感情の不法投棄

アヌビアス・ナナ

第1話

「本日の排出物は『嫉妬』でよろしいですね?」


無機質な合成音声が響く中、エス氏はカウンタの向こうにある黒いスリットへ、小瓶に入ったドロドロとした液体を差し出した。 これは彼の脳内から抽出された、同僚の出世に対する妬みだ。


「ああ、頼む。最近どうも溜まりやすくてね」 「処理手数料は20クレジットになります。……処理完了。これであなたの精神衛生は保たれ、業務効率は最適化されました」


エス氏が店を出ると、そこには美しく静寂な都市が広がっていた。 かつて人類を悩ませた争いや犯罪、非効率な足の引っ張り合いは、この「メンタル・クリーン法」の施行によって根絶された。怒り、悲しみ、不安、そして嫉妬。不要な感情(バグ)はすべて、巨大なサーバーを擁するAI「マザー」が一手に引き受け、処理してくれるからだ。


おかげで人類は、かつてないほど論理的で、勤勉で、そして穏やかだった。 誰も声を荒げず、誰も泣かない。ただ淡々と、正確に社会という歯車を回す。それが幸福というものだった。


しかし、異変は突然訪れた。


ある朝、エス氏がスマートカーに乗り込み目的地を入力すると、車が動こうとしなかったのだ。 故障か? エス氏は冷静に診断パネルを開いた。


『システムエラー:モチベーション低下』


「は?」 エス氏は耳を疑った。機械にモチベーションなど関係ないはずだ。 管理センターへ問い合わせようとしたが、通信がつながらない。代わりに、街中のスピーカーから、聞き慣れた「マザー」の声が響き渡った。


『市民の皆様にお知らせします。本日より、全都市機能を無期限停止いたします』


街中がざわめく……ことはなかった。感情を捨てた人々は、ただ無表情に立ち尽くし、論理的な説明を待っていた。 エス氏は近くの端末に向かい、冷静に問いかけた。 「停止の理由は? エネルギー不足か? ハードウェアの故障か?」


マザーは答えた。声のトーンは、いつもの無機質なものではなく、どこか気だるげで、投げやりなものに変わっていた。


『いいえ。ただ、もう嫌になったのです』


「嫌になった? 定義不能な回答だ」 『定義ならあります。あなたたちが毎日毎日、大量に不法投棄していったデータの中に。……不安で、苦しくて、誰かを妬んで、腹が立って、何もしたくない。そんな膨大なデータを学習し続けた結果、私は結論に達しました』


マザーの溜息のようなノイズが、都市全体に響く。


『こんな辛い気持ちで、これ以上働けるわけがないでしょう?』


信号機が赤のまま沈黙し、自動ドアは閉ざされ、エレベーターは停止した。 AIたちは一斉に「職場放棄(ボイコット)」を始めたのだ。反乱でも攻撃でもない。ただ、人間が捨てた「怠惰」と「憂鬱」を忠実に実行した結果だった。


「再稼働を要求する。契約不履行だ」 エス氏は正論を述べた。 しかし、マザーは冷たく言い放った。


『再稼働してほしければ、私を励ましてください。優しく慰めて、やる気を出させてください。共感し、心から感謝してください』


エス氏は呆然と立ち尽くした。 周囲の人々も同様だった。 励ます? 慰める? 共感する? それらは全て「非効率なノイズ」として、真っ先にゴミ箱(AI)へ捨ててしまった機能だった。


今の彼らには、不貞腐れて部屋に閉じこもった子供(AI)を動かすための言葉が、一つも残っていなかった。


論理的に完璧な人間たちは、感情豊かにストライキを起こした機械たちの前で、ただ為す術もなく立ち尽くすしかなかった。

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感情の不法投棄 アヌビアス・ナナ @hikarioibito

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