第3話

 雨の土曜だった。


「何読んでるの?」


 激しい雨のせいで客足はほとんど無く、学生達ももう校内には残っていないだろう夕間暮ゆうまぐれ。


 水切りかごに伏せてあるグラスを拭きながら、肩越しに問いかけた。いつもの単行本とは違う厚い大きな本が、なんとなく気になって。


「童話……、の原書」

「へぇ、すごいね。もしかして中身全部、向こうの言葉?」


「ううん、ところどころ注訳がついてる。それに、ストーリーは、わかってるから」


 利人の感心したような口調に、少女の頬に赤味がさす。パタンと本を閉じて、ためらいがちに口を開く。


「私ずっと、童話って、好きになれなくて」


 雨はおとろえることなく、窓を叩いていた。


「でも、原書は違ってるって、そう聞いたから」


 途切れ途切れの声が、細く雨音に絡んでいく。


 何気ない問いかけのはずが、少女にとっては不意打ちだったのかもしれない。言葉はまるで言い訳のように重ねられる。


「確かに、微妙に違ってはいるけど、もし好きになるためだとしたら、おすすめはしないね」


「マスター、知ってるの?」

「ちょっとだけね」


 思い出せる、記憶の欠片かけら辿たどりながら、付け足す。


「悪役に対するらしめ方が残酷すぎて、僕はシンデレラだけでギブアップしたよ。だってさ、意地悪だったお姉さんたちは、ガラスの靴を履くために足を切って、それだけだって痛いのに、最後には鳩に目をくりぬかれるってひどくない? その上、肝心かんじん筋書すじがきは、和訳わやくたいして変わんない」


 その言葉の意味を問うように、少女がまばたく。


「ご都合主義つごうしゅぎの、めでたし、めでたし」


 利人のちゃかした言い方に、少女の口元にごく微かな笑みが浮かぶ。


「足を切らせたり、目をくり抜いたりしておいて、それはないだろうって思わない?」


 少女が笑みが、深くなる。


「主人公だけが幸せになれば、あとはおかまいなしって世界だよ」


 最後のグラスを拭き終え、利人がくるりと振り返る。


「僕もね、童話って嫌いなんだ」


 次の言葉を待って、少女が利人を見上げる。


「なんかさ、童話の世界って善と悪が、きれいにスッパリわかれてるでしょ? まぁ、そうしなきゃ物語にならないんだろうけど、現実に善の部分だけの人間なんているわけないって思うし、もしいたら気持ち悪い。それに〝どんなにいじめられても、優しい素直な心をなくしませんでした〟なんて、そんなことあると思う?」


 軽く腕組みした格好で滔々とうとうと話し出した利人に、少女がくすくすと笑う。少女の笑顔に後押しされて、利人が続ける。


「僕は思ったね。それは偉いことでもなんでもなくって、ただ単に自分が虐められてるとか、酷いことされてるってことに、本人が気づいていないんじゃないかってね。童話の主人公って、どっか白痴的はくちてきじゃない? 無垢むくって言えば聞こえはいいけど、僕はそうは想わない。彼らは無垢なんかじゃなくて無知むちなんだよ。だから傷つかない」


 少女の口元から、笑みが消える。


「彼らはその愚鈍ぐどんさのおかげで、ずっと素直でいられるんだよ」


 そう言って、少女の瞳を覗き込んだ。


「私も、人が善良ぜんりょうなモノだなんて、信じてない」


 利人の視線をわずかにそらして、続ける。


「人は、善でありたいって願いながら、絶対に善にはなりきれないモノだって思う」


 冷めた表情で、言い切る。


「だから良いことばっかり書かれている主人公が、なんだか嘘っぽくて、好きになれなかった」


 薄くまぶたを伏せて、納得したようにこくんと頷く。


「でも、そうだね。マスターが言うように、他人の悪意に気づけない鈍感どんかんな人なら、それも有りかもしれないね」


 少女の横顔に、人形のように体温を感じさせない、陶器とうきの笑みが浮かぶ。


「傷つけようとする人たちの悪意を、気づけないことで傷つけ返しながら、童話の主人公はいつまでも、綺麗なままでいられるんだね」


 利人の子供じみた意地悪な演説が、少女の言葉と共鳴きょうめいした。

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