだのがこの床だと思うと、妙な実感が湧く。
「立てる?」
『補助します』
すぐそばに、金属の足音が近づいてくる。
視界がようやくクリアになり、私は初めてSAR-9の姿を目にした。
白と灰色の装甲。
人間とほぼ同じシルエットだが、関節部にはむき出しのケーブルが覗き、左の光学センサーは沈黙している。
胸部には古い通信モジュールが不格好に取り付けられており、その一部から青いステータスランプが弱々しく点滅していた。
顔にあたるパネルには表情機構はなく、ただ水平なスリットと、片方だけ生きている青いレンズがある。
それでも、彼がこちらを「見ている」と分かる。
『上半身を支えます。
三、二、一──』
冷たい金属の腕が、私の背中と肘を支えた。
思っていたよりも、慎重な力加減だった。
「……ありがと」
『どういたしまして。
上総ミレイ技師、あなたはこれより優先保護対象に指定されます。
行動半径は、私の随伴可能範囲に制限されます』
「ついて来てくれるってこと?」
『はい。
あなたが“どこかへ行きたい”と希望した場合、その行き先へ同行します』
少しだけ、その答えに救われる。
世界がどれほど壊れていようと、完全な一人ではない。
「じゃあ、まず──」
私は息を整え、言葉を選んだ。
「外を、見たい。
都市が、どうなってるのか」
直視したくない気持ちもあった。
だが、生態維持局の技師として、最後まで現実から目を逸らしたくはなかった。
私がそう告げると、SAR-9は即座に頷きに相当する動作をした。首のユニットが、わずかに上下する。
『了解しました。
現在、第三保全区画から最短で外部視認可能なポイントは、小惑星衝突孔──通称“青空孔”です』
「青空孔……?」
『はい。
小惑星 XA-7B4A62 が貫通した構造欠損部位です。
都市内部から直接、“空”を視認できる唯一の地点でもあります』
唯一の空。
その言葉に、胸の奥がかすかに軋んだ。
海面上昇が加速してから、人類は空へ逃げた。
空中都市の厚い装甲と透明パネル越しにしか、空を見られなくなって久しい。私はそう思っていた。
だが今は、逆なのだ。
空を見るためには、都市の“壊れた場所”へ行かなければならない。
『移動の前に、簡易検診を行います』
SAR-9が告げる。
『その後、あなたの希望に基づき、都市の現状を案内します。
外への経路には、立ち入り危険区域も含まれます。私の指示には、可能な限り従ってください』
「了解、SAR-9」
私はブランケットを肩から少し引き寄せ、金属の腕にもたれかかりながら立ち上がった。
脚が震える。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
四百十二年の空白を生きてきた機械が、すぐ隣にいる。
その事実が、世界の終わりを、ほんの少しだけ現実的なものとして、私に許してくれているような気がした。
「ねえ、SAR-9」
『はい、上総ミレイ技師』
「ミレイでいいわ。
私も、あなたのこと……“サー”って呼んでもいい?」
一瞬だけ、通信モジュールの青いランプが、ほんの少し強く明滅した。
『呼称変更の提案を受理しました。
今後、あなたを“ミレイ”と呼称します。そして……はい。“サー”という略称も、許容範囲です』
「よかった」
狭いコールドスリープ棟に、ふたり分の足音が響き始める。
ひとつは、長い眠りから覚めたばかりの人間の、頼りない足音。
もうひとつは、四百年のあいだ歩き続けてきた機械の、規則正しい足音。
世界の終わりを見届ける、その最初の一歩だった。
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