幻のシチュー
アヌビアス・ナナ
第1話
祖母が亡くなって四十九日。エス氏は、遺品整理の最後に、キッチンの隅に置かれた旧型の家事手伝いロボット「バアバ・ロイド」を起動させた。 目的はただ一つ。祖母が得意だった、あの絶品の「ホワイトシチュー」のレシピを聞き出すことだ。
「起動しました。あら、エスちゃん。お腹空いたの?」 ホログラムの祖母は、生前と変わらぬ穏やかな笑顔で現れた。
「ああ、久しぶりだね。……実は、ばあちゃんのシチューが食べたくてさ。作り方を教えてくれないか?」 『ええ、もちろん。でも、あれはとっても手間がかかるのよ?』 「構わないよ。僕ももう大人だ。ばあちゃんの味を継ぎたいんだ」
AIの祖母は嬉しそうに目を細め、レシピの読み上げを開始した。 それは、エス氏の想像を絶する工程だった。
「まずはタマネギを、飴色になるまで弱火で四時間炒めます」 「四時間!?」 「ええ。焦がしちゃダメよ。次は鶏ガラと香味野菜でスープストックを取ります。これも半日煮込んで、丁寧にアクを取ってね」
エス氏は驚愕した。祖母はいつも、夕方の忙しい時間にササッとこれを作っていた気がする。まさか、自分が学校に行っている間に、これほどの時間を費やしていたとは。 「隠し味には、三種類のハーブと、白ワインを煮詰めたものを……」
指示はあまりに繊細で、化学実験のようだった。 エス氏は汗だくになりながら、休日は朝から晩までキッチンに立ち続けた。 炒め、煮込み、裏ごしし、温度管理を徹底する。 「ばあちゃんは、僕のために毎日こんな苦労を……」 鍋をかき混ぜながら、エス氏の目頭が熱くなった。祖母の深い愛情が、湯気となって顔を包み込む。
丸二日かけた日曜日の夜。ついにシチューが完成した。 震える手でスプーンを運び、口に含む。
「……これだ」
濃厚で、クリーミーで、どこか懐かしい甘み。 まさしく、子供の頃から慣れ親しんだ「ばあちゃんの味」そのものだった。 完璧な再現に、エス氏は涙を流した。
「ありがとう。本当に美味しかった。ばあちゃんの愛、しっかりと受け取ったよ」 『お粗末さまでした』 AIの祖母は満足げに微笑み、バッテリー残量の警告とともに、静かにシャットダウンした。
エス氏は感動の余韻に浸りながら、後片付けを始めた。 ロボットの背面パネルが開いているのに気づく。メンテナンスが必要なようだ。 彼はふと、内部のメモリログに「レシピ計算履歴」という項目があるのを見つけた。
つい魔が差して、彼はそのログを開いてしまった。 そこには、先ほどの複雑怪奇なレシピが構築された「演算プロセス」が記録されていた。
【検索対象:マスター(祖母)の得意料理『特製シチュー』】 【解析結果:市販レトルト食品『とろとろ濃厚シチュー(メーカー生産終了品)』】
エス氏は手を止めた。 画面をスクロールする。
【課題:対象製品は生産中止のため、入手不可能】 【解決策:現存する高級食材と調理法を組み合わせ、化学組成および味覚データを、当該レトルト食品と『完全に一致』するよう再構築する】
その下には、AIが弾き出した膨大な計算式が並んでいた。 「タマネギの加熱時間4時間=レトルト特有の過加熱臭の再現」 「数種のハーブ=保存料と香料の風味の模倣」
エス氏は、空になった鍋を見つめた。 自分が二日間かけて作ったのは、最高級の食材と手間暇をかけて再現した、「1袋100円のレトルトの味」だったのだ。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。 祖母は料理が得意なわけでも、苦労人でもなかった。ただのズボラで、レトルト好きの愛すべきおばあちゃんだったのだ。 だが、生産終了してしまったその「安っぽい味」を、孫にもう一度食べさせるために。 この旧式ロボットは、持てる演算能力の全てを使い、嘘のような高級レシピを捏造したのだ。
「手間がかかるわけだ……」
エス氏は、まだ温かいロボットの頭を一度だけ撫でた。 その味は、真実を知る前よりも、ずっと温かく、尊いものに感じられた。
幻のシチュー アヌビアス・ナナ @hikarioibito
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます